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   主イエスのたとえ話

  
〈19〉良いサマリヤ人のたとえ

 聖書 
 ★「するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、『先生、何をしたら永遠の命が受けられましょうか』。彼に言われた、『律法には何と書いてあるか。あなたはどう読むか』。彼は答えて言った、『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」。また、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」とあります』。彼に言われた、『あなたの答えは正しい。その通り行いなさい。そうすれば命が得られる』。
 ★すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、『では、私の隣人とは誰のことですか』。イエスは答えて言われた、『ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、一人の祭司がその道を下って来たが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかって来たが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人の所を通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄って来て、その傷にオリーブ油とぶどう酒とを注いで包帯をしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、「この人を見てやってください。費用が余計に掛かったら、帰りがけに、私が支払います」と言った。

 ★この三人の中、誰が強盗に襲われた人の隣人となったと思うか』。彼が言った、『その人に慈悲深い行いをした人です』。そこで、イエスは言われた、『あなたも行って同じようにしなさい』。」
ルカ10:25〜37


はじめに

 私たちの人生の目的は、主イエスに似た者になることです(キリスト教に関するQ&AQ4人生の目的とは何ですか?)。そして、主イエスが歩まれたように歩むとはどんな生き方であるかを、主はこの「良いサマリヤ人のたとえ」によって示されました。

T.律法学者と主イエスの問答
 ★この有名な「良いサマリヤ人のたとえ話」が主イエスの御口から語られたきっかけとなったのは、ある律法学者と主イエスとの問答でした。律法学者の質問は「何をしたら永遠の命を受けられるか」でした。この問いは若い金持ちの役人の質問と同じでした
(マタイ19:16)。永遠の命についての知識も関心も持ち合わせていない異教国日本の学者や役人からこのような質問を受けることはまず考えられません。
 ★主を試そうとしたその学者に、彼の専門の律法について逆に主は質問を投げかけられました。「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読むか」。その学者は適切に「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」。また、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』とあります」と答えました。主イエスが「あなたの答えは正しい。その通り行いなさい。」と言われたので、彼は自分が「神を愛することも、隣人を愛すること」も抜かりなく実行していることを居合わせたすべての人々に示して、自分の正しさを立証しようとして次に「では、私の隣人とは誰のことですか」と質問を試みました。良いサマリヤ人のたとえはこの質問によって主の御口から引き出されました。

U.このたとえ話の要約と背景
 a.要約

 ★ある人が旅の途中、強盗の襲われ半殺しの目に会い、道端に捨て置かれた。そこに、祭司とレビ人が相次いで通りかかったが、二人とも見ぬ振りをして通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人がそこを通りかかり、このけが人に深く同情して介抱してやり、宿屋へ連れて行き、自分も一泊して彼の面倒を見た。翌日宿の主人に2デナリ支払い、けが人の介抱の引継ぎを依頼して、余計にかかった費用は帰りに自分が支払うことを約束して旅立って行った。
 
b.背景
 ★祭司とレビ人

 祭司はイスラエルの12部族の一部族レビ族出身の祭司アロン(モーセの実兄で出エジプトの大事業の時、指導者モーセの助手的働きをした)の子孫によって世襲された職務であり、宗教国家ユダヤにあってはエリート中のエリートでした。
 レビ人はレビ族出身者でエルサレムの神殿の運営・管理・保守・準備・運搬などの職務に任じられた人々で、祭司と共に律法の教えについて良く知る人達でした。
 
★サマリヤ人とユダヤ人との関係
 イスラエル民族の捕囚の時代に、アッシリア王がサマリヤの住人の大半を捕囚として異国に連れ去り、代わりにサマリヤの地にはバビロンやアラビヤから移民を送り込んで住まわせました
(U王17:24〜41)。その外国からの移民が偶像礼拝を持ち込んで来たので、主はサマリヤの地にライオンの群れを送り込んで襲わせました。そこで、アッシリアの王は捕囚のユダヤ人の中から祭司をサマリヤに派遣して、聖書の神の礼拝方法を教えさせました。その時から、サマリヤの人々は聖書の神と偶像との両方を礼拝するようになり、現地のユダヤ人からは異教徒として軽蔑され、相互に敵対関係にありました。

V.このたとえ話が教えること
 a.このサマリヤ人はけが人に深く同情して(口語訳/気の毒に思って・新改訳/かわいそうに思って)親切を行った

 ★このサマリヤ人が隣人愛を実践したのは、けが人に対する同情からであって、それ以外の下心は何もありませんでした。けが人は強盗に着物をはぎ取られていましたから、半裸の状態でユダヤ人かサマリヤ人かを衣服を手掛かりに判別することはできませんでした。彼は相手が何人であるかなど委細構わず、自分の助けを必要とする人として自分に成しうる限りを尽くしました。
 ★彼はその人の傷口にオリーブ油とぶどう酒を注いだとあります。ぶどう酒は消毒に、オリーブ油は薬としての効果があったと思われます。彼は自分の所持品の中からこの二品を惜しげもなく、この被害者のために使いました。更に包帯をしてロバに乗せ宿屋に連れて行き、一泊して手厚く介護をしました。
 ★このけが人に会わなければ、宿に一泊する必要も無かったかも知れません。彼は、この赤の他人、しかもサマリヤ人とは敵対関係にあるユダヤ人であったろうと思われるこのけが人を自分の家族の一人であるかのように、親身になって世話をしました。翌日、宿の主人に2デナリを支払い、介護の継続をお願いし、余計に掛かった費用は帰りがけに払いますと約束し、おそらくどこの誰と宿帳に記帳して行ったと思われます。1デナリは労働者の一日の労賃ですから2デナリは少なく見積もって2万円です。
 b.隣人を愛するとは、犠牲を払うということである
 ★このサマリヤ人が急に降って沸いて来たような無償の救命救急ボランテア事業のためにその日の自分の仕事の予定を急遽変更して犠牲と奉仕に徹したように、隣人愛の実践のために、主はキリスト者にいつでも犠牲を払う覚悟でいてほしいと望んでおられるのです。
 
