第2章 象の洞窟

  ----Goa Gajah, Bedulu.



 ウブッド宮殿前から車で10分ほどで、ガムラン音楽と舞踊で有名なプリアタン村タガス地区に到る。踊り子像の立つT字路を右折すると、デンパサール方面へ続く道路である。

 直進して、起伏のある水田地帯を5分も走ると、「GOA GAJAH」 と大書した看板が見えてきた。広い駐車場には観光バスがひしめき合っていた。どうやら、観光地だけは「金曜日の公休」から外れているらしい。

 入場料の550ルピアを支払い、美耶子は腰にスレンダンを巻いた。

 遺蹟といえども聖域とされるバリでは、タンクトップやショートパンツ姿では入場できない。色とりどりのサロンの陳列が見られ、ひいき目にも似合っているとはいえない白人たちが悪夢のファッションショーを催していた。

 入口でワヤンと別れ、洞窟へと続く坂を独りで下った。

 あと少しで下り終える地点で、美耶子は背中に鋭い眼光を感じた。背筋の左辺りがチクチクする。が、坂道の左端は崖であり、またこれほどの視線を彼女に送っているような人物も見当たらない。

 (気のせいよ。少し興奮しているのだわ)と、自分に言い聞かせながら、坂を下り続けた。今は背後に洞窟があるが、坂が途切れた所で方向転換しなければならない。

 洞窟の方を向いた途端、美耶子はその場で立ちすくんでしまった。洞窟に彫られた顔の両眼が美耶子を睨んだのである。

 「どうしましたか?」と、声をかけられ、我に返った美耶子の前に一人の青年が立っていた。膚が浅黒く、バリ風の正装をしている。写真で見たことのあるバリの僧侶のようだ。

 美耶子は絶句した。(確か日本語だった・・・。バリ人はみんな日本語が話せるのかしら)

 「僕は日本人ですよ」美耶子の疑惑に気付いたらしく、白い歯を覗かせて笑い、はっきりした口調で青年は言った。

 「訳があってお寺に出入りすることが多いので、こんな格好をしているのです。これならどこのお寺でもフリーパスだからね」

 美耶子はまたびっくりした――どんな理由があって、日本人がバリの寺などに出入りしているのだろう。それにしても、衣裳といい着こなしといい堂に入っている。それが新たな疑惑を生んだ。

 「とりあえず前へ進みましょう。ここにいては通行の邪魔になる」青年の言葉に促され、美耶子は彼の後から歩き出した。

 沐浴場の前で二人は止まった。美耶子の方に向き直し、青年は自己紹介した。「僕は厚木祐介といいます。当年26歳です。会社を辞めて1カ月前からバリで暮らしています。ペジェンという村の安宿です」

 美耶子も調子を合わせた。「わたしは藤森美耶子です。大学3年生で、昨夜からバリに居ます。ウブッドの中級の宿です」

 その時、一瞬だが、厚木の顔が強張ったように美耶子は感じた。「何かおかしなことがおありになって」と、美耶子は訊ねた。

 「いや。・・・ちょっと」と、厚木は口ごもった。

 「よう、カルタ! 何やってるんだ」突然バリの若者が割り込んできた。正装しているものの膝までサロンを巻き上げ、まるでバリのアンチャンといった風体である。

 「マデか。何でもないよ」照れくさいのか、厚木はディーパックを指で小突くしぐさをした。

 マデと呼ばれた青年は、東洋系の娘を二人連れていた。両人とも髪が長く、膚が白い。服装や言葉から察するに、ジャカルタ辺りの華人の娘らしい。冗談を交しながら三人は洞窟の方へ行ってしまった。


ゴワ・ガジャ洞窟の写真です(JPEG/90KB/349×238Pixel)ゴワ・ガジャ洞窟(JPEG/90KB)

 しばらくして、先に口を開いたのは美耶子の方であった。「今の人、貴方を『カルタ』と呼んでいましたけれど」

 「あぁ。カルタというのは僕のバリ名なんだ」頭に手をやりながら厚木は答えた。

 「カルタって、トランプとか賭札の」と、美耶子は訊ねた。

 「それはポルトガル語だろう」厚木は苦笑した。「カルタというのは、インドネシア語で『都市』という意味なんだ」

 ゆるく腕組みしながら厚木は話し続けた。「ジャカルタとかヨクヤカルタとかスラカルタとか、ジャワの都は何々カルタと呼ばれることが多い。昔は都市すなわち都だったからさ」

