第8部 平成7年度 岩手県大会 岩手県向中野学園高校
  
    『 童 話 裁 判 』 森本ゆかり/作
 

 


〈あらすじ〉

  幕が開くと、シンデレラ・白雪姫・グレ‐テルの三人がはたきやほうきを手にして踊っている。音楽がやむ
と三人掃除を始める。それぞれの物語の内容に関したことを話して、ひとり、またひとりと退場する。

 舞台明るくなると、大きなひまわりを華やかに描いた装置に、いろいろなぬいぐるみが沢山置いてある新
婚家庭の部屋の場面になる。もうすぐ赤ちやんが産まれそうな、大きなおなかをしたお母さんが編物をして
いる。そこヘ、父親がお土産のぬいぐるみを持って帰ってくる。ふたりの楽しい会話の場面に、絵本販売人
が登場する。絵本販売人は「数日後にまた参りますから」と言って、絵本と三枚のポスターを置いていく。
ニ人はポスターを部屋に貼る。

 突然、シンデレう・白皇ョ姫・グレ‐テルの三人がポスターから飛び出し、部屋の中をとぴまわり、騷ぐ。二
人は驚くが、やがてこの三人の名前が分かる。三人はそれぞれの物語の裏話を始める。「シンデレラは、
いかにわざとらしくなく靴を置いたか」「グレ‐テルは、魔女を殺したとき笑っちやった」というようなことを、面
白おかしくわいわい話している。その話を聞いていた父親は、「そんな童話は子供に聞かせたくない」と言
って絵本を破いてしまう。子供にとって童話は必要ないという父親と、必要だという母親が口論しているとこ
ろへ、絵本販売人がやってくる。

 絵本の持つ裏を暴き出そうという父親が検事になり、童話を擁護しようとする母親が弁護士になり、絵本
販売人が裁判長になって、童話の裁判が開かれる。「物的証拠不十分」ということで父親の訴えは却下さ
れるが、三つの物語の裏の部分を父親は夢で体験することになる。

 夢から覚めた父親は、子供と童話の関係を理解し、読ませることに同意する。絵本販売人と童話の主人
公たちが帰った後、母親は編物をし、父親は新聞を読んでいる。静かに子守唄がながれているなかで、幕。



  〈講評メモから〉
         幕開きの踊りと三人の語りgood
         装置・・・雰囲気が出ている
         セリフの喋りがいい、つきぬけてくる、   ふっきれている
         毒の部分の提示の仕方か流されている
         ★童話だから全てが許されるのか
 
 ※「幕開きの踊りと三人の語りgood」

 脚本の最初に、次のようなト書きが書いてあります。

 「音楽。幕あき・・・・白雪姫とグレーテルが雑巾を持って床を拭いている。シンデレラがバケツを持って登場
雑布を絞って床を拭きはしめる。やがて……」

 このト書きには「踊り」のことはなにひとつ書かれていません。でも、今回のこの劇の幕開きのひきこみはと
てもよかったと思います。客席が暗くなると軽快な曲が流れ、幕が開くとシンデレラ・白雪姫・グレーテルの
三人が掃除をテーマにした踊りを踊っている。そのようにして観客の気持ちを舞台にひきつけておいて、三
人の語りが始まる。しかも、開幕前の音楽から踊り、そして語りへと続き、そして次の場面までの流れがき
れいにつながっているのです。前にも書きましたが、幕開けの五分問の処理がとても良かったと思います。

 劇中に歌や踊りを入れるとき、その歌や踊りが劇から浮き上がって見えることが時としてあります。きちん
と練習をつんだ、しっかりしだ歌や踊りでないと、劇の効果を落としてしまうことが多いのです。しかも劇の流
れに合った使い方をしていないと、いくらうまくても不自然に感じるのです。その点、今回の幕開きの踊りと
語のり流れは大変良かったと恩います。

 次に、脚本に書かれていない「踊り」を入れることについて考えてみたいと思います。結論から言えぱ、踊
りを入れても構わないと私は思います。脚本を書き変えるのであれば、作者の了解が必要となる場合もある
と思いますが、脚本のもつ味を高めるために、いろいろアイデアを考えて舞台を作るのが、演出でありスタッ
フでありキャストだと思うのです。脚本は、「そこに書かれていることを舞台で表現してほしい」ということであ
って、「そこに書かれていること以外のことはやってはならない」という制約されたものではないと考えられま
す。作者の持っている「ねがい」が、作者の想像を越えたもっとすぱらしいものとして舞台に表現されたなら、
作者にとっても大きな喜ぴになると思います。逆にいえば、あまりにも事細かに脚本で指定されていると、上
演するほうとしては、劇を作る楽しみがなくなってしまうのではないでしょうか。

