舞台からのメッセージ・・・・ 高校演劇の見方
                                 横澤信夫
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 初めに・・・九校の舞台の講評メモから
第1部 『オーイ、救けてくれ』 W.サローヤン
○鉄檻、柱がいい。光もいい。壁の色もっと灰色に
○押さえた語り口いい   ○オーイの叫びは誰から誰に
○なにが真実か? なにが真実でもいいのだ。事実をしっかり見つめて
それがなぜか考えること 
第2部 『おばけりんご』 谷川俊太郎
○白い幹のりんごの木 good ○ワルターの個性 good
○博士正面切るな ケライも正面切るな
○童話がよく舞台に表現されている ○毒がほしい
○偏見(出張)があっていい ○本をのりこえる
第3部 『ランナウェイ』 国井ひでき・石原哲也
○セリフの間と味がgood ○他の人達の反応good
○ストーリーの展開がうまい  ○ゆめおちになるな
○四人組み 四人の違いと喋り
第4部 『STEFAFIE』 潮田 忍
○装置、新鮮 ○台は丈夫 ○過食症の女の子の位置
○明と暗    ○見終わった後に何が残るか 
第5部 『地獄破り`95』木下順二作「陽気な地獄破り」より
○言葉とは何なのか  ○表現するとは
○劇を作るということが、そのままドラマである
○人間は恥ずかしいことが多い
○地獄破り⇒自分破り⇒世の中破り
第6部 『コンクリート・フーガ』 紗乃みなみ    
○脚本のメッセージ  ○装置がものをいう
○走ることの意味と走らせられることの不気味さ
○ノリがほしい
第7部 『君がいたから』 田村麻里子    
○自分が考えていることを創作することgood
○話を全部観客に出してしまうとダメ
○虚構の中の真実を感じられるように  ○題名の意味は?
第8部 『童話裁判』 森本ゆかり
○幕開きの踊りと三人の語りgood  ○装置…雰囲気が出ている
○セリフのしゃべりがいい、つきぬけてくる ○ふっきれている
毒の部分の提示の仕方か流されている
童話だから全てが許されるのか


第9部
『セピアではなく』 高木豊平           
○立場の違いがよく出ていてわかる
○女の子の役割大きい、歌もいい、中国語もいい、
○わかってやっている  ○照明や効果音、おさえていてgood
○うまさを感じない、いい舞台               
第10部 私の講評メモからの抜粋
第11部

講評メモの解説
○虚構の世界で真実を表現する
○おもちやのピストルを、劇の中で『おもちやのピストル』
  として使うのは難しい
○うまくやろうとするな、芝居をするな、演じるな
○納得してやってほしい
  セリフとセリフの間に詰まっているものを大切にしてほしい
〇ショパンのノクターン、越える舞台でないと負けてしまう
〇「演劇は総合芸術」というが、芸術を見せずに人を見せよう
〇「うまい」や「うける」ことと、「いい劇」との関係を考える
〇形から心へ。心から形へ。
○演劇は人を変える。演劇は人を育てる。

 

 初めに・・・九校の舞台の講評メモから
 最近、ものを見るということに少しこだわるようになりました。なにか書いたり作ったりする時、その対象と
なるものを「よく見ること」が大切だと気がついたのです。
 人間の感覚に「目で見る、触ってみる、聞いてみる、味わってみる、嗅いでみる」という五感覚があるよう
に、なにかを「見る」場合、自分の目で見る他に「考えてみる」「探ってみる」「感じてみる」ということを含めた
ものを持っていないと、対象の全体像が自分のものとして生きてこないように思う。
 そこで、「高校演劇の舞台を、私はどのように見ているのか」自分で確認してみようということから、この
作業を始めました。
 平成六年度と七年度に審査を担当した舞台から、印象に残った九校の高校を選び、私なりに感じたこと
や、それに関連したことなど、思いつくままにワープロに打ってみました。したがって、劇評そのものではあ
りませんが、印象深い舞台から私が受けとったもののまとめです。
 私が高校演劇の審査を担当する場合、レポート用紙に、舞台の略図を下手でもいいから書きます。これ
は、後で見たとき、その劇の舞台や印象をすぐ思い出すための作業なんです。そして、ペンライト片手に、
その瞬間に感じたことをドンドンメモしていきます。
 その劇評メモをもとに、今の私が「高校演劇をどう見ているか」自分なりにまとめてみようと思ったので、下
手な絵やまずい字ですが、縮小してそのまま載せることにしました。
 現在の私が感じている「私なりの高校演劇の見方のポイント」として読んでいただければと思います。

