第7部 平成7年度 秋田県大会 秋田県立能代北高校
  
    『君がいたから』 田村麻里子/作
 

 


〈あらすじ〉

   幕が開くと、国見拓哉が先生から進路変更するように指導されている。成績についてグチを言う母
親と、「どんなに努力しても成績は伸ぴないし、イヤミは言われるし・・・、違う自分になりたい」とこぼす
拓哉。そこへ買収人があらわれて、「違う自分になりたいということは、心を捨てることだ」と観客に言う。

 学校の図書館で仲良し四人組が模擬試験の結果について話をしているが、拓哉以外の三人はそれぞ
良い結果らしい。ひとり残った拓哉が悩んでいるところへ、買収人が登場して「あなたの心と引き換えに
望みをかなえてあげるので、深夜二時公園にいらしてください」と話す。ど
うやら、買収人は拓哉にしか見えないらしい。そのことを拓哉が学校のおぱさんに話すと、「絶対に心を
売ってはいけない」と言われる。

 深夜の公園では、心を売った少年と少女が買収人の肋手と話しをしている。そこへ拓哉がやってくる。
迷いながらも拓哉は心を買収人に売ってしまう。

 拓哉の友達が図書館で話している。それによれば模擬試験で拓哉が全科目満点でトップになったらし
い。そこへ拓哉が買収人とともに登場する。買収人は拓哉以外の人間には見えない。よそよそしい態
度の拓哉に友達が心配したり怒ったりすると、拓哉の意識が少し戻りかける。買収人の助手がコロス
とともに登場し、拓哉を連れていく。助手は友達に「こわからは、拓哉にかかわらないで」と言って退場
する。残された三人の所におばさんが登場し、以前自分の子供が心を売ってその後目殺したという話
しをする。

 心を売ったことに悩む拓哉のところに三人がやってくる。なぜ心を売ったのかとだずねる友人に、拓
哉は心の迷いや強がりを話すが、三人は友達としての拓哉が必要なことを訴え、元に戻ってくれるよ
う説得する。そこへ買収人とその助手が登場する。三人は買収人に拓哉を返すよう頼むが、買収人は
「心のないままで生きていくか、死ぬかどちらかだ」と言う。悩む拓哉は「みんながいたから自分がある
のだ」ということに気づくが、買収人とコロスに囲まれる。

 暗転の後、楽しそうな三人の学校生活の場面になり、その三人には見えない拓哉も登場する。拓哉
がやさしく見守るなか三人が退場し、やがて拓哉も退場する。買収人が「もしあなたが自分自身に絶望
して自分ではどうすることもできないとき、私に心を売りませんか?」と、観客に話しかけ、幕になる。


  〈講評メモから〉
         自分が考えていることを創作することgood
         話を全部観客に出してしまうとダメ
         虚構の中の真実を感じられるように
         題名の意味は?

 今回の劇は、生徒の創作ということで興味深く見せてもらいました。創作ということは、口にするのは
簡単ですが、いざ実際に取り組んでみると、なかなかどうして大変だということがわかります。私の講評
メモを見ると、その大部分が脚本の創作に関したことでしたので、ここでは脚本の創作について、日頃
感じていることを述ぺてみたいと思います。
 
※自分が考えていることを創作することgood

 劇を上演しようとする場合、脚本選定がまず重要な作業になります。「舞台の善し悪しの半分は脚本選定
で決まる」と言う人さえいますから、本選ぴは大変なことです。それでも、上演したいと思うものが見つかれ
ばいいのですが、そうそううまくいくとはかぎりません。その点創作であれぱ、普段目分たちが考えている
ことや主張したいことを、劇という形で表現できるので、あまり乗り気になれない既製脚本をやるよりぱ、ず
っと良い形で進めることができると思います。

 しかし、経験のない脚本創作に取り組むという場合、勇気が必要になります。うまくいくかどうかわからな
いものに挑戦するよりは、少々不満でもしっかり作られている脚本を選んで上演したほうが、良い舞台にな
る可能性が高いと考えるのが普通です。けれども、今自分たちが感じていることを表現するためには、やは
り脚本創作に挑戦し、舞台に乗せることが一番だと思います。勇気のいることですが、あえてそれに挑戦し
た姿勢を感じて「自分が考えていることを創作することgood」とメモしました>

