第3回 国見の丘

  ----Pura Tegeh Koripan,G.Panulisan.



   翌朝、三人はニョマンの運転するキジャンで北へ向かった。グヌン・カウィに近い聖泉タンパクシリンを経由し、プタヌ、プクリサン両川に沿いながらプヌロカンを目指した。

 バトゥール・カルデラを一望する展望台で有名なプヌロカンは、内外の観光客と彼らを目当てにした物売りでごった返していた。

 バトゥール火口原には、南方から西方にかけてプヌロカン、カラガニャル、バトゥール、キンタ・マニの四つの村が連なっている。9世紀以来、歴代のペジェン=ブダウル国王は、バリ語で碑文を意味するプラサスティをこの地域に建立した。現在キンタ・マニと呼ばれる村は、バリ語で「珠玉」「至宝」を意味するチンタマニという村名で記されている。

 バトゥール湖の女精、デウィ・ウルンダヌ・バトゥールを祀るプラ・バトゥール大寺は、度重なるバトゥール火山の噴火や地震で伽藍が破壊された。1926年の大噴火の際、湖の東北岸にあった旧バトゥール村は溶岩流に呑み込まれてしまった。寺は辛うじて無事だったものの、村人は寺を現在地に移築し、新しいバトゥール村をつくった。

 寺は未だ完全に復興されていないが、完成すればブサキー寺院に次ぐ規模になる。この寺のオダラン(年祭)は、勇壮な男性舞踊バリス・グデで有名である。

 しかし、今日の目的地はこの寺ではない。四人の乗ったキジャンは、バトゥール寺の前を疾駆した。

 キンタ・マニの小さな聚落を過ぎると、人家や畑が姿を消し、やがて鬱蒼とした森林地帯に入った。見慣れた熱帯の樹木が姿を消し、まるで日本の山道を走っているかのようだ。
 道路は傾斜を増し、やがて大きな左カーブにさしかかった。道路脇にある、いかにも峠のドライブイン然とした佇まいの茶屋の前に車は停まった。トゥグー・コリパン寺に着いたと、ニョマンは告げた。

 車から降り茶屋の辺りを見渡しても山と絶壁ばかりで、寺らしい建物はどこにも見えない。茶屋の中を覗いても、大型トラックの運転手や作業服を着た人が数人飲食しているだけで、参拝者や観光客の姿もない。

 「どこから来たのかね?」と、まごついている厚木に茶屋の主人が英語で訊いた。
 「日本からです」と、厚木はインドネシア語で答えた。
 「ほう」と、主人は驚いた。「インドネシア語が話せるのかね」
 「はい」と、厚木は答えた。「少しだけですが」
 車の横で奥山と美耶子は、ニョマンと打ち合わせをしていた。

 「お前さん達」と、主人は言った。「グヌン・プヌリサンに登るつもりかい」ここまで来る外国人が珍しいらしい。しかもインドネシア語が通じるとあって、会話を楽しんでいるようだ。

 「前に見える階段が参道ですか」と、厚木は訊ねた。「ずいぶん高そうですね」
 「ああ」と、素っ気ない返事のあとから主人は訊いた。「お前さん達はテレビ局の人達かね」
 「えっ」と、厚木は答えを詰まらせた。

 困惑している厚木に気付き、ニョマンは主人に事情を説明した。
 「すまんね」と、主人は厚木に言った。「外国人など滅多に来ないものだから。気を付けて行きな」

 目指すは山頂にあるトゥグー・コリパン寺である。ムプ・ブガという人物が奉納したウダヤナ国王夫妻像の光背銘から察し、1011年には建立されていた古刹である。トゥグー・コリパンとはバリ語で「高い所にあるもの」を意味し、その名のとおりバリで最も高い場所に建つ寺院である。

 地元では、単にプラ・トゥグーとか、プラ・プチャ・プヌリサン、プラ・プヌリサンと呼び、あるいは寺の所在地の地名によりプラ・スカワナと呼ぶこともある。この村は、古代バリ碑文にはシカワナ(Sikawana)という名で記されている。

