このページでは、私が見て、聞いて、食べて思い出したことを紹
介したいと思います。子供の頃の思い出、大人になってからの思
い出や経験など、短い作文を書いてみました。
2000年8月31日(木)
今日の午後、インドネシア人の友人が電話をかけてきました。
" Ibu, saya kena musibah."と、元気がない声で話すので、どうしたのか聞いてみ
ると、水疱瘡に罹ったというのです。熱はさがったものの、頭痛、だるさ、そして
発疹が痒いなど、痛々しい病状を話してくれました。不安を隠せない様子でした。
私は幼稚園くらいの時に罹ったらしいので、あまり記憶にないのですが、弟が罹っ
た時の様子はなんとなく覚えています。人によっても違いがあるでしょうが、水膨
れになったあとがジクジクしている様子は、本当にかわいそうでした。
外国で生活していて、病気に罹ることほど心細いことはありません。私も12年前、
インドネシアで船に乗った時、ひどい食中毒の状態になり、船ごと島に引き返そう
かというほどの重症でした。このまま目的地まで行くか、それとも引き返すか迷っ
ていた時、船の乗組員が、「こんな時は、ぬるま湯に砂糖と塩とソーダを同量ずつ
溶かしたのを一気飲みすると良くなるぞ。」と言って、コップ一杯の透明な液体を
作ってくれたのです。味は、当然美味しくない!一口飲んで、吐きそうになると、
「一気、一気!」と、まるで学生のコンパの一気飲みのように、一気飲みをさせら
れたのです。内心、「こんなんで治ったら、医者なんかいらないよな〜」と思って
いたら、なんと、症状がすーっと治まっていったのです。
後で、偶然にも、ある会の会報に日本人医師が書いた、”薬がない時は応急処置的
に砂糖、塩、ソーダを1対1対1の割合でぬるま湯の液体を作り、飲むとよい”とい
う記事を読んでビックリしました。
あの船員が、その液体の効果を知らなかったら、私はもっと大変なことになってい
たことは間違いないですし、今でも時々病気になると、その船員のことを思い出し
ます。
2000年8月24日(木)
今日、電車でほほえましい光景を目にしました。妻の出産間近と思われる若い男性
が自分の両親とおばさん夫婦とで、生まれてくる子供の名前について話していました。
その男性は、ノートを出して両親とはなしているのですが、なんとそのノートには
何ページにもわたって、考えた名前がびっしり書かれてあるのです。画数や、苗字
とのバランスなど、かなり考えて書いたようでした。そして、私は自分の名前につ
いて、思い出したことがあるのです。
子供のころ、私は両親に自分の名前のことを聞いたことがあります。「どうして、
私はこの名前になったの?」と。すると、「おばちゃんが付けてくれたんだよ。」
と言われ、今度はおばあちゃんに、「私の名前は、どうやって決めたの?」と聞い
たのです。
おばあちゃんは、「姓名判断の人のところにいって相談して決めたんだけど、あま
り難しい字を使うと、子供が気むずかしい性格に育つと言われ、よくあるこの名前
が一番、苗字と画数やひびきがあっているということで、決まったんだよ。」と言
われました。
こんなことを聞いたのは、ちょうど私の弟が生まれた時、弟の名前をどうするかと
いう話から、私の場合はどうだったのかな?という話になったのです。
その後、自分の名前にそれほど深い関心をもつことなく過ごしていたある日、仲良
しのケーキ屋のおじさんに、「チェチィリアちゃんの名前はだれがつけたの?」と、
聞かれたので、「おばあちゃん!」と答えました。すると、そのおじさんは続いて、
「チェチィリアちゃんのおばあちゃんは姓名判断とか占いをする方?」というので、
