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      主イエスのたとえ話

  
〈11〉パン種のたとえ

  
〈10〉からし種のたとえ

 ★聖書

 また、ほかのたとえを彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中で一番大きくなり、空の鳥が来て、その枝に宿るほどの木になる」。マタイ13:31,32


 
★からし種の大きさは直径約1mm、重さが1mg程だそうで、聖書の時代に畑で蒔かれる種のうち最小でした。普通のからし種は成長しても1.5m程にしかなりませんが、イスラエル地方のガリラヤ湖畔の種は成長すると3mに達するそうです。これほど大きく成長すると野菜とは思えず木のように見えます。

 ★このたとえ話の意味

A.天国は小さく始まり大きく成長する

 主の祈り
(マタイ6:9〜13)で「御国が来ますように」と祈るように主は弟子たちに教えられました。ギリシャ語で御国は「あなた(御父)の王国」、天国は「天の王国」で同じ神の国を意味します。イエス・キリストのご降臨によって天国(神の国)が地上に出現しました。この国は、へりくだった神の御子イエス・キリストと共に、からし種のように、目立たず、地味に、こじんまりと始められました。しかし、始めの12人の弟子が使徒行伝2章の聖霊降臨の直前に120人に、そしてその直後に3千人が一挙に改心して加わる(使徒2:41)などで、地上の神の国(教会)は激しい迫害の下にありながら、飛躍的に大きく成長して来ました。

B.空の鳥が来てその枝に宿る
 「大木がその木の枝に空の鳥を宿す」という表現は旧約聖書
(エゼキエル31:1〜9)の中では、世界の諸民族を宿し、彼らを養い、安らかに住まわせる繁栄した大国の様子を表現する比喩として用いられています。イスラエルで始まり、ユダヤの漁師や収税人出身者たちから成っていた小グループの神の国が世界の異邦人たちをも仲間に加える霊的大国家になる事がここで預言されています。
 ★また、この「空の鳥」(ギリシャ語では複数形「鳥たち」)は、先の「種まきのたとえ」では悪い者・サタンの象徴として登場しています
(マタイ13:4,19)。地上の神の国・教会は聖書の時代からサタンの教えを奉じる人々(異端)によって悩まされ、彼らと戦ってきました(ガラテヤ1:6〜8)。今日もその状況は変わりません。これは、いわば地上の神の国の定めのようなものです。
 「確かに、あなた方の中で本当の者が明らかにされるために、分派(異端)もなければなるまい
」(1コリント11:19)
 ★異端ばかりでなく、自分の心にサタンにつけこまれるすきを与えた
(エペソ4:27)牧師教会員(あるいは求道者)によって教会が被害を受けることもあります。

C.大木
 ★ガリラヤのからし種が大木に成長するとは言え、3mどまりです。それに、大きくなっても野菜であって樹木に変化したわけではありません。聖書に出てくる大木といえばレバノン杉といわれる香柏
(こうはく)があります。この木は聖書辞典によると高さ40m、周囲10m以上になり、聖地の木々の王者とされるほどの偉容をそなえているということです(いのちのことば社「聖書辞典」イザヤ2:13)。主イエスの御国はこの世の国ではないのです(ヨハネ18:36)。キリスト再臨の後に再創造される新天新地の出現する時まで、キリストの王国(教会)は、この世の国家や諸団体・組織に比べて、その外見が見劣りするのは避けられません。

D.このたとえ話は教会だけでなく、信仰者個人個人にも当てはまる
 ★キリスト者はその信仰において、そのキリスト者品性において、御言葉の実践において、キリストの身の丈まで成長することを目標に
(エペソ4:11〜16)、この世にいる限り、日々前進を続けて行くことを目指さねばなりません。教会もキリスト者も不況の中の自転車操業の企業のように、前進と成長を続けない限り、滅びが待っています。
 ★木が鳥に住家を提供し、食料を供給するように、困っている隣人に小さな親切の手を差し伸べる心がけを養わねばなりません
(ガラテヤ2:10)
 ★また、サタンに心の中に侵入する機会(足場・手掛かり)を与えないようにしなければなりません(エペソ4:27)。真のキリスト者であれば、その霊は聖霊の住家ですから、そこにサタンが住むことはありませんが、その精神(マタイ16:22,23)や肉体(ルカ13:16)に悪霊が宿ることはあるのです。罪を犯して、悔い改めることを意識的に拒否すれば、その人はキリスト者であっても、悪霊の支配下に置かれます。「よくよくあなた方に言っておく。罪を犯す者は、みな罪の奴隷です」
(ヨハネ8:34)

