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   主イエスのたとえ話

  
〈27〉失われた羊と銀貨のたとえ

 聖書
  1「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして集まって来た。2するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている』と言った。

 3そこでイエスは彼らに、このたとえをお話になった、4『あなた方のうちに百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、99匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは探し歩かないであろうか。5そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6家に帰って来て友人や隣り人を呼び集め、「私と一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」と言うであろう。7よく聞きなさい。それと同じように、罪人が一人でも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない99人の正しい人々のためにも勝る大きい喜びが、天にあるであろう。

 8また、ある女が銀貨10枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女は明かりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。9そして、見つけたなら、女友達や近所の女たちを呼び集めて、「私と一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから」と言うであろう。10よく聞きなさい。それと同じように、罪人が一人でも悔い改めるなら、神のみ使いたちの前で喜びがあるであろう』。」

   ルカ15:1〜10

T.失われた羊と銀貨のたとえ―その要約
 
A.失われた羊
 ★100匹の羊をもっている人がその内の一匹を失ったら、その一匹を探しに行き、見つけた時は友達らと大喜びする。
 
B.失った銀貨
 ★10枚の銀貨を持つ主婦がその中の一枚を無くしたなら、家中を探し回る。見つけたなら、友人らを集めて大喜びする。

U.これら2つのたとえの相違点と共通点
 A.相違点

 ★100匹の羊の中の1匹を失った10枚の銀貨の中の一枚を失った
 B.共通点
 ★失った1匹または1枚を見つけ出すまで、その所有者は徹底的に探し廻ること。
 ★それを見つけたら、友人や隣人を呼び集め皆で大喜びすること。
 ★一人の罪人の悔い改めは失われたものの発見を意味すること。

V.2つのたとえの相違点
 A.失われた1匹の羊のたとえ

 
1.99匹の中の1匹
 ★「あなた方のうちで、百匹の羊を持っていて、その一匹がいなくなったら、99匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは探し歩かない人がいるであろうか
(4節)

 と言う主の問いかけに、ある人はこう言うかも知れません。
 ★「失われた1匹のことはあきらめて、今無事でいる99匹の管理・飼育・保護に全力を注ぐべきだ」と。
 ★しかし、羊飼いは100匹以上の羊を飼ってもその1匹1匹に名を付けて、それぞれの個性をつかみ、目をかけ、世話をやき自分の子供のように可愛がっているのです。筆者も以前インコのつがいを飼っていてその子育ての様子などを観察していて、人間と同様に一羽一羽に個性があり、性格の違いがあることに気がつきました。
 ★1匹の羊を失った人は、自分の子供を見失った親のような気持ちでその1匹を探し回るのです。
 ★横田めぐみさんという可愛い一人娘を失ったご両親は、他に2人の息子さん達がいても、だからと言ってあきらめることはせず、娘さんを取り戻すまで救出活動をやめないのです。
 ★主イエスは失われた羊である私達を一人一人個別に探し出し、罪と滅びから救い出すために天から下って来られたのです。
 
2.99人の悔い改める必要のない正しい人とは
 ★「悔い改める必要のない正しい人間」がこの世に存在するのでしょうか。聖書は

「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)、「罪を犯さない人はいない」(T列王8:46)

と言っています。
 ★聖書注解者の中には、「悔い改める必要のない正しい人」とは天使のことだと考える人がいます。「正しい人」と訳されているギリシャ語「ディカイオイス」は「正しい者たち」と言う意味であって、「正しい人間」とは限定していません。すなわち、天使も人格を持ち、堕落天使以外は「正しい者たち」に当てはまります。
 ★しかし、天使と人間は共に人格を持ってはいても、いわば別種の生き物です。羊と銀貨のたとえが暗示していることは、失われた者と残っている者とは同種の者であると言うことです。
 ★また、この2つのたとえの後の放蕩息子のたとえ
(ルカ15:11〜32)では、失われた羊(放蕩息子)の対極にあるのが悔い改めていない兄であり、この兄は「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」とつぶやいたパリサイ人・律法学者を指していることは明らかです。
 ★主イエスは他のところで