ドキっとして、「なんで?」と聞き返すと、「思いつきで付けた名前ではあるはず
がないほど、画数が計算しつくされていて、この名前は順風満帆な人生を表してい
るから。前から、おじさん、チェチィリアちゃんの性格を見ていて何か名前に関係
がありそうだな、と思って数えてみたんだよ。おじさんも少し姓名判断に興味があ
るから。」と言うのです。
私は今でも占いは信じないのですが、いずれにせよ、おばあちゃんは私に精一杯の
思いを込めて、名前を付けてくれたんだなあと思い、嬉しくなりました。
2000年8月23日(水)
今夜作った夕飯はなぜか美味しくなかったのです。ちょっと食べて、作ったほとん
どを残してしまいました。美味しくなかった原因は何だったのか、よく分からない
のですが、とにかく思っていた味と大きく違っていたのです。考え事をしながら作
ったからかな?残したたくさんの料理を見てふと、つい先日、8月15日の終戦記念
日に父が言ったことを思い出しました。
「あの頃は、何も食べるものがなくてホントに貧しかったなぁ〜。農家で米、野菜
をあんなに作っていたって、全部、おかみの為、と言ってはもって行かれて、ホン
トに情けない思いだったよ。おまけに、お父さんの家は地域の委員なんかやってい
たもんだから、隠すに隠せない状況だったしなぁ。それを思えば、今は何を食べた
らいいかわかんなくなるくらい、いろんな食べ物があるなあ。。。」
父は最後の昭和一桁生まれです。戦争に行かなかったけど、戦争の苦しみを経験し
ていたのです。私が子供のころは、決してこのような戦争体験の話はしなかったの
ですが、ここ数年、思い出したように、ぽつり、ぽつり語るようになりました。
「何が食べたい?」と聞かれて、「う〜〜〜〜ん。。。」と考えるほど、豊かな自
分の環境を省みる瞬間でした。
2000年8月15日(火)
北国の秋の訪れは東京より早いようです。この時期、夜になると毎晩、秋の虫の大
演奏会が始まるのです。窓を開けて寝ていると、とても耳に心地よい虫たちの鳴き
声が聞こえてきます。
それぞれが、思い思いに歌っているようなのですが、どれ一つとしてその音に、そ
のタイミングに、そのリズムに無駄がなく、周囲とうまく調和しているのです。
ある友人が、「意外と他の種類の虫に遠慮しながら鳴いているんだよ。」と言って
いましたが、その遠慮こそ、あの大演奏会を毎晩成功させているのだと思います。
子供のころ、夜の散歩と称して父と二人で、草むらをかき分けてはカマキリやキリ
ギリスをとりました。大自然のアンサンブルをBGMに昆虫採集なんて、なんと贅
沢なことだろう、と思います。
2000年8月12日(土)
夕方、近所のおばさんが、「ねぇ、いる?」と言ってやってきました。東京で働い
ているこのおばさんは、お盆の帰省で田舎に帰ってきたのです。長く家を空けてい
たために、家の中がじめじめしてるとか言いながら、わが家で夕飯を一緒に食べた
のです。そして、「ちょっと、お風呂かりていい?」と言って、お風呂に入って帰
って行きました。
昔はこんなこと、珍しくもないことだったのでしょうが、都会生活に慣れてしまう
と、なんだか妙な感じがしました。田舎では、こうして関わり合って生活している
んだなあ、と思う一方で、都会では、いかに他人と関わりを持たないで暮らすか、
と考えているような気がします。
子供の頃、隣の家の女の子がよく、私の家に来てお風呂に入っていました。お風呂
からあがると、一緒にテレビを見たり、ゲームをして遊んだのです。
最近の子供は、こんなふうに友達の家を頻繁に訪れるなんてことをするのでしょう
か?
