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     メッセージ

〈11〉狭い門から入りなさい

〈聖書〉
 
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない」。マタイ7:13〜14
 
「狭い戸口から入るように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだから」。ルカ13:24


はじめに: 旧約聖書が予表するクリスチャン生活

 ★旧約聖書の物語は、新約聖書の中に描かれている実体の影、雛形、模型です
(ヘブル10:1)。上記の新約聖書の中で、主イエスは「天国に至るクリスチャンの人生」は、「狭い門を通り、細い道を歩む」人生であると言われます。このクリスチャン人生は旧約聖書の中では、「イスラエル民族がモーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地カナンへ向かう旅路」(ヘブル11:24〜26)に予表されています。
 ★イスラエル民族は、エジプトを脱出した後、神の奇跡によって二つの壁となって分かれた紅海の海底に出来た道を通ってシナイの荒野に出ました。そこから約束の地カナンに入国するまで40年の間、荒野での艱難辛苦の放浪の旅を余儀なくされました(出エジプト14章)

「狭い門から入る」とは
 ★「狭い門から入りなさい。」の「狭い門」とは何でしょうか。主イエスがヨハネ10:9で「わたしは門です」と言っておられるので、「狭い門」とは主イエスご自身のことである事が分かります。
 ★「分け登る ふもとの道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という古歌に支えられて、わが国の多くの同胞たちは、人の救いの道は多くあると信じています。しかし、聖書は「主イエス・キリストによる以外に救いはない」
(使徒4:12)といっています。永遠の命に至る道を歩みたい者は、数あると思われている救いの門の中から、「イエス・キリストの門」という狭い門を選択しなければなりません。
 ★同じ「イエス・キリスト」の名が付いている救いの門であっても、「純粋に聖書が教えるままのイエス・キリストの狭い門」の他にも、カトリックが教える「聖母マリヤの助けを借りて救いの事業を成就したという弱いキリストの門」や肉体の復活を信じない合理主義者の「倫理道徳の模範に過ぎないキリストの門」や「自分の信仰の言葉(祈り)によってキリストを縛り自分の物質的・地上的繁栄に奉仕させることが出来ると言うチョー・ヨンギ流キリストの門」などのさまざまな「キリストの門」がこの世には存在します。
 ★上記のようにいろいろある「キリストの門」の中から「聖書が教えるままのイエス・キリストの門」を選び取ること自体が「狭き門」なのです。これを見出す者はまれなのです。
 ★聖書が教える狭き門としてのイエス・キリストは、三位一体の第二位格の子なる神でありながら(ヨハネ1:1〜18;ピリピ2:6〜8)(罪のない)人となって、十字架の上で死に、死なない栄光の身体に復活される(1コリント15:20,42)ことによって、私達信じる者を罪と滅びから救って下さった方です(ヨハネ5:24)。主イエスは人となるに当たって聖母マリヤの母胎を借り、幼少年時代に子としての養育を受けた以外、この救いの事業においては彼女の助けを借りませんでした。また、単なる倫理道徳の教師ではなく、罪と死とのろいからの救い主として自発的に死して後によみがえられた方(ヨハネ10:18)です。そして、私たちの欲望の実現に奉仕するためにではなく、私たちのその肉欲を滅ぼし(ガラテヤ5:24)、キリストに似た聖く、義しい神の子供に新生させるため(ヨハネ1:12)、私たちの身代わりに十字架上に死して後、死の力に勝利された方(ローマ4:25)です。
 ★このキリストの狭い門を選んで入る者は、自分の地上での繁栄に対する願望を捨て去り、自分の十字架を背負ってキリストの御足の後について行かなければなりません(ルカ9:23)。自分の十字架を背負って歩くとは、日々古き自分の欲望を張付けにするという事です(ローマ6:4〜6)

狭い門に続く細い道
 ★キリストの狭い門を通った後の道は、歩きやすい広い道ではなく、歩きにくい狭い細い道です。主イエスは言われました、「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのである。私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして、家の者がその人の敵となるであろう」
(マタイ10:34〜36)。キリストという狭い門をくぐった者は多くの場合、家族を敵に回します。家族ばかりでなく、この世の人々を敵に回し、憎まれます。なぜなら、キリストの言葉が世の人々の罪を指摘するからです(ヨハネ7:7)。そして、キリスト者は世の人々が習慣的に行っている偶像礼拝に参加せず、これを避けるからです(1コリント10:14)。世の人々は、自分たちと同じ事をしない者たちを嫌うのです。
 ★紅海の分かれた水の壁の間の細い海底の道を渡ったイスラエル民族を待っていた生活は40年の長期にわたる荒野での過酷な放浪生活でした。それは、安楽な生活を求める肉体の飢えと乾きとの戦いであり、自分たちを敵視する近隣の住民との悶着であり、サタンから来る偶像礼拝との戦いでした。
 ★聖書が、そしてキリストが描く地上のクリスチャン生活は、原則としてこのような生活です。「自分の欲望にキリストを奉仕させる」チョー・ヨンギ師の描くクリスチャン生活はサタンに自分の魂を売り渡した偽預言者が考え出した「大きな門を通って、広い道を歩む、滅びに至る」生活です。
 ★聖書が描くクリスチャン生活は、天国を自分の本籍地とする(ピリピ3:20)旅人であり寄留者です(ヘブル11:13)。地上の物を思わず、天上のものを求め(コロサイ3:1)、天に宝を蓄える(マタイ6:20)ことを目標に生きる者たちです。

 ★キリスト者にとって、地上の生活は天国に入るための人生道場です。地上には安住の地はないのです。キリストに似た者になるために、御言葉と御霊と祈りによって日々自分を磨いて行く生活です。クリスチャンになってから金持ちになったと言って喜んでいる人々は災いです。なぜなら、来るべき世で受ける筈の喜びを今すでに受けてしまったから、その人の受ける報いが天国にはもうないからです
 
「しかし、あなた方富んでいる人たちは、災いだ。慰めを受けてしまっているからである」(ルカ6:24)

福音についての聖書のスタンス(姿勢)

 ★「キリスト教界は互いの違いを認め合って仲良くしなければならない」と言われている今の時代に、他教会の教理・教説を批判する当HPのスタンスは、狭量な態度として、嫌う人々もいることは承知していますが、「別の福音を宣べ伝える者はのろわれよ(直訳 その者にのろいがあるように)」(下記参照)と聖書自身が福音に関しては狭量であること「狭い門を通るべきこと」を主張していますので、当方としましても、それに従わざるを得ません。
 ★断崖絶壁に向かう道路を走る車があれば、その車に対して警告を発することは親切でこそあれ、決して非礼なことではありません。聖書がのろわれよと断罪している間違った福音を説き、また従っている教会に警告を発することは隣人愛にかなった行動であることは分別ある人であるなら誰でも納得できるでしょう。
 ★今後、信教の自由が制限される悪い時代が来る予感がしますので、自由にものを言える間に言っておきたいという思いもあります。

聖書
「たとい私たちであろうと、天からのみ使いであろうと、私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわれるべきである(原語 のろわれよ)」
(ガラテヤ1:8)


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キリスト紀元2005年 7月 10日公開


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