 台本に書かれていることを手がかりに、自分たちでその世界を想像し、作者の表現したいことを自分たちの
ものとして、自分たちなりの新しい世界を作り出していく。そういう作業があるから、演劇は楽しいのだと思い
ます。

 劇の作り方に、「この方法が一番いい」というものはないのですが、ある高校の作り方を紹介しましょう。

 ある場面をどのように演出するか、前の日に部員全員に宿題というかたちで出すそうです。次の日、考えて
きたアイデアをどんどん出して、それを演出が中心になってまとめるというものです。例えば、お婆さんが登場
する場面では、「どのような歩き方で登場するか、出てきたら一発クシャミをさせて鼻水をすすらせよう」という
ように、そのお婆さんを演ずるキャストがいろいろ考える前に、劇としての個性をみんなで話し合うというもの
です。

 自分がキャストになっていなくても、「あの場面のあのアイデアは自分が考えたものだ」というように、みん
なで劇作りに参加するという方法は、なかなかいいものだと思いませんか。


 ※「装置・・・雰囲気が出ている」

 幕開けの三人の舞台はサス明かりで演じていましたが、その場面が終わって舞台一杯に照明がはいると、
舞台奥に二重が上手から下手にかけて伸ひていて、そのケコミに大きなヒマワリが華やかに沢山描いてあり
ました。また、舞台一杯にぬいぐるみが沢山、本当に沢山置かれていて、童話の雰囲気を作っていました。
最初、舞台前面の広いスペースが気になりましたが、キャストの動きが充分計算されていて、見ているうちに
その広さが気にならなくなりました。

 シンデレラ・白雪姫・グレーテルの三人の服装はそれぞれの物語に合わせたしっかりした作りの衣装でした
しかし、その服装が映えないのです。最初の場面は良かったのですが、ポスターから飛ひ出した後はあまり
パッとしないのです。観客の目からすると、あまりにもヒマワリやぬいぐるみの豊かな色彩のため、三人の服
装がそのなかに溶け込んでしまっているのです。また、絵本販売人からもらったポスターを貼った時にも同じ
ように感じました。一枚ずつ広げて見せたときには、とても可愛らしくてしっかり描いてあるポスターと感じまし
たが、舞台奥のケコミに貼ると周囲の色彩に負けて、目立たなく感じたのです。惜しいなあと思いました。「演
劇はバランスが大切だ」と言っているプロもいるのですが、それは色彩についても言えることなんですね。しか
し、今回の劇のように、ひとつひとつをしっかり丁寧に作っているからこういうレベルの高いことを感じるのだと
思います。

 次に、装置について気になったことを書いてみます。小さいことといえば、とても小さいことかもしれませんが
洋間という設定ならそれなりの気遣いがほしいと感じました。お父さんとお母さんがスリッパを履いていて、産
まれてくる赤ちゃんのための白いおしめが無造作に置いてあると、じゅうたんなどが敷いてある洋間をイメ‐ジ
して舞台を見ています。ところが、そこへ絵本販売人が靴のままで登場すると、土足のまま上がれる板の間と
いうことになり、その床に置いてあるおしめが汚れるのではないかと気になるのです。たいしたことではないか
もしれませんが、観客の気持ちをよけいな方に使わせないよう、配慮してほしかったと思います。



 ※「セリフの喋りがいい、つきぬけてくる」
   「ふっきれている」

 劇の感想を言うとき、日常ではあまり使わない言葉を使って表現することがあります。今回も「セリフの喋りが
いい、つきぬけてくる」とメモしてあります。「セリフの喋りがいい」というのは、ある程度わかってもらえそうな気
がしますが、「つきぬけてくる」というのはどういう感じなのでしょうか。この言葉について、はっきりした統一され
た意味というものを私は聞いたことがありません。また、こういう表現をするのは私だけなのかもしれません。し
かし、メモしてあることなので、このことについて少しふれてみたいと思います。