2000年8月11日(金)
今日、何年も会っていなかったケーキ屋さんのおばさんに会いました。このおばさ
んは母の友達で、小さいころ、私はよくそこのケーキを食べたものです。今は、お
店を建て直し、昔を思い出させるものは何もなく、従業員を使ってケーキを作って
いるようでした。代金を払っていると、奧の方からそのおばさんが出てきて、「あ
れ?チェチリアさん?」と聞いてきました。「そうです。」と答えると、「わ〜、
懐かしいな〜。今、何してるの?お母さんにそっくりだぁ。昔の面影がある。」と
懐かしんでいました。
私の実母は、私が4歳になろうとしている時に神様がみもとに呼び寄せてしまった
ので、実母の記憶というのはほとんどないのですが、最後に一緒にいったK農場で
白い馬に乗り、その後、フルーツジュースを飲んだことを覚えています。
母をよく知る人は、私を見る度に、「歳をとればとるほど、恐いほどにお母さんそ
っくりになるねぇ。」と言います。もし、今、一番会ってみたい人、1人だけに会
わせてくれる、と言われたら、私は迷わず母を選ぶでしょう。
2000年8月6日(日)
今日は、約束の通り弟と中華料理デートをしました。お昼に待ち合わせて、軽い飲
茶を。あちこちのお店をみて歩いて、ちょっと休憩。あっと言う間に時間が過ぎ、
夕食の時間になりました。誕生日の日に、「今度美味しい中華、ご馳走してや」と
言われていたので、「中華といってもどんな料理がいいの?」と弟に聞いたら、
「北京ダック!」というのです。お店を探していたら、偶然、目の前にオーダー制
の食べ放題というお店の看板を発見!なんと北京ダックも食べ放題とあって、弟は、
「これにしよっ!お姉ちゃん」ということで、そのお店に入ってみました。
確かに注文を受けてから調理するので、バイキングの食べ放題より格段味もいいし、
サービスの仕方も普通のレストランとかわりなく、弟は満足していた様子でした。
弟は北京ダックを食べながら、「前もお姉ちゃんと一緒に北京ダック、食べたねぇ。
あれ以来食べてないなぁ。。。」と、何年も前に一緒に食事をした時のことを思い
出していたようでした。
歳が離れている姉弟なので、食欲は弟の方が断然上で、私は第一ラウンドで、「お
姉ちゃんはもう、デザート!」と言っていたら、「え?まだだよ。今度は何、注文
する?」と張り切っていました。残してはいけないルールなので一生懸命食べるの
ですが、だんだん苦しくなってきて、最後の方は弟も、「もっと大勢でこないと、
こういうのは、あんまり品数多く、食べられんなぁぁぁ。」と言いました。そんな
弟に、「多すぎて食べられない〜!と悲鳴をあげている一方で、今日の食事に困っ
ている人もいる。」と言いながら、最後まで残さずきれいに食べました。
美味しい中華料理を食べた弟は、とても満足したようで私も嬉しくなりました。
(お店情報は、今日 発見したこと 感動したことのページへ。)
2000年8月3日(木)
今夜は、久しぶりに仲良しグループで夕食をしました。その時、洗濯機が話題に
なって、私はふと子供の頃の自分と洗濯機の”深〜い関係”を思い出したのです。
私の母は、いろんな知恵を働かせる母でした。私がまだ2、3歳の頃、一緒にお風
呂に入ると湯船の中で騒いだり、またお湯の温度が高くてぐずるとかで、考えに
考えた末、母は、「そうだ!」と思いついたのです。なんと、私専用の湯船は、
洗濯機だったのです。洗濯機にお湯をはって、そこに私を入れるのです。そうす
れば、水かさも少なく安全で、私が思う存分、お風呂遊びができる、と思ったの
でしょう。もちろん、コンセントは抜いて、万が一、ボタンを押しても洗濯機が
作動しないように気をつけていたようですが。。。
この話はいまだに、ちょっとしたことで話題になり、従姉妹に笑われています。
赤ちゃん用の大きな盥にお湯をはってお風呂にいれる、というのは普通ですが、
当時、台所に洗濯機を置いていたわが家では、お風呂場で盥を使うより、家事を
しながら私をお風呂遊びさせられる最高のアイディアだったのでしょう。でも、
当然のことながら私自身は、そんな記憶はありません。
小さい頃、こうして狭苦しい専用お風呂に入っていたせいか、私は大きなお風呂
に入ると嬉しくなります。だから、銭湯や温泉が大好きです。特に、冬の冷たい
空気の中で入る露天風呂は最高です!
