第5部 平成7年度 福島県大会 福島県立聾学校上演
  
    『地獄破り'99』 木下順二/作
 「陽気な地獄破り」より

 


〈あらすじ〉

  聴覚障害を持った三人A,B,Cが、死んでもいないのに地獄へ落ちてしまう。地獄で気がついた三人は閻魔
大王の前に連れて行かれる。手話通訳者を通して、自分たちは死ぬはずがないということを訴える。Aは、パチ
ンコの玉で滑っただけだ。Bは、勉強中に辞典が落ちてきて、気がついたら地獄だった。Cは、飛ぴ降り自殺をし
ようとした人を止めようとしただけだ。ところが、いかなる事情があっても地獄から出すわけにはいかないと閻魔大
王は言う。そして、手話通訳者を同行して地獄の体験ツアーに行くことになる。

 最初に、赤鬼が管理する「熱湯地獄」に来る。コンピュ‐タで管理され、赤鬼たちのエネルギ‐でお湯の温度を上
げているらしい。Bは、赤鬼の組長にとりいってコンピュ‐タに触らせてもらう。AとCが、エネルギーを送る道具を借
りて楽しそうにフラフ‐プをはじめると、エネルギ‐を送っていた鬼たちもそれに加わる。温度が下がりはじめたとき
Bがコンピュ‐タを操作不能にして、三人はお湯に入り、楽しそうにシンクロナイズドスイミングする。赤鬼たちが楽
しそうにフラフ‐ブをしている間に、三人は次の場面へと進む。コンピュータが爆発しあわてふためく鬼たち。

 場面は、青鬼が管理する「針の山地獄」になる。青鬼たちは針をといで道に植えつけている。そこを渡らなけれ
ぱならないという。Aはといでいる針を借りて楽しそうに遊び始める。青鬼の組長に進めるが、組長はうまくできな
い。別な針でやってみるよう話し、植えつけている針を持ってこさせる。青鬼たちが針を抜き取り遊ぴに夢中になっ
ている間に、三人は針の道を通ってしまう。

 赤鬼と青鬼の組長が閻魔大王に状況を説明しているところに三人が登場して、「熱湯地獄」や「針の山地獄」
を通ってきたことを報告する。二人の組長は、鬼たちが遊ぴに夢中になって、仕事をしなくなったと訴える。怒っ
た閻魔大王は、三人に「出ていけ」と言う。

 道をつけてもらった三人は現世に戻る。


  〈講評メモから〉
         言葉とは何なのか
         表現するとは
         劇を作るということが、そのままドラマである
         
人間は恥ずかしいことが多い
         
地獄破り⇒自分破り⇒世の中破り 
 言葉とは何なのか

 福島県立聾学校が県大会に出場するという文書を見たとき、三年前の東北大会を思い出しました。その時、ここの学校が
「風のうた」という劇を上清Lていたのですが、その劇を見て「コトバとはなんだろう」と考えさせられたのです。

 聴覚に障害があるということは、相手が話している音量がよく間き取れないというだけではなく、本人が話す言葉が普通私
達が話しているような発音にならないというハンディも持ってしまうことになるわけです。例えぱ「傘」という言葉を、切児は「力
シャ」と発音する時期があります。サ行をうまく言えないのです。でも、身体の発達とともに口や舌の微妙な使い方ができるよ
聴覚にになり、耳で「サ」という発音を聞いているうちに、「シャ」から「サ」になっていくわけですが、聴覚に障害を持っていると
発音ついて学習するこができないため、本人が話している言葉が普通私違が耳にする発音にならないことがあるわけです。
話しているということは分かっても、全く意味不明ということもあるわけです。

 3年前の舞台を見たとき、手話がわからなくても言葉がよく聞き取れなくても、なにを表現しようとしているのか舞台から伝わ
ってくることを体験したのです。そして、日常生活や演劇における「コトバとはなんだろう」と考えさせられたのです。
確かに、言葉は意思伝達の重要な方法のひとつです。言葉を使わないで、相手に自分の気持ちを伝えるということは大変なこ
とです。しかし、逆に言葉だけで全てを伝えることも無理があると思うのです。スッパイけれども甘みを含んだみかんの味を、食
ぺたことのない人に言葉で伝えようとしても、大変難しいことになります。そのような意味では、言葉だけで全てを伝えようとす
ると不目由なことになります。理論的・学間的なことは言葉で説明できても、気持ちや感情は文字を連ねた言葉では説明でき
ないからです。