 境内には、前述の石像の他、アナック・ウンス王とバタリ・マンドゥル王妃像の背面に刻まれた1077年の紀年のある碑文や石像、リンガなどが祀られている。アナック・ウンス王(在位1049〜77)は、ウダヤナ王(在位989〜1016)の三男で、タンパクシリンにあるグヌン・カウィ墓廟を建造した人物である(第1部第6章「詩人の山」参照)。

 寺院のテラスからはバリ北海岸を一望できる。植民地時代、玄関口ブレレン港と当時の首都シンガラジャと、南部のデンパサール方面とを最短で結ぶブドゥグル(ブラタン湖)・ルートが開発されるまで、プヌリサン経由の街道が南北を結ぶ主要ルートだった。ペジェン=ブダウル(現ブドゥル)に都を造営した歴代の国王が、南北両地域を眺望できるこの山上に国家寺院を造営し、王国の記念碑を建造したのもうなずける。

 サカ暦804年すなわち西暦882年というバリ史上最も古い日付が刻まれた碑文が、この山から発見されている。オランダの考古学者ルーロフ・ホリス博士の『バリ碑文集』によれば、それ以後1332年までの450年間に、スカワナ=プヌリサン地域で10種、バトゥール湖周辺を含めると24種の碑銘が確認されている。

 グヌン・プヌリサンは標高1745メートル、大バトゥール外輪山の西北峯に当たる。この山は、古くはプナラジョン(Panarajon)あるいはウキル・プドゥルンガン(Ukir Padelengan)と呼ばれていた。前者は、「先端」「突端」を意味する「taju」というバリ語に接中辞「-er-」が挿入されて「t-er-aju」となり、さらに場所を表わす接頭・接尾辞「pa--an」が接辞された pa-teraju-an を経て現在の語形になった。後者は「国見の丘、山」を意味する。

 プヌリサン(Panulisan)の方は、「見渡す」「眺める」を意味する「tulih」というバリ語に場所を表わす接頭・接尾辞「pa--an」が接辞され、pa-nulih-an すなわち「眺望所」となり、バリ語ではh音がs音に変化する例があることから現在の呼称になったとされている。

 トゥグー・コリパン寺は、東西二つ、大小五つの境内に分かれている。

 (1)プラ・ダナ――西の小社
 (2)プラ・タマン・ダナ――西の小社
 (3)プラ・ラトゥ・ラトゥ・パニャリカン――西の小社
 (4)プラ・ラトゥ・ダハ・トゥア――西の中社
 (5)プラ・プナラジョン――東の大社

 300段に及ぶ石段を昇っていくと、T字路にさしかかった。左に折れると西の境内、右に折れさらに昇ると東の境内に到る。

 ふと左を見ると、鉄塔がそびえている。デンパサールのテレビ局からブレレンに電波を送信する中継塔である。茶屋の主人が勘違いしたのはこのためだったのである。

 額に汗をにじませ最後の一段を昇り終えると、プラ・プナラジョン寺が一同を迎えた。境内に並ぶ社はいずれも小振りながら、侘びた匂いと湿り気、苔むしたシュロ葺き屋根と地面が荘重な風格と歴史の厚みを増していた。ここまで来た甲斐があったというものだ。

 疲れを癒す隙もなく、ニョマンがプダンダを連れてきた。ペジェン人の魂には、古代ブダウル王国の国家寺院の伝承が宿っているのだろうか。
 聖水による清めが終わると、次はマントラの朗詠という念の入れようである。プダンダは、同じことを一人ひとりに三度繰り返した。彼の魂もまた古代ブダウルに連なっていた。


プラ・プナラジョン主門の写真です(JPEG/96KB/372×260Pixel)プラ・プナラジョン主門(JPEG/96KB)

