第3部 平成六年 福島県いわき地区大会 福島県立湯本高校上演

      
『 ランナウェイ 』  国井ひでき。石原哲也 

 

<あらすじ>

 幕が上がると、公園らしいところに二人の高校生(稔と元気)がいる。どうやら家出をしてきたらしい。毛布にくるまっ
てベンチに寝たところへ女子大生風の四人の死神が登場し、二人をあの世へ送る。

 二人が気がつくとそこは三途の村で、死んだ人を審査する鬼平の事務所の中だった。「自分たちは死んでいない、
何かの間違いだ」と主張するが、コンピュ‐ターにインプットしたものは取り消しできないと言われる。抗議しているとこ
ろへ鬼平の娘のヤシャが登場する。ヤシャは新しい母親ツヤとうまくいってないらしい。稔と元気とヤシャのやりとりの

中で、なぜ二人が家出をしたのかわかってくる。またこの世界で殺された場合にだけ、もとの世界に戻れるということ
も分かる。しかし、殺した場合は地獄に落ちるということも知る。 

そこへ、二人のお婆さん(ハルとアキ)が登場する。ハルは稔の祖母だっだ。稔は、入院しているとき一度しか見舞い
に行かなかったことや四十九日の法要に行かなかったことをハルに詫びる。ハルとアキがパスで天国へ行くまえに、
みんなでトランブをする。やがて二人のお婆さんがバスに乗るため別れを告げる。泣く稔。ふとしたことで隠し持ってい
たピストルを元気が取り出し、稔を撃つ。倒れた稔にヤクザ風のケンがかけ寄る。稔はケンの持っていたピストルを奪
い、「それはねえよ…やっぱり、おれも一緒に地獄へ行くよ……」と言って元気を撃つ。倒れる二人。そこへ、再ぴ四人
の死神が登場し、二人がここへ来たのは間違いだったという。コンピュ‐タで確かめると二人のデ‐タ‐は消えていた。

 朝になり二人は公園のペンチに寝ている。元気が起き上がり、まわりを見まわす。元気は自分の毛布をまだ寝てい
る稔にかけてやり、腕組みをして空を見あげて幕となる。

 

 

講評メモから
        ★セリフの間と味がgood
        ★他の人達の反応good
        ★スト‐リ‐の展開がうまい
        ★ゆめおちになるな
        ★四人組四人の違いと喋り

※「セリフの間と味がgood」


 今回のこの劇は、セリフがとても自然でスッと心に入りこんでくる感じがしました。とても聞きやすく、自然な感じがし
たのです。どんな練習をしているのか分からないけれども、声を張り上げているわけでもなく、そうかといって聞きにく
いところもなく、舞台にいる人物がお互い普通に会話しているように感じたのです。変な抑揚をつけたり変なアクセント
もなく、しかもよけいな力が入っていないためとても耳にやさしく入ってくるのです。そのうえ、相手のセリフと自分のセ
リフとの間合いがとてもいいのです。例えぱ最初の公園の場面で、次の様な会話があります。

    元気「あのな、兼好法師だって、鴨長明だってみんな家出したんだぞ。」

    稔「出家だよ、あれは。な、元ちやん、明日からどうする。」

 元気の「兼好法師だって、鴨長明だってみんな家出したんだぞ」というセリフで、観客は「そうだっけ?」と思うのです
が、それに対して言う稔の「出家だよ、あれは」というセリフで、元気が「家出」と「出家」を間違えていたことに気付き
ます。観客がそれに気付くにはほんの少しの時間を必要とするのですが、さらに、元気の学力や憎めない性格まで
感じとり、笑いとなって舞台に返すことになるのです。

 この観客の微妙な心の変化と時間的な間を、さりげなく、しかもタイミングよく舞台の二人は作ってくれるのです。こ
の場合は、稔の「出家だよ、あれは」と言うタイミングが観客の心の動きと合っていたとき、観客はハッと気付くことに
なるし、また、観客が笑いから舞台に心を戻したとき、次の「元ちやん、明日からどうする」というセリフにつなげていく。
このような「セリフの間と味」が感覚的に分かっていて、しかも自然に感じるように表現しているため、観客は舞台と一
体になった感じになっていくのだと感じました。