 劇を上演する場合、あるいは脚本を創作する場合、「いつか、どこかで、だれかが」話していたことを取り
上げるのではなく、「今、ここで、私が」感じていることを表現することが大切なのだ」ということを耳にしたこ
とがありますが、その通りですね。いくら丁寧に作られた舞台でも、他人ごとのような内容を見せられたので
はピンときません。それよりも、今、高校生として生活している自分たちが感じ考えていることを、劇という形
にして表現したほうが、ストレ‐トに表現できると思います。

 今回の劇は、いくら頑張っても伸ぴない成績と、進路についての焦りや悩みなど、普段自分たちが感じて
いることを題材にしていました。たいへん素晴らしいことです。そして見終わった後、「安易な方法で解決し
ようとしてもダメなのだ」ということが、買収人に心を売ってしまっだ拓哉の様子から感じられました。

 一本の劇を書くということは、既製脚本一本上演するのと同じ位の労力を必要とすると思います。あるい
は、それ以上かもしれません。しかし、それに挑戦し舞台をまとめ上げたことに敬意を表したいと思います。

 以前、ある高枝生から「脚本はどうすれば書けるのですか」と聞かれたことがありました。脚本創作の方
法には、これといって決まったやり万というのはないと思います。そこで、次の二つのことを話しました。

 まず、「書きたいと思うことを、はっきりさせること」。毎目の生活の中で、悩んだり、感じたり、考えている
中から、「表現したい、訴えたい、まとめたい」ということがない場合はやめたほうがいいと思います。「創作
がうけるから」とか、「なんとなく創作してみよう」というのでは、うまくいかないことの方が多いようです。

 次に、「良い脚本を、徹底的に分析してみる」ことが大切だと思います。できれば数本、「なぜ、この作品
が良いといわれるのか」わかっただけでも、脚本を書くうえで大変参考になります。

 高校生の目の高さで見たものを、高校生の感性でまとめた舞台を見たいものです。



 
※「話を全部観客に出してしまうとダメ」

 次に、脚本を書く場合どのようなことに留意すればいいのか、今回の「君がいたから」を例に考えてみたい
と思います。

 話しの流れはたいへんよく分かりました。ストーリ‐はわからなければ困るわけですが、あまり分かり過ぎ
るのも考えものです。つまり、「次はどうなるのだろう」という興味や、「えっ、どうしてそうなるの」という意外
性が、あまりに分かり易いと薄めれるのです。奇術をする場合、「これからやることを言わない」「終わった
後種あかしをしない」ということがあります。「なにが起こるのだろう」という観客の気持ちを舞台に引きつけ
て進めていって、ある状況になったら、また「次はどうなるのだろう」という気持ちにさせる。その連続で六十
分観客を引きつけることがでぎれば、大成功だと思います。

 また、起こったこと全てを解説してしまうと、幕が降りた後心にひっかかるものが残らなくなります。「あとも
う少しで分かりそう」という時幕が降りると、「あれはどうしてなのか」「あの後、どうなるのだろう」とずっと心
に残るものです。

 今回の劇の場合、買収人の登場が早すぎました。最初の五分で拓哉の悩みが分かります。そのとき買
収人が登場して次のようなセリフを言うのです。

 「皆さんこんにちは。人間という生き物は弱いもので、人生  で一度は自分目身に絶望するものです。
その時彼等は『こんな自分は嫌だ。違う自分になりたい』などと思うてしょう。そう、例えば彼のようにね。し
かし、違う自分になるということは、今までの自分を捨てること・・・つまり『心』を捨てるということです。あな
たは自分の欲望のためなら『心』までも犠牲にしますか?・・・・以下省略」

 この買収人の登場で、拓哉が心を売ってしまうことが予想されるのです。そうすれば、「いつ、どんな方法
で」心を渡すのか気になり、拓哉の悩みを自分のこととして感じる部分が薄くなってしまいます。

 それよりも、勉強が思うように伸びないと悩む拓哉の姿を観客にしっかり感じてもらい、「なんでもやるから
だれかどうにかしてくれ!」と叫んだとき、買収人がスッと登場したほうが観客はドキッとし、「拓哉、心を売る
な」という気持ちになるのではないでしょうか。