 30分後、一同をプラ・プナラジョンに迎かえ入れる「儀式」は終わった。

 プダンダは、ニョマンにバリ語で語りかけた。ニョマンは三人に通訳しようとしたが、制止された。5分ほど会話し、プダンダは行ってしまった。

 「プダンダは」と、ニョマンは言った。「不思議なことを言いました。私たちが来るのを知っていたのです」
 厚木がその理由を訊ねた。

 「プダンダが言うには」と、ニョマンは答えた。「1週間ほど前、夢を見たそうです」
 「夢?」と、怪訝そうに美耶子は言った。

 「ええ」と、うなずき、ニョマンは話を続けた。「ジャワのラウ山が噴火し、噴煙がプヌリサン山まで飛来しました。目を凝らすと、噴煙の塊、つまり雲の上に王族の出で立ちをした男女が三人乗っていたそうです」

 ラウ山は、中部ジャワのソロ市東方、中ジャワ州と東ジャワ州との境にそびえる火山である。標高3254メートルはジャワ有数の高さを誇り、古来神々の棲む山として崇敬されてきた霊峰である。

 「プダンダが」と、ニョマンの話は続いた。「用件を訊ねると、バリの王女を探しに来たと、王子が答えました。次に、この山に来た理由を問うと、古来この山は『国見の山』として名高い所、妃を探すのに相応しい所と、侍女が答えました。最後に、いつ見つかるのかと訊ねると、次のブダ=ポンにと、小姓が答えました。それからしばらくして、三人は姿を消したそうです」

 「不思議な話ね」と、美耶子は首を傾げた。
 「その方は」と、奥山を一瞥しニョマンは言った。「ソロからいらしたのでしょう」

 「まさか」と、疑ったものの、念のため厚木はニョマンに訊いた。「今日は何の日だい」
 「今日は」と、ニョマンは答えた。「そのブダ=ポンです」

 「ブダ=ポンか」と、奥山は独りつぶやいた。「願いが成就すると謂われる日だ・・・」
 三人の視線が同時に奥山を射た。
 「いや」と、奥山は照れ笑いした。「ソロにいた時、宿の人からプリンボンを教えてもらったのです」

 プリンボンとは、ジャワ人の間に伝わる暦占いや予言の解説書である。一般にジャワ人は神秘主義を好む傾向が強く、固有の民族宗教はもとより、古代に栄えた仏教は密教、ヒンドゥー教も秘教的なヴァイラバ派やシワ教が主流であり、イスラムも例外ではない。これらが渾然一体となり、クバティナンと呼ばれるジャワの宗教を作り上げている。

 数通りのサイクルをもつ曜日を組み合わせたカレンダーをもとに、行事日程や運勢、方角、手相、様々な吉凶、果ては共同体や国家の命運までを占う。オランダ植民地支配と日本軍による解放を予言したとされる11世紀クディリ王国のジョヨボヨ王(在位1135〜57)の予言書『プリンボン・ジョヨボヨ』は有名である。

 一般の書店ではあまり見かけることはないが、ジャワ各地の露店やワルンで入手でき、大半はジャワ語で書かれている。

 美耶子はニョマンを連れて二人から離れ、訊ねた。「さっきのお坊さんは他に何か言わなかった?」

 美耶子が言い終わらないうち、突如ガムランの大音響が耳を打った。ニョマンは美耶子に聞き返した。
 「プダンダは他に何か言っていなかった?」と、美耶子はニョマンの耳元で言った。

 「プダンダは」と、ニョマンは言った。「難しい表現をしていましたが、平たく言えば、シンクロ・・・、何と言いましたっけ」
 「シンクロニシティ」と、美耶子は応えた。
 「それです」と、少し昂奮した口調でニョマンは言った。「あなたを一目見て分かったそうです。夢の中の王子が探していた『プトリ・バリ』の意味が」

 「そんな」と、驚きと困惑が入り混じった口調で美耶子は言った。
 「その通りなのです」と、ニョマンは冷静に言った。「境内を一廻りしたら、プダンダの所へ行きましょう」

 その時、雷鳴の終わりを告げるかのように大銅鑼が鳴り響き、ガムランの調べは雅びな響きに変わっていた。

(第3回終わり)

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