 ここで、稔が「元ちやん、山家と家出を間違えたんじゃないの」と言ったとします。そうすれぱ、おそらく笑いは起こらな
いでしょう。それはなぜでしょうか。それは、稔の「出家だよ、あれは」というセリフで、観客は「家出」と「出家」の関係を
さがし、さらには元気の性格まで自分で感じとるからおかしさが湧き出てくるのです。つまり、観客も舞台に参加して考
え感じる部分を持っているから、泣いたり笑ったりするのだと思います。セリフで全部解説されている劇は、「わかる」け
れども「さめた」劇になってしまいます。セリフは、登場人物お互いの会話であるとともに、観客との心の会話だと思いま
す。相手が投げてよこしだボール(セリフ)をしっかり受け止め、タイミングよく、ほどよいスピードで相手に投げ返してや
るという呼吸は、観客との間にも大切なことですね。

 初めてキャストになったある生徒から、「セリフの中にある『…』や『間』のとき、どのくらい休めぱいいのですか」と質間
されたことがあります。多分、楽譜の休符のように考えていたのかもしれません。「決まっていないよ」と答えたら、困っ
ただ顔をしていました。木下順二さんのタ鶴にある次のセリフを読んで見てください。「…」という、つうの気持ちが哀しい
ほどに伝わってきませんか。「ここの点線では、何秒の問をとりますか?」などと言ったら、つうに叱られてしまいます。

    つう「いないの? 隠れてるの? 出ておいでよ………卑怯………ずるい……ずるいわ、あんた達………ねえ…

    …ねえ………ええ憎らしい………(略)いえ……いえいえ………すみません、憎いなんて………いえ、どうぞお

    願い、お願いします……」


※「他の人達の反応good」


 舞台に登場しているキャストにとって、自分のセリフがあるときは、その言葉の表現の仕万について動作も含めて考
え工天するわけですが、相手が話しているときどうしたらいいかわからないという声を聞くことがあります。特に、AとB
が話し合っているとき、それを横から見ているCやDがどうしたらいいかと、手持ち不沙汰になっている舞台を見ることが
あります。

 野球に例えるなら、今ピッチャ‐が投げようとし、キャッチャ‐が構えていた時、他の七人はそれをただ眺めているわけ
にはいきません。その次の瞬間に起こるかもしれないことをいろいろ想像し、それにすぐ対応できるように心と体を反応
させていることが役割になると思います。これと同じように、AとBが話しているとき、CやDも同じ舞台という世界で生き
ているひとりの人間として何かを感じ考え行動しているわけです。そのことが脚本に書かれていない時、Cという人物は
そのときどうしているだろうかと自分で考え作らなけれぱならないわけです。しかも、いま舞台の中心がAとBであれぱ
それをこわさないようにしながら、だだ不自然にボ‐ッとつっ立っていることのないように、全体のバランスを考えながら
自然に生きている人物として表現することが大切になるわけです。

 今回の劇は、セリフも動作も、そして登場人物全体のバランスもとても自然で見やすい舞台になっていました。これ
は、キャストー人ひとりの力はもちろんですが、観客の目で見て作る演出の力も大きいと感じました。

 例えば、元気と稔とヤシャの三人が舞台で丁丁発止とやり合っているとき、鬼平はコンピュ‐タに向かって知らん顔を
しているし、ツヤも観客に背中を向けて机に向かっている。すると当然観客の視線は悪態をつきながら逃げ、追いかけて
いる三人に向けられるため、鬼平とッヤは心埋的に不在の状態になっている。つまり、三人をしっかり見せたいときには、
他の人物に知らん顔をさせるという演出をしているわけです。そして、必要な場面では、観客に顔が見えるように向きを
変え、「おい、おい」と声をかけて仲間に入っていくわけです。すると、ツヤもそれに誘われるように向きを変え、三人と鬼
平のやりとり聞いている状態になるのです。観客から見れぱ、なんでもないようにあたりまえに見えるのですが、そのへ
んの作り方がうまいなと感じました。

 鬼平は、走り回る三人をうるさいと感じると思います。けれども、それを鬼平が表現すれぱ、観客はその鬼平の気持ち
を感じて、三人のカラミに集中できなくなるのです。鬼平の気持ちはわかるけれども、演出を優先させて知らん顔をさせ
ているというわけです。