 また、「ストーリーを劇にするな」という言葉もあります。もちろんストーリーがわからないと、劇を見ていて
もなにをやっているのか状況がつかめないためイライラするわけですが、だからといってストーリーだけ見せ
られると、「はなしは分かるけれども人間が見えてこない」ということになります。舞台の人間が「考え、悩み
笑い、苦しみ、喜ぴ、怒り、絶望し、叫ぷ」姿を見て観客もそれに共感し、登場人物とともに「考え、笑い、涙
する」部分が演劇には必要と思います。脚本を書く場合、ある状況に置かれた人間の心の部分が観客に伝
わるように配慮した書き方を研究して下さい。つまり、「ストーリーを劇にするな」という言葉の裏には、「登場
する人間を描いてほしい」という意味がこめられているのではないでしょうか。

 
 ※「虚構の中の真実を感じられるように」

 今回の劇のなかで、少々気になる部分がありました。それは「買収人の姿はだれに見えるのか」というこ
とについてです。拓哉の前に現れた買取人は、「私の姿は自分に絶望している人にしか見ることができない
んです」と言います。ところが、終わりのほうで拓哉が友達と話している場面に買収人が登場すると、友達の
ひとりが「あなたは・・・?」と声をかけ、それに対して買収人が「これは驚いた。私の姿が見えるのですか?」
と返事をし、拓哉の友達と買収人とでやりあうのです。観客としては、絶望もしていない友達になぜ買収人が
見えるようになったのか、疑問になります。

 また、買収人の部下である助手は、拓哉の友達に見える設定になっています。とすれぱ、「なぜ買収人は
見えなくて助手ぱ見えるのか」「コロスは見えるのか見えないのか」「買収人ぱどんなとき見えるようになるの
か」などという疑問が湧いてきます。つまり、「心を売ろうという状況の人にしか買収人は見えない」という設
定にしたなら、「助手もコロス普通の人には見えない」として、「幕が降りるまでその設定は変えない」ことで
通さないと、矛盾を感じてしまうのです。

 演劇は作りものです。現実の世界と違った世界を作ってもいっこうにかまいません。創造もつかないような
人物が登場したり、思いもかけないようなことが起こっても、演劇の世界では許されるわけです。作られた
世界だからこそ、その中で起こるさまざまなことを登場人物に経験させることができ、それを観客が見ること
ができるわけです。しかし、作られた世界の中でのルールはきちんと通すことが大切だと思います。

 「虚構の中の真実を感じられるように」とメモしましたが、「虚構」つまり舞台の上で進行している世界が、
そのままの世界として観客に受け止められるように、つまり「嘘」を感じさせないように「真実として感じられ
る」まま続けることが大切だと思います。福島県の石原哲也さんが「六十分間観客をだまし続ける」という表
現をしていましたが、舞台の上で演じられる「作られた世界」が、観客にとって六十分間生き続けられるよう、
作者は配慮しなければならないということでしょうか。それを越えて見終わってもなお心にずっと残る世界
(舞台)は本当にすばらしいですね。

 私は「虚構の中の真実」という言葉を、別な意味で使うことがあります。例えば、酒田市にある土門拳の写
真記念館に行ったとき、すごいショックを受けました。仏像を撮影した大きな写真が飾ってありましたが、その
仏像が私になにかを語りかけてくるような迫力を感じたのです。本物は、修学旅行に行ったとき直接見ている
のですが、その時はみんなとゾロゾロ歩きながら「これが、あの有名な仏像か」という気特ちで通り過ぎていた
のです。

 直接見たときには、私の目には見ることができなかったその仏像の「真実」が、作り物である(本物ではな
い)写真というもので表に引き出され、私にも感じることができるような力となって表現されていたのです。

 土門拳の写真のことを演劇と考え合わせた場合、いろいろなことを考えさせられました。演劇は、自分の作
った世界の中に現実のいろいろなことを凝縮して再構成し、様々な人物を登場させることで心情を含めた表現
をし、それを観客に提示することできるのではないかと感じています。作り物だからこそ、六十分の中にまとめ
た舞台として、本物よりもより本物らしく作ることが可能なのだと思います。そのような意味でも、脚本創作は
大変意義あることだと私は感じています。

                                           つ づ く



 ※「題名の意味は?」
 
 脚本を書く場合、登場する人物に名前をつけたり題名を考えたりします。適当につけているようにみえるかも
しれませんが、意外と大切な内容を含んでいることが多いのです。生まれた子供の名前を考えるように、願い
やある意味を持たせたりすることもあるのです。ある作者の作品をみてみると、同し名前の登場人物が別な作
品にも使われているということもあります。そこには作者のこだわりがあるのかもしれません。