 そこで「演劇のセリフとはなになのか」このこととあわせて考えてみました。例えぱ悲しい気持ちを表現しようとしたとき、「私
は悲しい」と口にしても、どの程度どのように悲しいのかその感情が相手に伝わるわけではありません。それよりも、ハンカチ
を取り出して背中を向けて涙を拭いたほうが、情が伝わるのです。脚季を書く場合、「説明的なセリフは書くな」「状況を書け」
と言うのはこのへんのことをいうのではないでしょうか。

 また演枝についても、悲しさを表現しようとして「悲しい様子」を誇張しても嘘に見えることがあります。悲しいときは涙を拭くか
ら、涙を拭けば悲しそうにみえるだろうという演枝ぽ説明的な演技であって、この人はいま悲しいのだと観客は受けとめても、そ
の感情まで受け取ることはできないのです。悲しくて涙が出るのは、さまざまな気持が心の中で交錯し、その感情を押さえよう
としても押さえ切れないなにかの結果として涙が出るのではないでしょうか。涙を拭く演枝の前に、そのへんの心を掴むことが
先だと私は思います。一生懸命演技する舞台を見て嘘を感じることがありますが、キャストや演出はこのへんのことについて考
えながら劇を作ってください。「うまくやろうとするな」ということを耳にしますが、そのとおりですね。

 今回の舞台を見ながら、またあらためて言葉について考えさせられました。

 表現するとは

 劇の練習をするとき「セリフは観客にきちんと届くように、そして、わかるように明瞭に」と心がけますが、「わかるように明瞭に」
話すことをここの学校の生徒に要求するのは、要求することそのものが間違いだと思うのです。では、聾学校の生徒にとって演
劇をするのは無理なのかといえば、それも間違いだと思います。ここの学校の顧問の先生が「ハンディを個性のひとつと考える」
と話していましたが、大変すばらしい視点だと思います。言葉に重点を置かない劇作りがあってもいいわけです。(ただし、「ハ
ンディを個性のひとつと考える」という表現は、本人またはその関係者だから使える言葉なのかもしれません。私が安易に使っ
ていい表現なのかどうか、考えてしまいます。)

 セリフがよく聞き取れなくても、また、セリフと一緒におこなわれる手話がわからなくても、その前後から何を表現しているか伝
わってくるのです。三年前の舞台もそうでしたが、セリフを便りに舞台を追うことを諦めたとき、スッと劇の内容が心に入ってきた
のです。おしゃべりだけで議論をする劇よりは、想像性をかきたてられながら楽しく見ることができました。演劇は、スボ‐ツの短距
離走のように時間を競うわけではありません。走り方を見せるのであれば、自分なりの走り方があっていいわけです。ハンディを
個性のひとつと考えた走りでいいわけです。そういうことを思い考えながら舞台を見ていました。

 演劇での「表現」ということを考えた場合、台本に書かれていることの多くが「セリフ(ことぱ)」であるために、言葉による表現を
まず考えてしまいます。確かに言葉は意思を伝達する有効な手段です。しかし、逆に言葉に頼り過ぎると不自由な面がでてくる
ことも考えなくてはならないと思います。

 A「(Bに)あんたなんて、嫌い」

 こういう台詞が書いてあるからといって、AはBを嫌いなのだときめつけることはできないのです。好きだからこそ、その裏返しで
このような表現をしたのかもしれないし、あるいは、冗談で言ったのかもしれません。

 人間は、相手に対して「なにかを感じ」、それを「ことば」や「動作」で表現するわけですから、ことばは表現の一部分ととらえる
べきだと思います。

 その言葉が使えない場合、人間はあらゆる身体表現を通して理解しようとするわけです。言葉が通じない国に行ったとき、自分
が何かを伝えようとし、相手もそれを理解しようとすれぱ、手ぶり身ぷりでなんとかなるという話を聞いたことがあります。また、赤
ん坊の泣きかたで、空腹なのか、眠いのか、痛いのか聞き分けることができます。

 演劇を見る場合も、ことぱで表現されたものを耳で聞くのではなく、その奥にあるものを身体で感じ取ることが大切なのだと、あ
らためて感じました。 


 劇を作るということが、そのままドラマである

 福島県立聾学校にとって、ここまでまとめあげるにはそうとうの苦労があったと思います。太鼓のりズムにあわせながら、掛け声
を出して鬼たちが踊る場面をどうやって練習したのかと考えてしまいます。手話という手段があったとしても、音というものをどうや
って克服しながら舞台を作ってきたのかと考えさせられます。ここの学校にとっては「劇を作るということが、そのままドラマである」
のだろうと思いました。