 「今、この場面では、何を観客に見せたいのか」ということを考えて、周囲の人はどの程度どのように反応するか、その
バランス感覚を大切にしてください。


※「スト‐リ‐の展開がうまい」


 この劇の二人の高校生がなぜ家出をしたのか最初全くわかりません。初めの公園の場面で分かるのは「家出をしたら
しい」ということと「二人の関係や性格」だけなのです。けれども、このふたりがなんとなく好きになってしまうように作られ
ています。そして、三途村の場面で、鬼平の娘であるヤシャとのからみの中から家出をした理由が少しずつ見えてくるの
ですが、「私の家庭は……」と説明していないところがいいと思いました。

 また、三途村からもとの世界に戻る手段がないということがわかったとき、どうにかして戻してやりたいと思うようにな
り、どうしたら戻れるか登場人物と一緒になって観客も考えるような仕組みになっています。けれども、ふたり一緒に戻れ
そうもない状況に、観客ははらはらさせられるのです。(コンピュ‐タの入カミスを訂正したことにより戻れるようになるとい
う結末はちょっと拍子抜けでしたが)このように、六十分間、観客をグイグイ舞台に引き込みながらスト‐リ‐を展開してい
く力は、きちんと計算されているいろいろなシカケが自然に組み込まれている脚本の良さとともに、それを的確にとらえて
舞台化する感覚や力を持っているからなのかもしれません。

 シカケの例を書いてみます。殺された時にだけ現世に戻ることができ、殺した時は地獄へ落ちるという設定がまずすば
らしいと思います。他の力でどうにかなるのではなく、自分でなんとかできる部分があるからです。だから最後の場面で、
元気は稔をピストルで撃つのです。そしてまた、稔も元気をピストルで撃つことで、二人の友情を感じることができる設定
になっています。 そのピストルはというと、ヤクザ風のケンという人物が登場し、なん丁ものピストルを持っていて、誰か
に自分を撃たせて現世に戻りたいという行動をとらせます。そして、元気と稔の手に偶然ピストルが渡るようになっている
のです。変わった人物を舞台に登場させて味付けをしながら、ピストルという小道具を自然に出すアイデアは、すぱらしい
シカケと思いませんか。

 また、この劇では観客の心情に訴える場面も作られていました。みんなでトランプをして、その後ふたりのお婆さんが退
場するまでの約五分問、BGMが流れ、昭明でシュリエットをつくり、全員パントマイムで演じるなかで、稔のお婆さんに対
する別れの気持ちが切々と伝わってくるのです。言葉でなにも説明していないのに、心の中にしみこんでくる舞台は、脚
本のト書きからは感じられないすばらしい場面になっていました。 


※「ゆめおちになるな」


 劇の種類ひとつに「ゆめおち芝居」というものがあります。現実の世界で解決できそうもない問題が起こったとき、その現
実とは別の世界で解決する方法を見つけるストーリ‐の劇とでもいうのでしょうか。例えば、突然魔法使いが現れて魔法の
力で解決してしまうとか、その魔法で主人公の性格が変わってしまい解決に向かうという解決の仕方があります。また、
主入公が夢を見ている中で解決方法が見つかる。あるいは、別な世界でいろいろな人に出会うことによって解決方法が
分かるという場合もあります。このような内容の劇を「ゆめおち芝居」というわけですが、私違の実際の生活ではそのような
ことで問題が解決するということはまずありません。したがって、このようなスト‐リーの劇を見せられても、都合のよい解決
であっていわゆる作り物という感じを持ってしまいます。ですから「ゆめおち芝居」と言う場合、あまり誉められだ内容ではな
いわけです。

 湯本高校の今回の劇は、「あの世」のなかでの話なので「ゆめおち芝居」のようにも思えますが、その世界の中での約束
ごとはあるにしても、魔法や特別の力を使うわけではなく、逆に「現実の世界に戻ることができない」という切羽詰まった状
況に追い込まれるということになります。そのなかで起こる人間関係や友情ということが今回の劇の中心でありテーマなの
で、「ゆめおち芝居」の種類には入らないとは思いますが、幕が降りたとき、あの二人はこれからどうなるのだろうかと心配
になってしまいました。つまり、三途村でのドラマは見せてもらったが、家出をしてきたという現実の世界の問題をどうやって
解決するかその糸口がなければ、この劇は終わらないのではないかという気持ちが残りました。しかし、これは観客からみ
た場合の欲かもしれません。あまりにも良くできていた割に、幕切れがあっさりしていたので、そんなことが気になったとい
うところでしょうか。 

