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      主イエスのたとえ話

  
〈9〉最後の審判

 ★聖書

 「人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来る時、彼はその栄光の座に着くであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊とを分ける様に、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置くであろう。
 ★その時、王は右にいる人々に言うであろう、『私の父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受け継ぎなさい。あなた方は、私が空腹の時に食べさせ、乾いている時に飲ませ、旅人であった時に宿を貸し、裸であった時に着せ、病気の時に見舞い、獄にいた時に訪ねてくれたからである』。その時、正しい者達は言うであろう、『主よ、いつ、私達は、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、渇いているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、はだかなのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである』。
 ★それから、左にいる人々にも言うであろう、『呪われたものどもよ、私を離れて、悪魔とその使い達とのために用意されている永遠の火に入ってしまえ。あなた方は、私が空腹の時に食べさせず、渇いていた時に飲ませず、旅人であった時に宿を貸さず、はだかであった時に着せず、また病気の時や、獄にいた時に、私を訪ねてくれなかったからである』。その時、彼らまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、渇いておられ、旅人であり、はだかであり、病気であり、獄におられたのを見て私達はお世話をしませんでしたか』。その時、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の命に入るであろう」。
 マタイ25:31〜46

 ★はじめに
 「神に出会う備えをせよ」
(アモス4:12)と聖書は私達に勧告しています。終りの日にすべての国民が否応なく最後の審判を受けるのであるなら、そして、神の裁きは教会から始められるとあるなら(1ペテロ4:17)、裁かれないためにはどのような生活を心がけるべきかを聖書により学んでおく必要があります。

 ★解説
 この話はたとえ話ではなく、ラザロと金持ちの話(ルカ16:19〜31)と同様、事実を物語っています。しかし、この最後の審判の様子を、羊飼いが一日の終りに羊と山羊とに分ける様子にたとえられていますので、一般にたとえ話の一つとして扱われています。
 ★羊と山羊が日中同じ牧場で飼われていることは珍しくありません。しかし、動物たちの性質の違いのために夜間は分けられて、別の所で寝かせるそうです。そのように、キリスト者と非キリスト者、または救われる者と滅びる者とは、この世では一緒に混ざり合って生活していますが、世の終りの日には公然と分けられます。羊は従順な性質なので、十字架に至るまで従順に御父に従われた子なる神イエス・キリストは「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と呼ばれています。同時に、キリストとキリスト者達との関係は、羊飼いと羊の群れとの関係にたとえられています(ヨハネ10:10、11)
 ★旧約聖書の時代のイスラエル民族は食べてよい清い動物と食べてはならない汚れた動物の区別を教えられていました
(レビ記11:1〜23)。羊も山羊も共に、ひずめが分かれていて、反すうするので清い、食べてよい動物とされています(申命記14:4)。しかし、羊の従順な性質に対し、山羊は御し難いところがあるようです。それで山羊は、神の御心によらず、自分の考えに従って一生を生きてきた人々であることが、最後の審判において判明する人々を表しています。
 ★32節に「すべての国民を御前に集めて」とあるように、裁きのために集められるのはユダヤ人と異邦人、キリスト者と非キリスト者の区別なく、すべての国々の民です。そして、彼らは右の羊組と左の山羊組とに選別されます。羊組と山羊組とのそれぞれの審判の模様を見てみましょう。

 ★羊組の審判
 まず、彼らが受けるのは父なる神の祝福であり、世の初めから準備されていた御国を相続することです
(34節)。世の王や大統領や総理大臣が思いつきで与える勲章と違って、世の初めからこの日のために用意されていた御国の祝福です。
 ★王の諸国民に対する審判の基準は、王の兄弟達であるキリスト者達の中の最小の者たちの一人に対する人々の行いです。審判を受ける人々が、この最小の者達の一人にどういう態度や行動を取ったかが決め手となります。なぜなら、この王の兄弟の最小の者達にしたことは、まさに王に対してした事だからです。皆さん、クリスチャンはこの世では吹けば飛ぶような小さな存在であっても、彼らは王の王、主の主キリストの兄弟姉妹
(マタイ12:50)なのです。彼らに行なったことは、キリストに行なったこと勘定されるのです。
 ★羊組の人たちが王の最小の兄弟にしたことどもを見てみましょう。どれを取ってみても特殊な能力を必要としないことです。病気の時に病気を癒やしてやった訳でもなく、牢にいたとき早期釈放の道を開いて上げた訳でもありません。羊組の行なったこれらのことは、やろうとする気持ちさえあれば、まさに誰にでも出来ることです。しかし、やる気がない人にとってはナシで済ませることもできる事柄です。「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」
(マタイ22:36〜40)という主の御心を心に留めて、この隣人愛を実践しようと普段から心がけている人々はこれらの事を実践しないで済ますことはできません。良いサマリヤ人のたとえ(ルカ10:30〜37)に出てくる律法に精通した祭司やレビ人の態度で分かるように、隣人愛が神の御心であることを承知していることとそれを実行することとはまったく別の次元です。御子キリストがベツレヘムで生まれると聖書に書いてあることを知っていたのに、エルサレムの律法学者、祭司長達は東方から来た博士達と共に幼子イエスを拝みに行こうとしませんでした(マタイ2:4〜6)
 ★羊組の人々がしたことの、もう一つの特徴は、王の最小の兄弟達が隣人の誰かからの助けと励ましを必要としている、まさにその時の時宜を得た援助であり激励であるという点です。このような援助や励ましは本物の隣人愛がなければできないことです。この中の「旅人に宿を貸す(旅人をもてなす)」ことについて一言付け加えておきます。あるカトリック作家が「旅人をもてなす事はアラブの人々の習慣である」と発言したことがありました。これを聞いた時、「さすが聖書を軽視するカトリック教会の作家だ。旅人をもてなすことは聖書の教えである事
(ヘブル13:2)を知らないとは!」という感想をもちました。