 しかしこのことは、舞台で演じられた劇の評価とは別なものとして受け止めなければならないことだと思います。私がある高校
に転勤したとき、演劇部員が一名しかいませんでした。部の勧誘演説で呼ひかけ、授業で宣伝し、他の部をやめた生徒を説得し
て次の年に県大会に駒を進めたとき、振り返ったその一年半はそれこそドラマ的でした。けれども、そのことと劇の評価とは別な
ものなのです。苦労したことをいくら述ぺても、劇の評価が上がるわけではないのです。そのような苦労を考え始めるときりがあり
ません。三人だけの部員で作った舞台や定時制高校の劇、高熱をおして出演した生徒や進学を投げうってキャストになった話な
ど、あげれぱ沢山あります。劇を作るとき、全てが順調にうまくいくことはまあないでしょう。さまざまな困難をひとつひとつ乗り越
えながら、よりよい舞台を目指すところに演劇を作る喜びや楽しみがあるのかもしれません。そうはいっても聾学校が劇に挑戦を
したということは、それだけでスゴイと思います。


 人間は恥ずかしいことが多い

 福島県の県大会の講評の方法は、他の県とはだいぷ違っていました。一校毎に上演が終わると会議室またはロビ‐に移って、
上演した学校の生徒と講師が向き合う形に座り、その場ですぐ講評するのです。希望する観客ももちろん話を聞くことができます。
約十五分ぐらい、時には生徒と対話しながら講評するのです。最初は、時間的に忙しいのではないかと心配したのですが(実際
忙しかったけれども)、今上演した学校の生徒と目の前で、しかも対話しながら講評できる新鮮さに自分ながら驚きました。大抵
は、全ての上演がすんだ後舞台の上からまとめて講評するのです。しかも一校について三分から四分程度の時間しか講評でき
ないのです。それに比ぺて、福島県の方法は充実しているように感じました。

 聾学校の劇が終わって三階ロビ‐の講評の席に着いたとき、劇評の後で「人間生きていると自分が恥ずかしくなることが多い。
恥ずかしいと思えぱ前に進めなくなる。しかし、貴方たちの舞台を見ていてとても勇気が出ました、ありがとう」と言いました。演
劇にとって重要と思われる「相手の言葉を聞くこと」と「話すこと」が不自由な人たちが、そのハンディを個性と考えて、自分たちな
りの舞台作りに向けて挑戦したのです。私なら、自分の欠点は知られたくない、自分の恥ずかしいことは、隠しておきたいという
心境になるのですが、「隠そうという気持ち」そのこと自体恥ずかしいことなのだと気づかされました。

 劇という舞台目指して練習していく中で、周囲とぷつかりあい、自分と格闘する場面にぷつかります。音響効果の音ひとつ選
ぷ場合でも、その場面に合う音を沢山選択し、何日もかけてやっと選んだ音が、「合わない」というひとことで捨てられる。悔しさ
をかくして、また音選ぴをする。キャストは、役作りをしながらそれこそ自分との戦いです。そのようなとき、自分の何かを乗り越え
なければ、次に進めないことが多いと思います。欠点を含めた自分のことを知ったうえで、それを乗り越えようとするから「演劇は
自分さがしである」とか「演劇は自己改革・自己解放である」といわれるのかもしれません。自分の恥ずかしい部分は、なにもみ
んなの前に進んでさらけ出す必要はないけれども、少なくとも自分自身が自覚し、その自分とむきあった生活をしなければならな
いのだと思いました。

 
 地獄破り⇒自分破り⇒世の中破り

 今回の「地獄破り」の舞台は、最初「(表現がまずいかもしれませんが)学芸会のようだ」と感じました。なにやらオドロオドロしい
雰囲気の中で、ニ人が倒れている。そのうち閻魔大王の前に引き出され、地獄に行くことになる。赤鬼や青鬼たちの踊りが始ま
り、熱湯地獄の場面になる。単なる「地獄のお話」を演じているような気がしたのです。演技のうまい生徒もいましたが、そんなに
うまいわけでもない。「ここまで練習するのは大変だっだろうな」などと、劇の内容とは直接関係のないことを思いうかべていました
が、キャスト全員がひたむきに演技する姿に気がついたのです。その「ひたむきさ」はどこからくるのだろうと気になりました。「うま
くやろう」とか「いい舞台を作ろう」という種類のものとは全く異なる、どちらかといえば、みんなと合わせて踊りを踊るのに精一杯だ
けれども、それを、「精一杯やろうとするひたむきさ」のように感じたのです。そして、この学校がなぜこの劇を上演しようとしたのか
考えてみました。そしてハッと気がついたのです。地獄へきた三人は、寿命がきたわけではなく、これでは死んでもしょうがないと
感じたわけでもなく、ましてや地獄へ落ちなければならない理由など全く思いもよらない三人なのです。三人にとっては納得でき
ない状況なのです。このことと、聴覚に障害を持っている彼等の現実とが、わたしにはダブッて感じられたのです。