 「それで、さっき私の名前を聞いたとき、驚いたのね」と、美耶子は合点した。

 「うん。実はね、僕がカルタと呼ばれる理由は・・・、僕が『やこ』を捜しているからなんだ」厚木は「み」の箇所にアクセントをつけて言った。

 「え?」美耶子は戸惑った。

 「人じゃない」厚木はかぶりを振った。「僕が捜しているのはバリの都さ。今いるゴワ・ガジャはブドゥルという村にある。ブドゥルとその北のペジェン村一帯は、14世紀までバリの都だったんだ」

 「それは何かの本に書いてあるの?」と、美耶子は訊いた。

 「そう。14世紀の東部ジャワにマジャパイトという王国があった」と、話しながら厚木は地図を指差した。

 「スラバヤの南にモジョクルトという町がある。そこには味の素の工場があり、これがインドネシアで最初の日系企業だったから、インドネシア人が日本人を『アジノモト』と呼ぶのはここから来ているらしい」

 冗談にも顔色を変えず、美耶子は傾聴していた。それを確認するかのように、厚木は話を続けた。

 「モジョクルトから西へ数キロ行った所に、トロウランという村がある。ここにマジャパイトの都があったといわれている」

 「それがバリの都と関係があるの」と、美耶子は訊ねた。

 美耶子の問いに構わず、厚木は話し続けた。「マジャパイトは、ジャワで最後にして最大の版図を誇ったヒンドゥー国家だった。アヤム・ウルック王の治世にガジャ・マダという宰相がいて、50年もかけてインドネシア各地を征服した。

 バリも1343年に征服されて王が殺された。その王の名はダラム・ブダウルといい、死体はルワ・ガジャすなわち象の川に流された。アヤム・ウルック王の宮廷詩人ムプ・プラパンチャが編纂した『ナーガラクルターガマ』という古文書にそう書かれている。

 歴史学者の説によると、ブダウルの地は現在のブドゥル村、ルワ・ガジャはゴワ・ガジャ遺蹟の中を流れるプタヌ川のことだと解釈されている」と、厚木は一気にしゃべった。

 「じゃ、そのブダウルというバリの古都がどこにあったか分かっているのでしょう」いつしか美耶子の顔も昂揚してきた。

 「そこからが問題なんだ」と、厚木はかぶりを振った。「ブダウル、つまり現在のブドゥル村周辺が宮都だったことには異論がないが、問題はブダウル王の宮殿がどこにあったかということだ」

 時を忘れ会話が弾むのは愉快なことだが、場所を弁えぬと非難の種となることがある。観光スポットである沐浴場の正面に陣取り、地図を広げて声高に喚いている光景を違う観点から眺めている二つの集団があった。

 一つはバリ人ガイドたちで、二人を遠巻きにしてニヤニヤ笑いながら眺めている。もう一つの集団はゴワ・ガジャ見物に来た外国人観光客で、恰好の記念撮影場所が長時間占拠されていることに、無言の抗議をしているように見えた。

 観光地では、地元民と観光客とでは二つの異なる視点が共時的に存在する。ことバリでは、観光客は名所を見て楽しみ、現地の人々は見物に来る観光客を見て愉しむのである。

 凝固した時間から解放された途端、周囲の状況を察知し、美耶子は洞窟の方へ歩き出した。地図をバッグに慌ててしまい込み、厚木がその後を追った。

 5メートル四方もある奇怪な顔の彫刻が眼前にある。美耶子はバッグからガイドブックを取り出そうとしたが、ここではまったく無用であった。

 「この洞窟は1923年に発見されました」と、厚木が事務的に話し始めた。「入口に彫られた顔は、魔女ランダの顔ともパスパティの顔ともいわれています」

 バリの創世神話では、パスパティ(=シワ)は、聖なる山マハメル山を二つに分け、それをバリに投げつけてアグン山バトゥール山を造ったとされている。

 洞窟の入口は、高さ2メートル、幅1メートルの口であった。厚木の後から美耶子は洞窟に入った。案の定、洞窟内は真っ暗である。

 T字路に突き当たった所で目が慣れるのを待とうとした矢先、突然明るくなった。洞窟内に潜んでいた老人がランプを灯したのだ。
 高さ1メートルほどの、象の姿をしたガネーシャの石像が右手奥に現われた。ガネーシャは元来インドの神で、シワ神とウマ女神の息子とされる。学問と智慧の神で、日本では聖天として知られる愛欲の神でもある。