 

第1部 平成六年 宮城県大会 宮城県多賀城高校上演

   『オーイ、救けてくれ』 W.サローヤン 

 

<あらすじ>
 幕が開くと上手に大きな檻があり、男がひとりそこに入っている。「オーイ、オーイ」と遠くに呼びかけるよ
うに低く叫んでいる。
 そこに少女が現れる。檻の中の男はその少女と話しはじめる。その話しのなかから男が檻に入れられ
た理由の輪郭が見えてくる。流れ者の男がこの町にやってきて、ある女にちょっかいをだしたことが原因
でこの檻に入れられたらしい。男の言い分では女の方から誘われたというけど、どちらが本当かわからな
い。そして、もうすぐどこかへ移されそうな状況だということが感じられる。
 男は、言葉巧みに少女に話しかけ、その檻から出ようとする。初めは警戒していた少女も、しだいに男の
言葉に耳を傾け、男と一緒にこの町を抜け出てサンフランシスコへ行こうという気持ちに変わっていく。
 少女がピストルを取りに家にもどっている間に、ちょっかいを出したという女の亭主がやってきて、男をピ
ストルで撃って退場し、そこへ、少女が戻ってくる。
 さっきの亭主が仲間を連れて登場する。ちょっかいを出したという女もやってきて、少女に悪態をつく。み
んなで男の死体を運んで出て行く。残された少女は、弱々しい声で「オーイ、オーイ」と客席に呼びかけるう
ちに幕となる。 

 

講評メモから
     ★鉄檻、柱がいい。光もいい。壁の色もっと灰色に
     ★押さえた語り口、いい
     ★オ‐イの叫ぴは、誰から誰に
     ★何が真実か? 何が真実でもいいのだ。
         事実をしっかり見つめて、それがなぜか考えることが大切なのだ
     ★私の感想

※「鉄檻、柱がいい。光もいい。壁の色もっと灰色」に


 私はもちろんですが、観客はだれでも、幕が開く直前はこれから始まろうとしている舞台にたいして、期待
をこめて、息をひそめて待っているのです。そういう意味では、幕間のタイミングというものはたいへん難しい
と私は考えているので、まずこのことにふれてみます。

 ニベルが鳴り、客席の明かりがしだいに消え、暗い中でアナウンスが聞こえてくると、観客はこれから始ま
る舞台の世界を想像し、開幕を待つ気持ちになります。アナウンスが終わり、少しの間をおいて音楽が流れ、
雰囲気を作り出し、やがてドンチョウが上がると、舞台の世界が眼にとびこんでくる。その時の舞台がひとつ
の世界を作り出し、その世界に観客を引き込んでしまえば、観客は満足して展開される劇のなかに入ってい
くのです。

 「最初の五分が勝負」と言われるのはその辺にあります。せっかく見ようとしている観客の気持ちをしっかり
つかんで、舞台の世界にひきずりこんでしまうことが最初の勝負となるのですが、それをさらに次ぎの三つの
ポイントに分けて考えることができると思います。


○「開幕のタイミング」

 開幕前のアナウンスが終わり、暗い客席で待っているとき、二十秒間なにも起こらなければ、客席はザワザ
ワしはじめます。つまり、期待はずれとなり、劇を始めることができないなにかが起こったのではないかと心
配するのです。観客の心理として、始まってほしいタイミングで曲が流れる( あるいは幕が上がる )と、安心
して舞台の世界に入っていくことになります。私は、アナウンスが終了した五秒後に劇をスタートさせていま
す。もっと良いタイミングがあるかもしれません。観客の気持になって検討してください。


○「舞台装置」


 ドンチョウが上がり、照明の中に「ある世界」が見えてきます。そこに「ある雰囲気」ができていれば、観客は
その世界でなにが起こるのかと期待し、さらに舞台の中に入っていこうとします。仮に、なにも置いていない
舞台(平舞台)であれば、観客は一瞬「アレッ」という心理状態になります。開幕が心理的ポイントとすれば、
照明と一緒になった装置は視覚的なポイントといえると思います。