 いまの日本は、障害を抱えている人にとって暮らしよい社会とは言えません。意識の面でも職場の面でもまだまだというのが現
状です。そのことを、この劇を通して表現しようとしていると気づいたとき、「地獄破り⇒自分破り⇒世の中破り」とメモしました。
「地獄破り」の劇を上演するためには、まず自分の抱えている聴覚障害のようすをみんなの前にさらけ出さなくてぱならない。それ
を自分の個性と受け止め、劇という形で表現するには「自分破り」をしたのだろうと感じました。そしてこの劇を見た観客が、聴覚
障害を持った自分たちを障害者として考えるのではなく、個性のひとつとしてあたりまえに見てもらえるような社会になることを期
待しているのではないかと想像して「世の中破り」とメモしたのです。

 そうしてみると、学芸会のように見えたこの劇がこの学校の「ねがい」をこめたものに見えてきたのです。三人のアイデアで、「熱湯
地獄」や「針の山地獄」を次々とクリヤーし、閻魔大王を怒らせることで現世にもどることになる。しかも、地獄を他人に変えてもらうの
ではなく、自分たちの力で変えていく、こいうところがすぱらしいと感じました。もちろん、この劇を上演したからといって、今の世の中
が変わるわけではありませんが、多くの人に見てもらい考えてもらうことで、「世の中破り」になっていくのではないかと感じました。

〈私の感想〉

 最初、セリフがよく聞き取れないことにすこしイライラしたが、三年前のことを思いだし、セリフに頼らずわからないところは想像しな
がら見ることにしました。手話もわからない私にとってはひとつひとつの意味は不明でも、表情や身体全体の表現からこういうことを
言おうとしているのだな、ということを察することできました。ドラムに合わせて踊る鬼たちの踊りの場面は、音が聞こえなくても、太
鼓の響きを身体で感しることが出来ると以前聞いたことがあったので、このことなのだろうと思って見ていました。それにしてもよくこ
こまで練習したものだと感心しました。

 客席には、この学校の上演を見るためでしょうか、沢山の観客が入りました。なかには生徒の家族らしい姿も見えていました。そし
て、劇のひとつひとつに反応し、舞台と客席がいい雰囲気で進行して行きました。幕が降りた後も大きな拍手が起きました。聾学校
の生徒が、このような舞台を作ったということに対する拍手なのか、劇そのものに対する拍手なのかわかりません。もちろん両方の
意味ををこめたものもあったと思います。とにかく、大きな拍手でした。

 単なる「地獄の物語」を越えてこの作品を取り上げた意味を感じると、演技のうまさというものよりは「ひたむきさ」をグングン感じる
のです。審査結果の発表後「うまいのに、どうして落ちたのか」とか「ヘたなのに、どうして選ばれたのか」という声を耳にすることが
あります。劇を見る場合、さまざまな電波をキャッチできる鋭敏なアンテナを持って、「うまいか」「面白いか」というものさしたけでは
ないいろいろな角度からながめられるものさしを沢山もってほしいものと思います。

 今回の「地獄破り」の舞台は言葉の問題や表現について考えさせられることが沢山ありましたが、劇として見た場合不満も感じま
した。それは、自分にとってまったく納得できる理由もなく地獄へ来てしまった三人が、楽しそうに「地獄破り」をしているように見え
たことなのです。地獄に落ちたことに対する不満や、それをどうにもしてくれない閻魔大王に対する怒り、そして、これから行かなけ
れぱならない「熱湯地獄」や「針の山地獄」に対する恐怖や不安などをもっと強く表現し、「それでも行かなければならないのなら」と
勇気を出し知恵を出して乗り切っていく姿を描いてほしかったと感じたのです。閻魔大王が今の日本の社会を象徴し、鬼たちが世間
の人々の姿にダブッて見えてくれぱ、この劇の深さがもっと表現できたのではないかと感じられました。

 そうはいっても、今回の舞台から教わることが沢山ありました。おつかれさまでした。そして、ありがとうございました。

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