 老人は、ガネーシャ像を指し、「すがわらのみちざね」と、日本語で言った。天神菅原道真は学問の神様とされるが、誰が教えたものかひどい案内だ。少々興醒めしながらも、美耶子はお布施として100ルピア札2枚を石像の前の鉢に入れた。
 後退して洞窟の右側に進むと、リンガと呼ばれる陽石が三本直立していた。これはシワ、ウィシュヌブラーマの三大神を象徴しているとのことであった。


ゴワ・ガジャ洞窟内のガネーシャ像の写真です(JPEG/83KB/372×260Pixel)ゴワ・ガジャ洞窟内のガネーシャ像(JPEG/83KB)

 洞窟から出ると陽光がまぶしい。

 「ここは仏教遺蹟と聞いていましたが」と、洞窟内で生じた疑問を美耶子が訊ねた。「さっき見たもののどれが仏教と関係あるのでしょうか」

 「いい質問だね」言葉とは裏腹に、さも聞き飽きた質問だという感じで、厚木はぶっきらぼうに答えた。

 「これを見てごらん」厚木は洞窟の右脇にある粗末な神棚のような所を指した。棚の上には一体の古びた石像があった。「これがなんだか知っているかい」

 「・・・・」美耶子には見当が付かなかった。

 「これはムンブラユさ。日本では鬼子母神と呼ばれる女神だよ」

 「鬼子母神って、人間の赤ん坊をさらって食べたという鬼女でしょう」

 「その通り。でも仏典によると、お釈迦様が彼女の子供をさらって子供を失うことの悲嘆を教え、善神に改心させるのさ。彼女は悔い改めて安産や多産の神になったんだ。ほら、ここに子供たちがいるだろう」

 厚木の言うとおり、幼児らしい数体の小像が母神を囲んでいた。

 「鬼子母神が仏教の神様なのは分かったけれど、それがこの洞窟とどう結び付くの」と、美耶子は訊ねた。

 「インドネシアには鬼子母神信仰が古くからあったんだ」と、腕を組みながら厚木が言った。「中部ジャワにあるボロブドゥール寺院を知っているかい」

 「ええ。世界最大の仏教遺蹟でしょう」

 「そう。ボロブドゥールの東に、ムンドゥという美しい仏教寺院がある。この寺の本堂入口の壁石に鬼子母神のレリーフが彫られている。ということは、少なくとも8世紀末にはジャワに鬼子母神信仰が存在していたことになる。おそらく土着の豊穰神と習合して崇拝されるようになったのだろがね」

 「だから。この洞窟との関係は?」美耶子は苛立った。

 「この洞窟の建造年代は11世紀頃とされている」と言いながら、厚木は沐浴場の方を向いた。「あの沐浴場の型式が同時代の東ジャワの沐浴場の型式と酷似しているからでもあるが、洞窟と沐浴場が同時期に建造されたとすればその通りだ。だけど僕はそうは考えない。洞窟の方が古いと思う。そして、鬼子母神の像は元は洞窟の中にあったんだ」

 厚木の「熱弁」に次第に聞き飽きてきた様子の美耶子に構わず、厚木はさらに続けた。

 「本当の名前は分からないが、このゴワ・ガジャ聖所は、古代ブダウル王国の国家寺院だったと考えて間違いないだろう。この洞窟は、国家の安泰を祈るための僧侶の育成を目的とした道場だったとも考えられる。でも、瞑想場や寺院址は崖下の川辺でも発見されているから、洞窟と沐浴場一帯は、むしろ国家的な儀式を執行するための空間だったんじゃないかな」