○「人物やストーリー」


 眼に飛び込んできた世界で、登場人物が動き出すと、いよいよなにかが始まるのです。こんどはそこで起こ
る事件(話、ストーリー、等)に興味が移ります。六十分の劇の場合、十数分たってもなにも起こらなかったり、
なにがどうなっているのかわからなかったりすると、観客の心が舞台から離れていきます。したがって、最初
の五分で観客の心を掴んでしまうことが大切と言われる理由です。


 今回の舞台装置は、それなりの雰囲気がありました。上手に鉄檻つまり留置場のようなものがあり、その
中にてい一人の男が入れられている。がっしりした檻で、高さもあり、跳び上がっても出られそうにない。しっ
かりでのきるから、「入れられている」と感じることができるし、「出ることができないだろう」と思ってしまう。下
手には三本太い柱が立っていて、これもがっしりしている。左右のバランスもよく、中央のスペースもあまり広
すぎず、おしこめられている男を中心とした、この劇にふさわしい舞台装置と感じられました。だから「鉄檻、柱
がいい」とメモしました。

 高い小さな窓は、光に手が届かない男の立場をよく表していたし、檻を中心とした照明のバランスや押さえ
気味の光のあてかたも、舞台の雰囲気をよく作っていると思われました。ただ、なんとなく壁の色がもう少し灰
色の方がいいかなと感じたので、「光もいい。壁の色もっと灰色に」と書いたのですが、後になってから、壁の
色は特に気になるということはありませんでした。ということは、壁の色は作られたものでよかったと思います。
 装置について、劇の進行にしたがって次ぎのようなことを感じました。女の子が柱のカゲに隠れる動作を通し
て男に対する心理的距離を視覚的に表現するなど、舞台装置が効果的に用いられていたし、また、大きい柱
が男を檻にとじこめたこの町の権力の象徴として感じられてきたことなど、舞台の雰囲気がたいへんこの劇の
内容に合っていたと思いました。ただ、「今十時」というセリフのとき、昼なのか夜なのかわからなかったので、
照明でその辺をしっかり表現してほしいと感じました。

 舞台美術家の孫福剛久さんは「舞台美術の役割をひとくちで言えば、『舞台に空気を作る』ということになる
でしょう.」と話していました。舞台で行われる劇にふさわしい世界を作り、そして、劇の進行に従って役者の動
きを効果的に助け、照明と一緒になってそこに風をおこし、観客の眼をつかんではなさない、そういうことを考え
た舞台美術を目指したいものです。

「押さえた語り口、いい」

 今回の官城県大会が終わった後、多賀城高校からお手紙をいだだきました。その手紙にはセリフについて、
次のように書いてありました。

 『先日の県大会では、本当にありがとうこざいました。先生がセリフについて私たちの部についてお話して下さ
ったことは私を含め、部員たちには、大きな励みになりました。いつもよく言われることは、多賀城の劇は、どうし
てセリフを押さえて言うのですかと言われます。今回も、阿部順夫先生だけがあれでいいんですよと言って下さ
いましたが、多くの先生方から押さえすぎですと言われて、郡員たちも少々弱気になっていました。本当に先生
のお話してくださったことは、部員たちにとって勇気づけとなりました・・・・』

 上演終了後の溝評で、私は「押さえた語りロ、いい」と言ったんですが、それは、「ことぱ」としてのセリフが壊
れてしまっている舞台が多い中で、この学校のセリフが人間の話すことぱになっていて、しかも、今回上演され
た劇の内容によくあっていた語り口であったと感じたのです。セリフ(舞台で話されることぱ)は、原則として、
今なにを話しているのか観客にわかるように話すことが重要なことです。声が聞き取りにくかったり、声そのもの
は聞こえるけれどもなにを話しているのかわからなかったりすれば、観客はイライラします。だからといって、ただ
聞こえれぱいいというものではありません。そこで、ここではセリフについて少し述べてみます。

 結論から言えば、観客の立場としては「舞台上の世界に登場している人物が、お互いに話し合っている会話」
をセリフとして耳にしているわけなので、その会詰を「会話として聞かせてほしい」ということにつきると思います。
大きい怒嶋るような声で話したり、感情を入れ過ぎたり、変に抑揚をつけた話し方では会話としてわざとらしく感
じられます。舞台という世界で、お互いに話している会話を、観客が自然な会話として感じることができるように
話してほしいと思います。