 例えぱ、小説を読んでいるとき、その世界の中に自分が入りこんでいるような心境になることがあります。主
人公の姿や周りの情景などが頭の中に浮かんで、登場人物と一緒にドキドキしたり、涙を流すこともあります。
しかし、あまり気乗りしないものを読んでいるときは、書いてあることは分かるけれどもイメ‐ジが自分のものと
して浮かぱないということもあります。このように、舞台でやられている劇にも、「舞台の上だけでなにかをやっ
ているな」と感じられるものと、「舞台の世界が客席をつつみこんで、観客とともに生きている」ように感じられる
のもがあります。別な言い方をすれぱ、舞台と客席の間に目に見えない透明なガラスがあって、水槽の中の
世界を見ているように、客観的な気持ちで舞台の出来事を眺めているとき、「つきぬけてくる」とは表現しませ
ん。舞台と客席の間の境がなくなっているとき、「つきぬけてくる」という表現を私はしています。私が「つきぬ
けてくる」という言葉を使う場合、無意識のうちに舞台と観客の呼吸を感じているのかもしれません。

 また、「ふっきれている」という言葉もメモしてあります。この言葉もどのように表現していいのか迷いますが、
「劇にやらされている不自由さが感じられない」。そうかといって、「勝手気ままにやっているのではない」という
ことになるのでしょうか。例えば、暗記したセリフを一生懸命思い出しながら話しているときは、情のこもったコト
パには感しられません。まだ自分のものになっていないので、劇にやらされている不目由さを感じるのです。そ
うかといって、力を抜いて楽にやればいいだろうということで、自分なりに勝手にやれぱ劇からはみ出してしま
います。「脚本を自分たちのものとして、脚本を越えて表現している」ときに、私は「ふっきれている」と感じるの
だと思います。

 ところでこの「脚本を越えている」という言葉も、どう表現してよいのか難しい言葉のひとつですね。ピアノを弾
く場合に例えてみると、ショパンの楽譜(森本ゆかり作の脚本)を間違えないようにただ一生懸命弾いた(劇を
上演した)のでは、「一生懸命やりましたね、ご苦労さんでした」というレベルで終わりです。自分なりに解釈し、
味付けをすることで、「私の弾いたショパンの曲(私達の童話裁判という劇)」になると思います。脚本という設計
図を土台として自分なりの家を建て、しかも、土台からはみ出した不安定な部分を感じさせないとき、「脚本を
越えている」という表現がピッタリだと思うのですが、いかがでしょうか。


 ※「毒の部分の提示の仕方か流されている」

 昔話や童話には恐い部分がずいぷん入っています。猿カニ合戦では、力二を殺した猿は、蜂に刺されたり
押しつぷされたりします。カチカチ山の狸は、狸汁にされようとしたところをうまく逃れ、お爺さん殺してしまい
ます。そのため背中に火傷をしたり、泥の船に乗って川に沈められたりします。

 この劇に出てくる物語の主人公も、別の角度から見ると、きれいごとではすまされない解釈ができます。例
えば前に述べたような「シンデレラは、わざと靴を片方置いてくることによって幸せになった」ということですが、
それが観客に示された時、観客は一瞬エッと思います。父親も、それを知ると「そのような裏のある、残酷な
ことが多い童話を子供には読ませたくない」という気持ちになります。このような裏話や残酷なこと(毒)を観客
に示すとき、もっと強烈であれぱよかったと感しました。観客にとってあまりたいしたことでないように感じると、
なぜ裁判をしなけれぱならないか疑間になります。父とともに「それは大問題だ」と感じたとき、次の場面にの
めりこんでいくことになるわけです。

 そこで童話裁判となるのですが、「シンデレラの魔法がとけたとき、ガラスの靴はなぜそのままだったのか」
とか、「グレ‐テルはお婆さんを殺したのに、なにもとがめられることなく幸せになったはおかしい」ということが
次々と出てきます。父親は、三人の主人公とそれぞれの物語を体験することによって、子供に童話を与えるこ
とに賛成することになるのですが、なぜ賛成するような気持ちになったのか、舞台を見ていてもわからなかった
のです。これは上演する側の問題なのか、脚本の問題なのか分かりません。観客のひとりとして「なるほど」と
いうものが感しられると、「童詰裁判」のもつ意味が深くなったのではないかと思いました。

                                                       