 美耶子は洞窟の建造年代や役割には関心が無いようである。

 「ふぅん。私は、さっきの鬼子母神が洞窟の中に安置されていたという話の方が興味があるわ」今度は美耶子が推理し始めた。

 「鬼子母神が安産や多産の神様だとしたら、なぜ洞窟の中に置いたのかしら。さっき洞窟の中で見たガネーシャとリンガも、性と関係があるわよね」

 「うん。それも女性よりも男性のだ。ガネーシャやリンガも生殖と関係があるから、やはり多産の象徴なんだろう」

 「じゃぁ。洞窟はどう。男性?女性?」

 「形からして女性だろう」

 「そうね」以前宗教学概論の授業で聴講したことを美耶子は思い出した。「沖縄では、西に沈んだ太陽は『太陽の洞窟』――テダガガマ――と呼ばれる洞窟を通って、再び東に新生すると考えられたそうよ。沖縄で東をアガリ、西をイリと言うのは、太陽の動きに応じた呼び名なのよ」

 その話は厚木も知っていた。「その『太陽の洞窟』というのは、擬似母胎なんだろう」

 美耶子はうなずいた。「ええ。だから多産や豊穰の象徴として、鬼子母神は洞窟の中に置かれたのよ」

 厚木は、バリの歴史に関する自分の知識に当てはめた。

 「古代バリ人は、最初ムンブラユという多産・豊穰の女神を崇拝していた。仏教が伝来して鬼子母神がそれに代わり、その後いっそう男権的なヒンドゥー教が入ってきて、女神を洞窟の外に追いやって男性を象徴するリンガやガネーシャがそれと置き換わった」

 「結論を急いてはいけないわ」主導権はすっかり美耶子に移っていた。「擬似母体である洞窟の中に男の神様がいてもおかしくないんじゃない」

 「そうか。男性を象徴するものを入れなくても、男である僧侶自身が入ってもいいんだ」またもや厚木は断定的に言った。

 「だから。男とか女とかにこだわらなくても・・・」

 白熱した議論に時を忘れ、すでに午後11時を過ぎていることに二人は気付いた。何をおいても、ジリジリと照りつける熱帯の太陽から身を隠す欲求に駆られた。ことに昨夜日本から着いたばかりの美耶子は、日差しが痛い。厚木は、「論戦」の一時休止を美耶子に申し込んだ。



 厚木と美耶子が昼餐を楽しんでいる間に、先ほどから二人が議論している洞窟の象徴性などについて解説しておこう。

 宗教民俗学者の吉野裕子氏によれば、日本人は「擬()き」「見立て」を好む民族である。

 吉野氏は次のように述べておられる。

 「『擬き』『連想』を好む日本人は、神の把握においても抽象的ではあり得なかった。日本人の祭りは、神迎えと神送りの始終をその本質にしていると思われるが、その神の去来も人の生誕と死というものに、そっくりあてはめて考えていたのではなかろうか。
 人の出生の原点は母の胎()、つまり穴である。神の来迎が人の生誕にむすびつけて考えられていたとすれば、祭りの最初の段階に『穴』があることは、きわめて自然な成り行きであろう。」(『隠された神々』)

 「古代日本人にとって東は神界、西は人間界であったが、人間界からさらに西方は太陽の沈む所であると同時に、人の死につながる所である。人間の場合、東から西への動きは誕生を意味するが、その動きの中央にあるものは母の胎である。西から東への動きは死去を意味するが、その西から東への動きの中間にあるものは、母の胎になぞえられた墓、つまり擬似母胎である。
 母の胎も墓も共に『穴』であって、この穴にこもるということがあってはじめて、完全な生と死が達成されるのである。
 神の場合も同様であって、人の生死の類推から想定された神迎え、神送りは、母の胎になぞらえてつくられ山中の御嶽(うた)や、巨岩のつくり出す洞窟などで行われた。また岩クラという陰石や窪地が擬似母胎、擬似女陰として神のみあれの場所とされたであろうことは、前述の通りである。太陽の場合は前述のように『太陽の洞窟』(テダガガマ)が想定されている。」(同書)

 吉野氏の論攷は古代日本人の世界観に関するものであるが、古代バリ人の思考もこれと大差がなかったことは想像に難くない。

(第2章終わり)

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