 そうはいっても、日常話している話し方そのままでいいというわけにはいきません。日常話している話し方その
ままでは、聞こえないところがあったり聞こえても何を話しているのか意味不明になったりすると思います。会場
にいる観客全員に届くように、明瞭にしかも会話の雰囲気を壊さずに話すために、「あめんほあかいなアイウエオ」
や「アエイウエオアオ」と練習するのです。声楽でも、pp(ピアニシモ)で会場全体にきちんと届くように歌うのが難
しいということを聞いたことがありますが、演劇でも同じことですね。

 今回の多賀城高校のセリフは、これ以上落としたら聞こえなくなるという一歩手前の発声であり、身を乗り出し
て聞き逃すまいとする状況を作っていたし、それが劇の内容にあっていだと感じられたのです。

 大きい声で怒鳴るようなセリフの言い方はやめよう。


※「オ‐イの叫ぴは、誰から誰に」

 今回のこの劇は、「暗い感じで難しかった」という感想をもった人が多かったと思います。一人の男が檻に入れられ
ていて、「オーイ、救けてくれ」と叫んでいるところから舞台が始まるが、なぜこの檻に入れられたのかわかるようでい
て、いまひとつはっきりしない。というのは、この男が少女に話していることが、嘘ではないかと感しられるからなので
す。少女に話しかける言葉が、檻から出たいがための甘い言葉であったり詭弁だとすれぱ、檻に入れられたのは当
然だろうという気持ちになるし、本心で少女に話してるなら檻から出してやりたいという心情になる。そのへんがはっ
きり伝わってこないいらだちみたいなものがあって「難しかった」という感想になるのだと思います。

 しかし、女の亭主が登場する場面以後のラストの様子から、男は偏見と誤解から閉じ込められたらしいとわかる。
「わかる」というよりは「感じられる」という表現のほうが適切かもしれないのですが、もしそうであれば、少女に話し
かける言葉が檻から出たいがための甘い言葉であっても許されるし、少女に話しかけた言葉のある部分は好意から
くる本心だったのかもしれないと感じられてくる。

 男が檻に入れられた理由はわからないが、それが理不尽なことであり、さらには、女の亭主という男が真実(かどう
かもはっきりしないが)を隠すために男をピストルで撃つ様子を見せられ、撃たれた男が、戻ってきた少女に「この町か
ら逃げるんだ !」と話しかける状況から「この町はどこか変で狂っているのではないか」と感じられる。この時点で観客
の眼が男から町に移り、頑丈な鉄の檻や太い大きな柱が自由人でありたい個人を押さえつける町の権威に見えてく
るのです。

 この劇をこのように見たとき、作者の「W、サロ‐ヤン」の言いたいことがうっすらと感じられるとともに、作者の生きた
時代や社会背景が気になってきました。そして、「オ‐イ、オーイ」とよびかける少女の声で幕が降りたとき、幕開けの
「オ‐イ、救けてくれ」という男の呼ぴかけの意味やこの劇のタイトルが、作者の生きた時代からのメッセ‐ジのように
感じられるのです。

 劇を見るとき、私は自分のアンテナを敏感にしなくてはといつも思ってます。作者の、そして、舞台を演じる学校の
メッセ‐ジを的確にしっかり受け止める観客としてのアンテナを自分の中に持っていないとき、自分にとってわからな
い理解のできない劇となってしまい「難しかった」とか「つまらなかった」ということになってしまうからです。そうはいっ
ても、私は現在見ている高校演劇すべてがわかるわけではありません。自分のアンテナをもっと敏感にして、かすか
な弱い音でも聞き取れるように、伝えたいメッセ‐ジ理解できるように、多くの舞台を見て学びたいと恩っています。


※「何が真実か? 何が真実でもいいのだ。
     事実をしっかり見つめて、それがなぜか考えることが大切なのだ」


 審査を担当するとき、大抵は大会前に脚本が送られてきます。しかも、多くの場合大会の一週間前ぐらいに届くの
で、しっかり読んで頭に入れておくということができないのが普通です。ある時期、舞台を見る前に脚本で先入観を
持ってしまう弊害や、幕が上がるときのドキドキする期待感が壊されてしまうことから、送られてきた脚本を見ないで
審査に臨んだこともありました。