2000年8月2日(水)
今日のお昼はサンドイッチを食べました。自分で作ればよいのですが、ついつい
買ってきたものを食べてしまいます。子供の頃、たまにお弁当を持っていく日が
あって、そんな日の前夜、母は、「あ〜、明日のお弁当、おかず、どうしよう。
。。」というのが口癖でした。私の答えは決まって、「何でもいい!」なのです
が、妹は、「サンドイッチ!」というのです。でも、一度もお弁当にサンドイッ
チを持っていったことがないのです。
勝手な思いこみ、偏見なのですが、私は和風のお弁当の方が、”お母さんが朝か
ら一生懸命作ってくれた”と言う感じがして嬉しかったので、妹がサンドイッチ
と言うと、「そんなのお弁当じゃない!」と言ったものです。
母は私の希望通りにご飯のお弁当を作ってくれました。そして、私は母によく、
「お姉ちゃんは、絶対お弁当のおかずを残さないで食べてくるね。」と褒められま
した。でも、妹はほとんど手をつけずに、お弁当を持ち帰るのです。食が細いの
か、あるいはサンドイッチじゃないから反抗してか?よく分かりません。
もし、私がお母さんになったら、母のように愛情いっぱいのお弁当を作ってあげ
られるのかな?と思うと、ちょっと怪しいな・・・、という気がします。
そうそう、サンドイッチで思い出したのですが、子供の時、コーヒーを飲んじゃ
ダメ!と言われ、早く大人になりたいな、と思ったものです。飲んではいけない
理由というのが、なんでもコーヒーを飲むと頭が悪くなるというのです。今でも
納得していないこの理由なのですが、よそのお母さんも子供にコーヒーを飲ませ
ていなかったのかな?
2000年7月30日(日)
昨日、今日と二日間、私はある奉仕活動に出かけました。両日ともほぼ半日がが
りの奉仕でした。その会場で、思いがけなく久しくお目にかかっていないおじい
さんに会いました。「や〜、どう、元気にしてるかい?」と、変わらない様子で
私に近寄ってきたので、「相変わらずです。」と答えました。奉仕活動も終わり
、そろそろ帰ろうかと思っていたら、そのおじいさんに、「ねえ、今、急ぐのか
い?」と聞かれたので、「いいえ、特に。」と言うと、「それじゃあね、私につ
き合って。」というのです。久しぶりなので、そのおじいさんと夕涼みデートを
することにしました。
場所は、ビアガーデン。私はお酒が一滴も飲めないのですが、こうして飲む人に
つき合ってウーロン茶を飲むのが得意です。あれや、これやお互いの近況を話し
たり、また、いつものようにおじいさんの思い出話を聞いたり・・・。
老人は、我ままだとか、話がいつも同じで飽きる、とか思っている人が多いでし
ょう。私もその一人です。でも、たまに、同じ話の繰り返しでも、我ままでも聞
いてみると、結構おもしろいものです。
そのおじいさんは、80歳を過ぎてもまだまだ現役といた感じで、写真が大好きな
おじいさんです。何かのイベントに出かけては、みんなの写真をとっては、後で、
それを一人一人に送ったり。。。今日も、「私は、写真をとることくらいしかで
きないんだよ。」と微笑みながら話していました。私がもし、おばあさんになっ
たら、どんな趣味を楽しんでいるのかな?小さいことでも、誰かの役にたてるお
ばあさんでいたいなあと思いました。
2000年7月28日(金)
電車から降りて、いつもの道を自分の家へむかって歩いていたら、「ぷ〜ん」と
においがしてきました。「あれ?」と思い、辺りを見回してみたら、細い路地の
むこうにある空き地で花火をしている人たちがいました。「あぁ、煙のにおいだ
。」と思いました。そして、絶対忘れられないことを思い出したのです。