 ある劇に「工藤充年(みつとし)」という名前の青年が登場します。この青年は。酪農で十年あまり苦労してい
るという設定になっています。作者から聞いたわけではありませんが、名前をよくよくみると「苦闘十年」とも読
み取れます。この話を聞いたとき、なるほどと感心しました。

 これは新聞に出ていたことですが、ある小説の主人公に「宇佐美寛(うさみひろし)」という名前がつけられて
いたそうです。ある人が作者に、「めずらしい名前ですね、お友達にでもそのような名前の方がいらっしゃるの
ですか?」と尋ねたところ、「いや、寛という字を分解すると、上からカタカナのウーサ、そして見るのミになるで
しょう」と言ったそうです。作者の「あそぴ心」でしょうか。

 脚本の題名も同じです。「そして、彼は死んだ」などという題名をつけると、幕が開く前から結論がわかってし
まい、劇を見たいという興味が半減してしまいます。私が書いた脚本の題名も、その時は一生懸命感が考えた
つもりでも、後で考えるとたいしたことがないと感じるものが多いですね。参考までに、数本の題名を上げてみ
ます。

 『異端者同好会』 ちょっと興味を引きそうな題名かな。

 『笛吹き峠』 昔話からとった内容なので、まあ、しょうがないか。

 『海にたぴだつ鮭の子ら』 七五調で響きはいいけれど、主人公が気持ちを入れかえて旅立つという内容がみ
えてしまう。

 『秋まつり』 見たいという気持ちが湧かない平凡な題名ですね。

 『落選協奏曲』 なにかが起こりそうな感じがするが・・・・・

 『私の海は黄金色』 きれいな印象の、私の好きな題名のひとつ。

 『聞えるかい、この声が』 おしつけがましい感じがしますね。

 『だるまさんがころんだ』 一瞬、なんだろうという感じはするが、幕が開くと「アッ、そうか」ということになって

しまうかも。

 いろいろな地区の発表会を見に行ったとき、プログラムを見ただけで興味をそそられる題名に出会うことがあ
ります。そのような劇は、幕が開く前から少し得をしているのかもしれません。また、登場人物に名前をつける
とき、「喋りやすいか」「響きはどうか」ということを考えることはもちろんですが、「りょうこ」「ようこ」というまぎら
わしい二人が登場しないように気をつけて下さい。

 今回のの題名「君がいたから}はどうでしょうか。「友達がいたから、勉強以外の大事なものかあるということ
がわかった」という内容の題名に感じました。しかし、そう思った主人公の拓哉が、最後にこの世から消えてし
まうのです。すると「君がいたから、私はこの世から消えてしまった」と、とられる恐れはないだろうかという心
配も出てきます。大事なものに気づいた拓哉が、友達の力を借りて心を取り戻したのなら、この題名がもっと生
きたものになったと思います。



私の感想

 高校生が高校生を題材にした脚本を書いた場合、本当に生き生きした会話の舞台になるんですね。私が高校
生の様子を観察lたり想像したりしながら書くセリフと違って、自分たちが普段使っている言葉を使うためか、「セリ
フが生きている」という感じがします。今回の舞台もそうでした。友達四人の合話が自然で、四人の関係が生きた
ものになっていました。

 また、図書館を中心にした舞台装量でしたが、転換が早くて良かったと思います。暗転の時間が長いと流れが
切れてしまうのですが、照明で舞台空間を区切って表現したり、公園の場面に転換するときの装量の動きなども
スムーズで、心理的に途切れることなく見ることができました。

 残念だったのは、女子の生徒が買収人を演じていたのは気にならなかったのですが、男子役の拓哉や直樹を
女子が演じていたのは、やはり違和感を感じてしまいました。演劇部員の構成からやむをえないことかもしれま
せんが、四人とも女子高校生という設定でできなかったのかなという気持になりました。

 前にも述べましたが、自分たちで脚本を創作するということはたいへん素晴らしいことです。できれぱ、今回の
脚本をもう一度整理し、分析し直してみてはどうでしょうか。そして「今、自分たちが考え感じていることを」話し合
いながら、次の舞台に向けて、また創作脚本という形で挑戦してほしいと思いました。


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