 ★キリストの御国(教会)はこの世のものではありません
(ヨハネ18:36)。キリスト者もこの世の寄留者であり旅人です(ヘブル11:13;ピリピ3:20)。教会もキリスト者も、世的に、外面的に、人々の目を引くことに力を浪費せず、内面的、霊的、品性的魅力を世に向かって発散する世の光、世の塩たることを目指さなくてはなりません(下記ご参照)

 ★
「あなた方は、地の塩である。・・・あなた方は、世の光である。・・・あなた方の光を人々の前に輝かし、人々があなた方の善い行いを見て、天にいますあなた方の父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:13〜16)

キリスト紀元2005年 2月 20日公開



〈11〉パン種のたとえ

聖書
また他のたとえを彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って、三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。マタイ13:33

 ★このたとえ話は教会史の観点からみると、決して表面的、一面的解釈で片付けられない内容を含んでいます。

このたとえの意味
 ★このたとえの中のカギになる言葉はもちろん「パン種」です。「パン種」は聖書の中では通常悪い意味で使われます。むかし、放置されたパンの生地がたまたま自然発酵して(すなわち腐敗して)ふくらんで来たのを見た人がパン作りに応用してから、パン種入りのパンが作られ始めた(多分古代エジプトで)と言われています。従って、「パン種」という言葉は、聖書の中では、霊的腐敗(悪意と邪悪)の象徴として用いられています
(1コリント5:6〜8)
 ★しかし、聖書のたとえの中での一つの言葉が、必ずしも一つの事柄だけを意味するとは限りません。たとえば、1ペテロ5:8で悪魔にたとえられているライオンが、黙示録5:5ではダビデの末、メシヤ・キリストを象徴しています。
 ★同時に、このたとえを解き明かすに当たって、主が言われたたとえ話の第一目的も十分に考慮に入れなければなりません。すなわち、たとえ話の第一の目的は、現代の話術での目的のように話を分かりやすくするためではなく、パリサイ人や律法学者のような傲慢で偏見の固まりのような人々から真理を隠すことが目標だという点です
(マタイ13:10〜15)

A.パン種を天国そのものの持つ影響力と取る場合の解釈
 ★女は教会を表し、三斗の練り粉はこの世を象徴することになります。新改訳では3サトンと原語の単位で表しています。1サトンは13リットルとありますから、3サトンの麦粉は39リットルになります。石油缶2缶以上になります。この量の粉に少量のパン種を加えて練ると練り粉全体が大きくふくらみ、大量のパンが焼き上がります。
 ★練り粉がパン種によって、さらに火の中で焼かれて、大きくふくらむように、初代のキリスト教会は激しい迫害の炎をくぐりながら短い期間の内に、当時の世界帝国であったローマ帝国全体に広がりを見せ、キリスト紀元380年にはローマ皇帝デオドシウスは、その勅令によって、ついにキリスト教をローマ帝国の国教にしてしまいました。
 ★そして、その時から、すなわち教会と国家権力とが結びついた時からキリスト教会の腐敗が始まりました。16世紀にマルチン・ルッターが宗教改革ののろしを上げるまで、教会の腐敗した状態は続いていました。しかし、そのような腐敗した環境の中にも主を畏
(おそ)れる敬虔な聖徒も綿々と存在していたのです。

この解釈に従った教え
 ★キリスト者は地の塩であり、世の光です
(マタイ5:13,14)から、自分の置かれた立場状況の中で最善の影響力を発揮することを主は期待しておられます。アブラハムがソドムの町に住む甥のロト一家のためにとりなしの祈りを捧げた時、彼は、ロトの一家には少なくとも10人の正しい人々がいると思い、神が「10人の正しい人々がソドムの町にいればその町は滅ぼさない」と言われたのを聞いて安心していました(創世記18:32)。しかし、残念ながら、ロトの家にはロト以外に正しい人は一人もいませんでした。この時のアブラハムの祈りで明らかになったことは、一つの町に10人の正しい人たちがいれば、神はその町を滅ぼさないということです。すなわち、信仰による義人(真のキリスト者)の存在は、それほどの価値と意義があるのです。
 ★また、一人一人のキリスト者に主は天国
(神の支配)がその心と言葉と行いの全面にわたって影響力が浸透することを求めておられます。口だけ、行いだけの外面的信仰者(マタイ5:20)ではなく、外面も内面も共にきよめられた幼子のように純真な信仰者を求めておられます(ルカ18:17)