実は私、花火には恐〜い思いをしたことがあるのです。毎年、お盆になると玄関
先に迎え火を焚き、その火の回りで花火をするのが楽しみでした。また、その時
期には近所の駄菓子やさんで、いろいろな花火のばら売りをしていました。勿論
セットになった物も売っていましたが、私は好きな種類を好きなだけ買う方がよ
くて、よく父と一緒に花火を買いに行ったものです。
ある日、父がいつものように迎え火を焚いて、当時、まだ兄弟がいなかった私は
一人で買ってきた花火を楽しんでいました。しばらくして父が、「今夜はもうこ
のへんで終わりにしよっか。」と言って火の始末をしにきたのです。そして、私
も「うん」と言って、手に持っていた花火の袋の口を閉じようとした瞬間、袋の
花火が一気に発火したのです。
あまりに突然の出来事で、泣くのも忘れるほどの恐怖?に、私は呆然としていた
ようです。
原因は、湿った花火になかなか火がつかないので、そのまま元の袋に戻しては別
の花火に火をつけて・・・などと繰り返していたので、戻した花火にジワジワと
火が燃えはじめ、手元の花火全部に引火したのです。
今、思えばなんと危険なことをしていたんだろうと思うのですが、当時、まだ4
歳だった私には危険かどうかなんて分からなかったのです。
おかげで、大人になった今も手に持って遊ぶ花火は恐くてできないのです。子供
の頃の恐怖体験は、なかなか消えないもののようです。
2000年7月25日(火)
今日は弟の誕生日でした。お互いに大人になって、それぞれに生活をしているの
で普段でも、滅多に会うことがないのですが、今日はおめでとうコールをしまし
た。「ああ、忘れていた・・・」と照れ隠しに言っていましたが、話しているう
ちに、「昨日、お母さんも電話してきてくれた。」と、家族が誕生日を覚えてく
れていたことが嬉しかったようです。そして、しっかり、「お姉ちゃん、今度の
休みに美味しい中華料理をご馳走してや。」とデートの約束をさせられてしまい
ました。
みなさんは、子供のころ、どんな風に誕生日をお祝いしていましたか?私と弟の
誕生日が近かったので、いつもまとめてお祝いしていました。今年はお姉ちゃん、
来年は僕、というように。でも、たまに母が、「あれ?去年は誰の日にお祝いし
たんだっけ?」と忘れてしまうと大変。私だ、僕だ、とちょっとした騒ぎになる
のです。結局、父が、「下の兄弟にあわせなさい。」といい、いつも弟に譲って
いたような気がします。でも、どっちにしても、大きなバースデーケーキが楽し
みで、お祝いの日を迎えると、私の日に、僕の日に、というのはどうでもよいこ
とになってしまうのです。
お祝いの日、母は必ず、「今夜は何が食べたい?」と聞くのです。私は、「なん
でもいいけど、絶対鶏の空揚げ!」と答えるのです。すると母は、「もっと他に
何かないの?」と、あまりにも平凡なメニューのリクエストにちょっと困った顔
をするのです。
それから、私たちの誕生日には、きまって母方のおばあちゃんが、わが家にお泊
まりセットを持ってやってくるのです。そして、おきまりのように私の誕生物語
を話すのです。このお話は、いつかまた何かを思い出した時に。
2000年7月23日(日)
今日も暑かった〜。夕方4時に電光掲示板が36度を表示していました。気温を知
ると、よけいに暑く感じました。
小学校の低学年の頃、夏休みの課題といえば、”夏休みの友”と”絵日記”でし
た。毎日、天気や気温を記録するページがりました。本当は、自分で温度計を使
って気温を測るのですが、ついつい忘れて、記録しないが続くと、もう大変。夏
休みの終わり頃に、気象庁に電話をかけて、まとめて気温を聞いたことを思い出