 脚本を書くとき、「ゆめおち芝居」にならないようにしよう。


※「四人組四人の違いと喋り」


 女子大生風の四人の死神が登場したとき、賑やかで女子大生風という感じはしたが、誰が何を喋っているのか分からな
かったのが残念でした。誰が話しているのか分からなくてもかまわない場面なのかもしれないけれども、観客からすれば四
人の違いをやはりある程度出してほしいと感じたのです。今回の劇にかぎらず、例えば女子高校生が沢山登場する劇の場
合、各々の立場や役割の違いというほかに性格ゃ声の違いというものが当然あるはずなので、そのへんについて考えてみ
たいと思います。

 発声練習をする場合、全員で集まって声をそろえて行う場合がありますが、部活動としての意識の統一や雰囲気の盛り
上げ、声の出し方を全体としてレペルアップさせるという意味ではとても効果ある方法と思います。しかし、全員で発声練
習しているうちに、声の出し方や音程、スピードや声の色合いまで似てくることがあります。それを意識せずに数人が同じ
ような役柄(例えば、女子高校生、を演じた場合、同じような話し方になり個性が感じられないということが起こります。目を
つぷっていても四人の違いを感じさせるような役作りというのは、全員同じ役柄だけに難しい面もあると思いますが、逆に必
要なことだと思います。

 声や話し方も個性のひとつです。個人毎の練習をしっかりやろう。


〈私の感想〉


 まずなんといっても、元気と稔の愛すべき個性と素直な演技がこの劇を引っ張っているように思いました。もちろん、鬼平や
その娘のヤシャの味付けもはっきりしていておもしろいし、二人のお婆さんもすてきだっだと思います。その他登場している
人も含めて、みんな自分の役割をしっかり意識して、しかも全体のバランスもよくとれていて、自然に舞台に引き込まれまし
た。ちょい役と思われる人に少々不満な点はありましたが、これは、この学校だから感じることなのかもしれません。

 装置についていえぱ、公園の場面から三途村の場面転換をするとき、まだ元の公園に戻るときも、暗転にしないでやや暗
めの照明で転換していたのは良かったと思います。公園にしては少々雑な作りに見えていた、石かコンクリートの固まりのよ
うなものの布をとると机とコンピュータが現れ、ベンチを逆向きにすると三途村のセットになるという工夫がしてあり、それを、
四人の死神が観客に見せながら賑やかに場面転換していくという方法はとても良かったと思います。ただ、色や形や置き方
にもう少し配慮して欲しいと感じるものがありました。(例えば、鬼平の顔がコンピュータの陰になり見えにくい場面があった、
等)

 幕が下りた後印象に残っているのは、なんといってもシュリエットのなかで演じられた稔とお婆さんの別れのパントマイムで
した。美しい夕焼けに思えるホリゾントの照明に浮かぶ、稔のお婆さんに対する心情が切ないほどに伝わってくるのです。こ
の場面を見せるためにこの脚本が書かれたのではないかと思うほど、すばらしい場面でしだ。けれども、脚本を読んだときに
はこのような舞台になると予想できませんでした。演出の仕方によってすてきな舞台になるものですね。参考までに、その部
分のト書きを載せておきます。このト書きが、感動を呼ぶ五分間の舞台になったのです。

 (舞台中央に車座になって、みんなでトランブを始める。鬼平とツヤも引っ張り込まれる。ババヌキらしい。ツヤとヤシャも並ん
で座り、楽しげだ。……やがて、ハルとアキが去るらしい。みんなで上手まで見送る。二人、淡々と上手に去る。泣くな稔!)

 劇は、ストーリ‐にどきどきしたり、ある事実を見せられてハッとしたりすることもあるけれども、この劇のように人間を見せて
ほしいと思うことが多くあります。それは、いまそこに登場している人物の気持ちと同化することによって、忘れていた自分の
中の「ある感情」を思い出し、それによっていろいろなことが見えてくるという、演劇の持つ大切な要素がそこにあると思うから
です。 

 しかし、この劇を見て数日後、元気と稔はどうなったのか気になりました。この劇は二人の家出から始まったのですが、現
実に戻ったふたりには依然として家出をしている状態のままなのです。その問題の解決に向けて積極的ななにかが示され
ていないまま幕が降りたことが、残念に思えてきたのです。あのふたりに「あの後、家に帰ってどうしました?」と聞いてみたい
なという気持ちになりました。とはいっても、やはりすがすがしい印象をいつまでも感じさせるすばらしい舞台でした。
 

   

 次へ    戻 る    HOME