 ★山羊組の審判
 彼らが受けるものは、王ののろいであり、サタンとその手下の悪霊どもと同じ裁きを受けることです(41節)。41節に地獄は本来は悪魔とその配下の悪鬼共のために造られたとあります。神はすべての人々が悔い改めて救われることを望んでおられます。また、神は悪人が地獄に落ちることを望まず、返って悔い改めて救われることを望んでおられるのです(2ペテロ3:9)。しかし、残念ながら、悪人達が悔い改めることを拒否するなら、地獄に落ちるしか道はありません。
 ★ここで興味深いことは、羊組も山羊組も最小のクリスチャンに対して自分達のした事やしなかったことが王なるキリストに対する親切や不親切と見なされることに全く気付いていないことです。
 ★私達は神を愛することと隣人を愛することとを、別なこととして区別して考えがちです。しかし、主は隣人を愛することは神を愛することと同様に大事だと教えておられます(マタイ22:36〜40)。そして、神を愛すると言いながら兄弟を憎む者は偽り者だとも言っておられます(1ヨハネ4:20,21)。また、主は復活後、キリスト教会の迫害者サウロ(後の使徒パウロ)に現れて、「何故、あなたは私を迫害するのか」と言って教会とご自分を同一視しておられます(使徒9:4)。聖書によるとキリストは教会の頭です(エペソ5:23)から、私達キリスト者はキリストの手足です1コリント12:27。手足が痛めつけられていて、頭が苦しまないはずがありません。
 ★新約聖書には、金持ちを優遇し、貧しい人を冷遇する教会を厳しくいさめる記述があります(ヤコブ2:1〜9)。また、コリント教会には教会員同士が争いを起こし、この世の裁判所に訴え出るという見苦しいことが起こり、この教会の創設者パウロが彼らを叱責している記事があります(1コリント6:1〜11)。これらは共に、キリストの最小の兄弟にしたことはキリストにした事になるという重大な真理を忘れたために起きています。
 ★聖書には気付かずに主の使いをもてなした人
(ヘブル13:1〜3)や同じく気付かずに、主イエスを胎内に宿していたマリヤを冷遇し、馬屋に泊まらせたがために王の王、主の主なるキリストを飼い葉おけに寝かせるはめになった人々も描かれています(ルカ2:6,7)
 ★今、キリスト者でなくとも、将来回心してキリスト者になる人々がいることを考えると、すべての隣人をキリストの兄弟と見なして、誰に対してもサマリヤ人(ルカ10:33〜37)のように親切にする習慣を身につけて行きたいものです。

 ★結び
 最小のキリストの兄弟(キリスト者)にした事がキリスト本人にしたこととして終りの日に読み上げられることがこれだけ聖書にハッキリ書かれている以上、すべての国の人々は「知らなかった」では済まされません。特に、聖書を毎日読んでいるはずのキリスト者はなおのこと弁解の余地はありません。
 ★聖書にはまた、互いに罪を言い表し、互いに赦し合いなさい(ヤコブ5:16下記)。とあります。王の最小の兄弟たちに親切をしなかったことを思い出したなら、その人のところに行って、手遅れにならないうちに謝って和解し、互いに親切に平和に過ごす努力を惜しまない者でありたいと思います。「主を礼拝する前に、互いに和解せよ」(マタイ5:23,24)という御言葉に基づいて、礼拝前に互いのあいさつの時をもつ教会がありますが、それが互いの和解の時でなく、単なるあいさつの時となっているなら、それは非聖書的です。即刻止めた方が宜しいでしょう。「先ず神の国と神の義を第一に求めよ」と聖書は言っています(マタイ6:33)。単なるあいさつは礼拝のあとにするべきです。

 ★聖書のことば
 「
互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんかヘブル10:24
 「だから、互いに罪を告白し合い、また、癒やされるようにお互いのために祈りなさい ヤコブ5:16



URL http://31church.net
キリスト紀元2004年 12月 10日公開

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