しました。
最近の小学生は、夏休みにどんな課題をやるのでしょうか?私の頃は、絵、工作、
一人一研究(ひとりいちけんきゅう)、読書感想文が主な課題でした。その他は、
毎日プールで泳ぐ体力作りや、地域の子供会の花火大会、海水浴、と、行事も多
かったです。
そうそう、日本の夏休みには、”ラジオ体操”は絶対ですよね。早起きして、近
くの公園に集まって、”新しい朝がきた、希望の朝だ・・・・”から始まって、
第一、第二体操を終えると、ラジオ体操カードに出席したという印をもらって帰る。
今、思い出してみると、ずいぶん盛りだくさんなメニューの夏休みを過ごしてい
たんだなあ、と思います。
2000年7月21日(金)
梅雨が明けて、夏本番を迎えました。日本の夏は、「暑いですね」ととか、「今
日は風があって涼しいですね」というように、天気に関するあいさつが多いです
ね。これが、常夏の国では、よっぽど普段と違った異常な暑さや、異常な豪雨で
もなければ、天気のことが話題にしないようです。
ところがインドネシア人の友人は、日本で夏を過ごすと、決まって、”Hari ini
panas.”(今日は暑いです)と言うのです。インドネシア人に言わせると、日本
の夏は暑さが厳しいと言います。確かにインドネシアは熱帯ですが、日本のよう
な過ごしにくい暑さではないのです。
何年か前の真夏、それも猛暑の年に、インドネシアからある政府の要人が来日し
た時、「日本は暑いですね〜」と、おっしゃって、「インドネシア人に、日本は
暑いと言われましたよ。。。」と、笑っていたある日本人ビジネスマンを思い出
しました。
今年は雨が少ない梅雨だったような気がしますが、水不足にならないかと心配で
す。
2000年7月20日(木)
みなさんはブルーベリーが木になっているのを見たことがありますか?初めて知
ったのですが、ブルーリーは、実がなっている部分が全体的に熟していくのでは
なく、ポツン、ポツンとまばらに熟していくようです。だから、収穫も手作業で、
手間がかかるのです。
今日、炎天下の最中、ブルーベリー狩りをしたのですが、予想を遥かに上回る重
労働。暑いし、木の下から上を見上げるようにして熟した実を探さないといけな
いし。
以前、東北のある町から、新しい農産物として作付けをはじめたというブルーベ
リーの生の実をおみやげにいただいたことがあります。「これは収穫は全部、手
作業で、朝の早いうちにとってしまわないといけないんです。とにかく大変なん
ですよ。」とおしゃっていたのを思い出し、「なるほど、これじゃ、手間がかか
って、涼しいうちに収穫しないといけないわけだ。」と、納得してしまいました。
慣れないこともあって、わずか300g入る小さな箱をいっぱいにするのに、1時
間以上もかかってしまいました。
農家の方はほぼ年中無休で、朝早くから野菜の収穫をし、また、午後から夕方は
農地の手入れをしているのを思い出し、私たちの食生活を支えてくださっている
農家の方たちに感謝の気持ちでいっぱいです。
2000年7月13日(木)
今日、昼に電車に乗っていたら、途中の駅からサラリーマン風の男性が乗ってき
ました。よく見ると、お弁当を食べているのです。よほど忙しいのか、どこかで
座って食べる時間もないような感じの様子で、次の駅で降りてしまいました。
昨年の今頃、私も毎日、朝からずっと仕事が詰まっていて、昼御飯を食べている
時間もないほどでした。移動途中にでも食べられる方法はないか?と考え、毎朝、
おにぎりを作って出かけることを思いついたのです。
さすがに、電車の中では食べなかったのですが、電車の乗り換え途中の電車待ち