 
「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。 ルカ5:31,32

 ★と、言われました。このことばから救い主を必要としない、すなわち悔い改めを必要としない正しい人がいると主イエスが言われたと結論付けることは出来ません。ここで言われる「義人」とはそういう意味ではなく、「パリサイ人と取税人のたとえ」のパリサイ人のように自分を義とする人のことです。
 ★主はこの二つのたとえと次の放蕩息子のたとえを用いて、外面的行いを誇って己を義とする99人のパリサイ人らより、一人の悔い改めた強盗や取税人を愛しておられることを明示されたのです。

 
B.失われた銀貨のたとえ
 1.「羊の所有者」対「銀貨の所有者」

 ★羊の所有者が羊飼いであられる主イエスを示しているのに対して、銀貨の所有者である女は教会を指していると言えます。
 ★銀貨と訳されているギリシャ語は「ドラクマ」で、当時の労働者の賃金である1デナリと同額の価値を持っていたと言われています。ですから、銀貨1枚は今のお金に換算すると約1万円ということになりましょうか。
 ★銀貨10枚と羊100匹では数量と値打ちに可なりの違いがあります。これは、主イエスが

 
「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。私は彼らをも導かねばならない」。(ヨハネ10:16)

 ★と言われるように、すでに囲いの中にいる羊(キリスト教会に在籍する教会員)の他にも常にご自分の羊を余計に持っておられることを表しています。主イエスは今教会にいる信徒だけでなく、これから救われるはずの人々を常に意識して覚えておられるのです。

 
2.主婦は失われた銀貨が家の中にあると確信していた
 ★教会は、そしてすべてのキリスト者は、失われた銀貨である救われるべき尊い魂が、自分の身近にいることを確信して探し回るべきことを教えています。

W.二つのたとえの共通点
 A.悔い改めない99人のパリサイ人より、罪を悔いる一人の取税人を主は喜ばれること

 ★自分は正しい人間であって、キリストの十字架による罪のあがないなど、私には何の関係もないと信じて疑わない多くのわが同胞が束になっても、一人のへりくだって罪を認めて主イエスを信じるクリスチャンほどに父なる神を喜ばせることは出来ないのです。

 B.人として生まれて来た者にとって一番大事なこと、そして神に喜んで頂けることは、自分の罪を悔い改めて救い主キリストを信じることであるということ
 ★人生の目的は人類の模範である主イエスに似たものになることです
(ロマ8:28〜30)
 ★そのためには、神の御前にへりくだって自分の罪を悔い改め、救い主イエス・キリストを信じることから始めなければなりません。

 
「『朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くが良い。これは人の子(キリスト)があなた方に与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである』そこで、彼らはイエスに言った、『神のわざを行うために、私達は何をしたら良いでしょうか』。イエスは彼らに答えて言われた、『神が遣わされた者(イエス・キリスト)を信じることが、神の業である』」 ヨハネ6:27〜29

 
C.キリスト教会とキリスト者の第一の使命は罪人を悔い改めに導くことであること
 ★主イエスが99匹の羊を残して失われた羊を尋ね回られたように、キリスト教会とキリスト者は身近にいる失われた魂を捜し求める務めを主から委ねられています。

 
「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ、父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす』」。 ヨハネ20:21

 「しかし、あなた方は、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神に付ける民である。それによって、暗闇から驚くべき御光に招き入れてくださった方のみ業を、あなた方が語り伝えるためである」 Tペテロ2:9

 結び
 ★罪を悔い改めない者は、神の怒りの下にいるのであり(ヨハネ3:38)、神の怒りの究極は裁きの火の中にあります(黙示21:8)
 ★罪を悔い改める者は、神の喜びに入る者であり、その究極はパラダイス(天国)です
(ルカ23:39〜43)



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キリスト紀元2006年 9月 30日公開

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