B.パン種のたとえを教会腐敗の預言と取る解釈
 ★上記のようにキリスト教会の歴史を見てくると、パン種を文字通りに新約聖書の本流の中での腐敗の意味に取ることも可能であることが分かって来ます。
 しかし、この解釈は、主イエスの「天国は、パン種のようなものである」という御言葉としっくり行かないように思えます。「天国
(神の王国)(腐敗の象徴そのものとしての)パン種のようである」と解釈するのは無理なように見えます。「聖なるものが汚れたもののようである」という論理的にも矛盾する文言のようです。
 ★けれども、聖書には「キリストは再臨の時、盗人が夜中に不意に来るようにやってくる」という言葉があります(ルカ12:39,40)。これは、夜中に不意にドロボーに入られるように、世の大多数の人々にとってキリスの再臨の日は不意の出来事であり、裁きの日、災いの日となるということを表しています。
 ★また、「神は私たちの罪のために罪を知らない方
(キリスト)を罪とされた」というみことばがあります(2コリント5:21)。このみことばは「悪しき者を正しいとする者、正しい者を悪いとする者、この二つの者は共に主に憎まれる」(箴言7:15)という御言葉と矛盾するように見えます。しかし、このあり得ないことが、神の愛とキリストの恵みによって、十字架のあがないにおいて事実となったことを私たちキリスト者は知り、そして信じています。
 ★従って、聖
(きよ)い天国(神の国・地上の教会)が汚れたパン種によってほぼ全面的に腐敗させられているのを、神がご自身の深慮と忍耐によって黙認されていた時代が長く続いたという歴史的事実を私たちは認めざるを得ないと共に、このパン種のたとえが歴史を見通しておられる主による預言であると見ることは決して無理なことではないことが分かります。
 この解釈に立つと、女はサタンを表し、パン粉が教会を表すことになります。

この解釈に従った教え
 ★主イエスは地上の天国
(教会)が中世のキリスト教会のように全面的に腐敗堕落したかに見えるその中にも「神の国はその中に隠れた形ではあっても存在するのであり、神は地上にあってあなた方の中におられるのだ」と言おうとしておられるのです。
 ★旧約聖書列王上18〜19章にイスラエルの預言者エリヤの話が出ています。エリヤはイスラエルの悪王アハブに「カルメル山に偶像バールやアシェラの預言者たち総勢850人を集めよ。バールか天地の主か、どちらが神か、天から火を下して答える神を神としよう。」と勝負を申し込みました。その一大勝負に大勝利して、国民に「主こそ神だ。主こそ神だ」と叫ばせ、主の前にひれ伏させ、さらにバールの預言者たちを処刑させました。
 ★そこでアハブ王の邪悪な后イゼベルの不興にあい「明日の今頃までにお前の命を取る」と言われ、エリヤは彼女を恐れて荒野に逃げて行きました。荒野にいるエリヤに主が「あなたはここで何をしているのか」と問いかけると、エリヤは言いました。「私は一人で熱心に主に仕えてきました。しかし、彼らは私の命を狙っています。主よ、もう十分です。私の命を取ってください」。この時、主はエリヤに言われました。「私は、イスラエルに7千人のバールにひざをかがめなかった者たちを残している」。エリヤが自分ひとりの孤独な戦いだと思っていたその苦しい状況の中で、実は、神は着々とご自身の御業を進めておられたのです。
 ★事態が最悪とみられる状況の中でも神は私たちの味方(ローマ8:31〜39)として着々と事を進めておられるのであり、万事は最善になるように
(ローマ8:28、{益}と訳されている原語の意味は{善})運ばれているのですから、私たちキリスト者は「いつも喜び、すべてのことを感謝」することができる(1テサロニケ5:18)のです。
 キリストの十字架の苦しみの後に、栄光の復活が来た様に、キリスト者にとって最悪・絶望と見える状況の中にも主は共におられ、その後には必ず栄光と祝福の時が来るのです。

聖書の言葉
 ★「謙遜は栄誉に先立つ」(箴言)。
 ★
「それだけではなく、私たちは患難をも喜んでいる。なぜなら、患難
は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、私たちに賜っている聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからである」(ローマ5:3〜5)。

キリスト紀元2005年 3月 1日公開


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