 しかし、この時困ったことが起こりました。ある劇を見終わったとき、私にとって「わからない」という状態になったの
です。「わからない」という状態にもいろいろありますが、観客ならいざしらず、講評や審査をする立場にあってそれ
ができないほど「わからない」という状能だったのです。脚本に問題があったのか、演じ方に難点があるのか。それ
とも、それを見る自分が勉強不足なのか。いずれにしても、仕事としてこなさなけれぱならない講評と審査を自分な
りに果たすために、それ以後、送られてきた脚本は大会前に読むことにしています。

 審査を担当する場合、大会前に読む脚本の読み方は、私の場合「読む」というより「見る」という程度にしています。
「わからない」という状態に陥らないように、アウトラインを把握するような読み方を心がけています。そして、舞台を
見るときは脚本を忘れて、一観客として舞台の流れに心を乗せながら感じたままをメモしていくというように心がけ
ています。これは、ひとによって様々でしょうし、いろいろな考えや方法があると思いますが、今の私の場合として
述ぺておきます。

 さて、今回の『オ‐イ、救けてくれ』を見るのは、私にとって三度目でした。はっきりとは思い出せないのですが、
確か十年程前の東北大会と、五〜六年程前にどこかで見たという記憶がありました。その時の印象をかすかに
思い出したのですが、できるだけそれにとらわれないように、白紙の状態で幕が上がるのを侍ちました。

 男がなぜ檻に入れられたのかわからない。男が少女に話していることが本当なのか嘘なのかもわからない。
そういう意味では、中盤まではいくぶんイライラした心理状態でした。しかし、女の亭主という男が現れて檻の中の
男をピストルで撃ったとき、ピストルで撃った男にとってはそれが正しい行動であり、この町にとっても男を檻に入れ
たことが正しいことなのだと感じました。とするならぱ、なぜ檻に入れられたのかという本当の理由(真実)はわから
ないことであり、それを一観客としての私が判断することもできるわけではない。それよりも、それからどうなるかしっ
かり見とどけるほうが大切ではないかと「ハッ」と感じて、「何が真実か?何が真実でもいいのだ。事実をしっかり見
つめて、それがなぜか考えることが大切なのだ」と、メモしたのです。

 歴史上の事実とされていることでも、それを見る立場によって、意味合いが違ってくることがあります。奥州征伐をし
た英雄といわれる「坂上田村麿」も、見方をかえれぱ侵略者です。一方的な見方や、恩い込みでものごとを見るので
はなく、事実をしっかり見たうえで、それがなぜか考える力を持つことが大切だと気づかされたのです。このように、舞
台から教わったときや新しい発見をしたとき、劇を見て良かったなと、なにか儲かったような気持ちになります。


※私の感想


 とてもしっかり作られている舞台でした。それは、ただ単に装置や照明を丁寧に作っているという意味ではなく、この
脚本を理解したうえで、各場面やセリフの解釈をしっかり掴んだうえで表現しているということです。ただ、私から見れば、
その解釈したところまで表現しきれなかった部分があったのではないかと思われました。例えば、檻の中の男と少女の
心理の変化が、観客である高校生に理解されるまでには昇華されていないとか、(これは、大変難しいことですが)「オ‐
イ」という呼びかけの意味がメッセ‐ジとして観客に届いていたか、というようなことです。

 しかし、このように難しい内容の劇であっても、その意味を見いだし挑戦する姿勢に頭が下がります。ともすれぱ、見て
いて楽しいものをやりたがる傾向のあるなかで、例え「暗い」と言われようがこのような劇をしっかり作れる力こそ大事に
したいと思います。

 今から十年程前の全国大会のときのことです。広島県の舟入高校の幕間討論で、ある高校生が「戦争が終わって四
十年近くたつのに、なぜ、原爆のことをやったんですか」と、質間しました。その時の答えは「そのような質間が出るほど、
原爆が忘れ去られようとしているからです」という内容でした。あるこだわりをもって、今自分が、そして自分たちが伝えた
いというものを精一杯表現する姿勢は大変尊いものと思います。今回のこの劇にたいして、私なりに欲をつけ加えるなら、
今なぜ、多賀城高校の演劇部がこの劇を上演したいと思ったのか聞いてみたかったということです。極論ですが、例えぱ
「濫の中の男が現在の高校生の姿に見えませんでしたか?」という返事が返ってきたら最高ですね。そしたら私は「あな
たにとってのサンフランシスコはどこですか」と質問してみたいと思っています。              第1部 了

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