c.隣人を自分と同様に愛するとは、隣人を自分の身内、いな自分自身であるかのように扱うことである
 ★祭司・とレビ人はそのけが人を物体を見るように見て通り過ぎて行ったが、サマリヤ人は彼を自分の分身として扱ったのです。
 
d.隣人とは、敵味方、国籍・人種・宗教の違いを問わず、今身近にいて、自分の助けを必要としている、あらゆる困難の中にいる人のことである
 ★「私の隣人とは誰ですか」と主イエスに質問した律法学者だけでなく、すべてのユダヤ人は「隣人とは、宗教と国籍を同じくするユダヤ人」のことであり、「宗教と人種を異にする人々は敵であって、敵は憎まなければならない」と教えられて来ました
(マタイ5:43)
 
e.隣人を愛することは、神を愛することと同様に大切なことである(マタイ22:39)
 ★言い換えれば、「隣人を愛することは、神を愛することに等しい」と言えます。主は、世の終わりの日の羊組とヤギ組とに対する審判の中で、「これらの私の兄弟の一人にしたことは、私にしたことであり、しなかったことは私にしなかった事である」と明言しておられるからです(主イエスのたとえ話〈9〉最後の審判)。
 ★神殿の奉仕を通して、心を尽くして神を愛しているつもりであった祭司とレビ人は、けが人を見て見ぬ振りをすることで、その神を愛する愛が偽物である事を暴露したのでした。
 f.律法は人に罪を悟らせ、キリストに導くものであること
 ★聖書の神の礼拝においては専門家であった律法に詳しい祭司もレビ人も共に、隣人愛の戒めの実践テストに不合格となりました。それもそのはず、律法は人に自分の罪を悟らせ、キリストのもとに救いを求めて来たらせるために神から与えられたものだからです。
 「このようにして律法は、信仰によって義とされる<罪を赦される>ために、私たちをキリストに連れて行く養育係りとなったのである」(ガラテヤ3:24)
 ★祭司とレビ人はエルサレムからエリコの町に下って行く途中で現場に出くわしました。エリコの町は祭司・レビ人の居住地で在ったと言われています。ですから、彼らは、任務を終えて家路を急いでいたと考えられます。早く家に帰って休みたい、家人の顔が見たい、それに、血まみれで横たわっているその人がすぐに死ぬかも知れない。律法によれば、死人に触れると汚れて1週間ほど仕事を離れなければならない。「見知らぬ他人を助けるより、家族のために働くことを優先させねばならぬ」と彼らは考えたかも知れません。

W.良いサマリヤ人主イエス
 a.主イエスはユダヤ人に「あなたはサマリヤ人で悪霊につかれている」とののしられた事があります(ヨハネ8:48)

 ★主イエスは、人生の旅の途上で、強盗(サタン/ヨハネ8:44;同10:10)に襲われて苦悩している旅人(人類)を救うために世に来られ、十字架上にご自分の命を犠牲にして救いの事業を成就されました。
 ★主イエスご自身の生涯は良いサマリヤ人の業そのものでした。

 b.主イエスが世に来られた動機は良いサマリヤ人がけが人を助けた動機と同じ、苦悩の中にある人類への深い同情でした
 ★サマリヤ人がけが人を見て、「気の毒に思った」(新改訳/かわいそうに思った)と訳されているギリシャ語「スプランクニゾマイ」は心臓・肺・肝臓・腸のような重要な内臓を表す「スプランクナ」(splanchna)という語から派生しています(このsplanchnaから英語の「内臓の」「臓器の」という意味のsplanchnicという単語が生まれています)。主は人間の命の主なる座を腹(内臓)としておられますから(みことば黙想〈10〉腹から生ける水の川が)、真の同情とは心と命の座である腹の底から湧き出てくる深い憐れみの情であると言えます。
 ★「(主イエスが)群集が飼う者の無い羊のように弱り果てて、倒れているのをご覧になって、彼らを深く哀れまれた」(マタイ9:36)時の、その「深く哀れまれた」は同じ「スプランクニゾマイ」が使われています。主イエスこそ、サタンに苦しめられ、さまよえる羊である私たちを深く哀れんで、救いの手を差し伸べてくださった「真の良きサマリヤ人」その方でした。


結び
 ★主イエスは
 「私は言っておく。あなた方の義が律法学者の義やパリサイ人の義に勝っていなければ、決して天国にはいることは出来ない」(マタイ5:20)
 と言われました。その律法学者やパリサイ人の義に勝る義とはどのようなものであるかを、このたとえ話が具体的かつ明確に表しています。

聖書
 「しかし、まだ罪人であった時、私たちのためにキリストが死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである」ローマ5:8

祈り

 ★主よ。このたとえ話の良いサマリヤ人のように、また主イエスご自身のように、助けを必要とする隣人に深い同情をもって援護の手を差し伸べることができるように、絶えず私たちを御霊と御ことばによって導いてください。主イエスの御名によって、アーメン。



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キリスト紀元2005年 11月 20日公開

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