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   主イエスのたとえ話

  
〈18〉仲間を赦さない僕のたとえ

聖書
 ★「『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼と二人だけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、他に一人二人を、一緒に連れて行きなさい。それは、二人または三人の証人の口によって、すべての事柄が確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。・・・・・』。
 ★その時、ペテロがイエスのもとに来て言った、『主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、幾たび赦さねばなりませんか。七度までですか。』イエスは彼に言われた、『私は七度までとは言わない。七度を七十倍するまでにしなさい。

 ★それだから。天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラント(六千億円)の負債のある者が王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部を売って返すように命じた。そこで、この僕はひれ伏して哀願した、「どうぞお待ち下さい。全部お返しいたしますから。」。僕の主人は哀れに思って、彼を赦し、その負債を免じてやった。
 ★その僕が出て行くと、百デナリ(百万円)を貸している一人の仲間に出会い、彼を捕まえ、首を絞めて「借金を返せ」と言った。そこでこの仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」と言って頼んだ。しかし、彼は承知せず、その人を引っ張って行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心を痛め、行ってそのことを残らず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、「悪い僕だ。私に願ったからこそ、あの負債を全部赦してやったのだ。私が哀れんでやったように、あの仲間を哀れんでやるべきではなかったか」。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引き渡した。
 
あなた方めいめいも、もし心から兄弟を赦さないならば、私の天の父もまたあなた方に対して、そのようになさるであろう。』」
(マタイ18:21〜35)

 ★「あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、赦してやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪をおかし、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところに帰って来れば、赦してやるがよい」。 ルカ17:3,4


T.このたとえ話の要約と解説
 
★要約
 王の前に1万タラントの借金のある僕が呼ばれて全部返すように要求されたが、返せなかったので自分と家族を奴隷に売り払って返すように命ぜられた。この僕がひれ伏して哀願したので借金を全部赦してやった。
 この僕は王の下を離れると、100デナリ貸している友人に出会った時、全部返せと要求した。その友は、その僕が王にしたと同様にひれ伏して哀願したが、その僕は彼を赦さず、牢にぶち込んだ。王はそれを聞いて怒り、その薄情な僕を全部返済するまで同じように牢にぶち込んだ。
 
★解説
 主イエスは「多く赦された者は多く愛する」(ルカ7:47)と言われました。その意味は、主に赦された罪の大きさを知る者は、その大きさに比例して主を愛する者となる」という事です。使徒パウロが尋常でない迫害と艱難の道に耐えて、伝道者の生涯をまっとう出来たのは「私は罪人の頭であった」(Tテモテ1:15)という自分の罪に対する自覚のもとに人より格別大きな愛で主を愛していたからでした。
 友の負債を赦さなかった悪い僕は、自分の負債の返済を迫られた時、
ひれ伏して哀願して、「どうぞお待ち下さい。全部お返しいたしますから。」と言っています。この言葉は彼が自分の負債が天文学的に巨額であることに気付いていないことを示しています。
 私達は、罪の赦しと永遠の命は決して自力で手に入れることの出来ないものであることをよくよく知らなければなりません。
 「神の賜物は変わることがない」(ローマ11:29)とは言え、この救いの賜物そのものの中に「人を赦さない者は赦されない」(マタイ6:15)という規定があるのです。
 「救いは信仰による」のだから、私が人を赦さなくても主は信じている私を救うべきだという人に聖書は答えます。「悪霊でさえ主を信じて恐れおののいているのです」(ヤコブ2:17〜19)

U.このたとえ話が教えること
 1.神に対する私達の負債額は一生かかっても償い切れない額であること

 新改訳のマタイ18:24の欄外の注に1タラントは6000デナリであると、同8:28の注には1デナリは当時の1日分の労賃に相当するとあります。そうすると、1デナリは少なくとも1万円になり、1万タラントは6000億円に相当する額であることが分かります。
 インターネットで「サラリーマンの生涯賃金」で検索すると「民間企業のサラリーマンの生涯賃金は約2〜3億円」と出て来ました。この生涯賃金とは飲まず食わずで働いた場合の収入の合計ということです。1万タラントつまり6000億円とは生涯賃金の2000倍から3000倍に相当する額です。神戸市の年間予算が2兆1千億円だそうですから、6000億円は国内の主な都市の年間予算の平均値と言ったところでしょう。ですから、一般庶民にとっては天文学的金額の6000億円が、我々の一人の魂を地獄から救うための身代金であるということなのです。それなら、億万長者であるなら、地獄からの救いを6000億円で買い取ることが出来るのかと言う人がいるなら、「億万長者なら6000億円の2000倍から3000倍必要」ということです。その意味は人が一生かかっても、決して自力で天国の命を買い取ることは出来ないということです。
 ですから、「主イエスを信じる者はただで永遠の命を与えられる」という福音は6000億円相当の宝物をただで与えられるという超ビッグニュースなのです。これが、良い知らせ「グッドニュース」でなくて何でしょうか。
 