 ※「童話だから全てが許されるのか」
 
 劇を見終わって感想をメモしながら、フッと「童話だから全てが許されるのか」という疑問がおきました。このこ
とは、童話に限らず民話・お伽話・昔話といわれるものにもあることなのですが、「むかしむかしあるところに、
欲のふかい悪いお爺さんととてもやさしい良いお爺ざんがいました」という話しで始まると、どのように欲が深い
のか、どんな悪いことをしているのかあまり説明されないままに、その悪いお爺さんはさんざん痛めつけられま
す。はなしのなかには、殺されてしまうことさえあります。それに比べて、物語の主人公はなにをやっても正当
化され、最後はハッピーエンドになります。しかも、自分の努力ではなく、魔法の力とか正義の王子様によって
幸せになることさえあります。この劇を見ているうちに、「主人公は、お話だからなにをやっても全てが許される
のか」ということを感じたのです。

 例えぱ、シンデレラは継母やその子供たちにいしめれます。このことは理不尽なことです。シンデレラのやっ
たことからきたものではないのに、そのような境遇におかれるのです。しかしこのお話には、シンデレラの父親
は登場しません。責任の一端を負わなければならない父親が不在のままに、読者の同情をかうような「可愛
そうな状況」に追い込まれるのです。そこへどういうわけか、魔法使いが登場します。シンデレラと同じ境遇の
娘が沢山いるかもしれないのに、なぜかシンデレラのところに現れるのです。そして、王子様と結婚できるよう
にしむけるのです。不公平だと思いませんか。しかも、シンデレラは自分でなにひとつ努力していないのです。
このように考えると、この劇の父親の気持ちがよく分かります。

(原作には、シンデレラの父親のことや、魔法使いのお婆さんがなぜシンデレラのところに現れるのか書いてい
るようですが、それにしても、あまりにも都合良すぎる展開と思います)
 
 このように、劇を見ることによって、その劇の範囲を越えていろいろ考えさせられる場合があります。このよう
なとき、なにか儲かったような気がして、「この劇を見て良かった」と思うのです。そして、この疑問がずっと心に
ひっかかって残り、このことを思い出す度に、今回の童話裁判の舞台が記憶の底から浮かんでくるのです。私
の中に「劇が生き続ける」ということになるのです。今回も「この劇を見てよかった」と感じました。

                                                                                                                       


 〈私の感想〉

 今回の童話裁判という劇は、今まで何回見たでしょうか。思い出せないほどいろんな大会で見ましたが、今回
の舞台が私にとっては一番艮かったように感じました。とても見易い感じがした第一の要因は、メリハリが効い
ていながら力が抜けていたことでしょうか。幕開けからスッと舞台に引き込まれていきました。

 劇の仕上がりとは直接関係のないことですが、遠くの方からも生徒が来ている関係や、授業の関係でなかな
か練習ができないため、この学校はここ数年地区の大会に出場していなかったということです。それが、このよ
うに素敵な舞台を作ってきたのですから、ちょっと驚いてしまいました。しかも、発声やスタッフ関係の心配りもし
っかりしていて、手抜きをしている部分が感じられないのです。劇の舞台というものを知っている作りなのです。
よく、パワーのある舞台ではマグレのようにすごいものが出てくることがありますが、そういうときは単発で終わ
ることが多いのです。しかし、今回の舞台は基礎や力というものを感じましたので、来年も期待できると思います。

 さて、今回の上演は、この学校の演劇部員にとってどういう感想でしめくくったのでしょうか。私は、「勝った負け
た」という言葉は演劇にふさわしくないと思っていますので、「代表になるならない」という言葉を使いますが、この
学校の演劇部員にとっては「代表にならなかったけれども、楽しかった」ということで満足したのではないかと、勝
手に想像しています。よく、代表になれなかった悔しさのためか、表彰の時うつむいたままで賞状を受け取る場面
を目にすることがあります。もちろん、それなりの評価を受けて代表になれぱそれにこしたことはないのですが、代
表になることを唯一の目標とすることはどうでしょうか。それよりも、いま自分たちがとりくんでいる脚本とどれほど
真剣に深く係わって、新しい自分を発見したり、時間と汗を流して作り上げてきた時間が自分にとってどのような貴
重な経験になったのかというようなことを大切にしたいと思います。

 そういう意味でも、今回の上演はとてもさわやかな印象を受けました。いまでも、目をつぷると鮮明に舞台を思い
浮かべることができます。

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