2.キリストにあって罪赦された者(キリスト者)は人の罪を赦さなければならないこと
 主は「主の祈り」の中で「私たちに罪を犯す者を、私達が赦すように、私達の罪をもお赦しください」と祈れと教えられました
(マタイ6:9〜13)。私達の罪の赦しはいわば、「私達自身が人の罪を赦す」という条件付きであると言えます。
 これに対して、「救いは信仰だけが条件」ではなかったのか、と反論する人がいるでしょう。そうです。「救いは主イエスを信じる信仰だけが条件」です。そして、その主イエスご自身が、「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなた方の罪をお赦しにならない」(マタイ6:15)と言っておられるお方なのです。

 
3.私たちが人に対して過ちを犯したなら謝罪するべきこと
 聖書は「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。癒されるためです」(ヤコブ5:16)とありますから、健全なクリスチャン生活を送るためには、互いに謝罪し合い、赦しあうことが大事なことなのです。ちなみに、受洗時にも神に懺悔するに留まらず、自分の罪の被害者である人々に可能な限り、謝罪と償いをすることは自らの救いを確実なものにし、救いの確信を強めるために重要なことです。使徒行伝を見ると、初代教会の信徒は入信の時、今まで自分がしてきたことを告白し、魔術を行っていた多くの者たちが、魔術の書を抱えてきて皆の前で焼き捨てた。その焼き捨てた魔術の書の合計金額が銀貨5万枚になったとあります(使徒9:18,19)すなわち、神のみ前に罪を告白するだけでなく、人の前でも懺悔しています。

V.謝らない相手にどう対処すべきか
 
1.比較的重大な過ちの場合
 コリント教会では、兄弟が兄弟を世の裁判所に訴え出ていたことがあったようです
(Tコリント6:1〜8)。教会内の争いごとを世の裁判所に訴え出るなどと言うことは、クリスチャンとしては恥ずべきことです。しかし、上記マタイ18:15〜17にあるように、兄弟が自分に対して、見過ごしに出来ない重大な過ちを犯していながら、譴責の言葉に耳を傾けないなら、2,3人の証人を連れて行き、それでも聞き入れないなら、教会に通報し、裁いてもらうことになります。
 
2.比較的小さな過ちの場合
 たとえば、兄弟が自分を侮辱する言動を取った場合を考えて見ましょう。旧約聖書の中にその実例があります。ダビデ王が息子アブサロムの謀反によって主都エルサレムを追われて出て行く時、イスラエルの前王サウルの一族の男シメイ(新改訳ではシムイ)がダビデ王を呪いました
(Uサムエル16:5〜14)。彼はダビデ王に石やチリを投げつけて言いました、「よこしまな人よ。立ち去れ、立ち去れ。あなたは血を流す人だから、災いに会うのだ」。ダビデ王の家来が、「この死んだ犬が、どうしてわが王を呪ってよかろうか。私に、行って彼の首を取らせてください」と言った時、ダビデは彼を制し、「彼が呪うのは、主が彼に、『ダビデを呪え』言われたからであるならば、誰が、『あなたはどうしてこういうことをするのか』と言ってよいであろうか」と言って、シメイの侮辱を甘んじて耐え忍びました。イスラエルの前王の親族の男が現王を侮辱したのです。当然、小さな過ちではなく、死罪に当たる罪ですが、ダビデは自分の更に大きな罪のために主都を追われ、侮辱を受けていることを痛感して、シメイの過ちを見過ごしにしたのでした。
 主にある兄弟が自分を侮辱する言動を取った場合、相手を譴責したり、忠告したりするのは正当な対処の仕方です。しかし、まことに残念ながら相手が譴責や忠告をはねつけたり、無視したりする場合があります。その場合は、主イエスの十字架上の祈りの言葉を思い出しましょう。「神の子なら十字架から降りてみろ」とののしりあざける人々のために主は祈られました、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないからです」
(ルカ23:34)。この主イエスの祈りが、この場合の私達の祈りとなります。
 つまり、「主よ。彼(または彼ら)をお赦しください。自分が罪を犯していることが分からないからです。彼(彼ら)にみ言葉と御霊によって罪を悟らせてください。」と祈り、彼(彼ら)のことは主に委ねる(委ね続ける)ことです。そして、「彼(彼ら)の罪に対する恨みやこだわりに捕らわれないように、私の心をみことばと御霊によって聖よく守り、平安と喜びで満たしてください」と祈りましょう。
 「愛は恨みをいだかない(新改訳/人のした悪を思わない)」
(Tコリント13:5)とありますから、恨みをいだいて聖霊を悲しませ、心から愛と平安と喜びを消し去ってしまうことの無いように、祈ってみ言葉と御霊の助けを求めましょう。
 
3.人を赦す時、人が自分にした悪が祝福に変えられる時が来る
 アブラハムのひ孫のヨセフは兄弟に奴隷として売られて、数奇な運命を辿りました。十数年の時を経た後、彼ヨセフはエジプトの宰相となり、知らずに穀物を買いにエジプトにやってきた兄弟に「あなた方は私に悪を企んだが、主はこれを善に変えられた」と語ることの出来る人となっていました
(創世記50:20)。人がした悪を赦す時、その悪が主の御手のうちに祝福に変えられる時が来るのです。


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キリスト紀元2005年 11月 10日公開

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