の時間に、ホームで急いで食べるのです。そうでもしないと、朝、家をでてから
夜まで食事ができないのです。でも、お行儀悪いですね。味わうなんていうもの
ではなく、単に空腹を満たすだけのもの。
ある日、母が私がそんな風に昼御飯を食べていることを知って、「まあ、気の毒
に・・・。」と言ったのですが、忙しい、忙しいと働けることに感謝し、また充
実していた毎日だったことを思い出しました。
2000年7月8日(土)
今日は、私のおばあちゃんの13回忌でした。私のおばあちゃんは自慢のおばあちゃんで
す。純日本人のはずなのに、ヨーロッパ人そのものといってもおかしくないほど、色が
白く、目鼻だちがはっきりしていて美人でした。おしゃれなおばあちゃんで、生前は家
でも、またお出かけの時も、いつも着物を着て背筋をまっすぐにのばし正座をしている
おばあちゃんでした。
ある日、おばあちゃんが私の家に遊びに来た時のこと。いつものように、お小遣いをく
れたのです。たまたま千円札が1枚しかなかったようで、弟にはその千円札で、私には
百円玉で千円分をくれたのです。ところが、弟が不満そうな顔をして、私とおばあちゃ
んを見ているのです。弟の様子に気づいたおばあちゃんは、「どうしたの?」と弟に聞
くと、弟は、「お姉ちゃんのお小遣いの方が、僕よりいっぱいだ!」というのです。
一枚のお札と、十枚の硬貨、価値は全く同じなのですが、当時、保育園に通っていた弟
は、お金の価値をまだ理解していなかったのです。
おばあちゃんは何度も弟に、「百円が十個集まると、千円になるの。だから同じだよ。」
と教えるのですが、弟は、「違う!」のいってんばり。しまいには、私もおばあちゃん
も大笑いをして、私の百円玉と弟の千円札を交換しました。
2000年6月8日(木)
今日、眼科で元気のよい小学生と会いました。視力測定で、はきはきと答えているのです。
元気印の女の子という感じでした。考えてみたら、子供のころはみんな元気印で、遊んで
も遊んでも遊び足りないと思っていました。母はいつも、「勉強しても、勉強してもこれ
で十分!ということはないよね」と、私たち兄弟に勉強しなさいと言わんばかりのことを
言い続けていました。
そんな母が、最近、「私、勉強したい。英語を話せるようになりたいな。」と言っていま
した。あの時言っていた「これで十分!ということもないよね」という口癖は、母が自分
に言い聞かせていたことでもあったのかな?
ところで、大きくなるとだんだん元気が無くなってくる。いつぐらいからかな?人間が
「疲れた〜」と言い始めるのは・・・。
2000年6月5日(月)
今朝、近所のおじいちゃんから電話がかかってきました。「インドネシアのスマトラで大
地震だって。」というのです。すると今度は昼頃に友人が同じ様なことをメールで送って
きました。だんだん私も気になって、スマトラに住んでいる友人にメールを送ったところ、
返事がきて、「あの時、自分は夢の中だったけど、他の人が言うには揺れていたらしいよ
。。。」というのです。これまで大きな地震を経験したことがないので、本当の地震の恐
さを知らない私です。でも、私がまだ赤ちゃんだった頃、大地震があって父と祖母が家で
お茶を飲んでいたら、急に揺れはじめ、大の地震嫌いの祖母は慌てて外に逃げたというの
です。
危ない!と祖母を連れ戻しに父も外へ。その時、私はスヤスヤお昼寝をしていたので、二
人とも私のことなど忘れて避難したとか、しないとか。。。地震になると父は、「そうい
えば、昔・・・」と、この話をするのを思い出しました。
2000年6月4日(日)
これはアジサイの絵です。今日、都会の真ん中の土手に咲いているアジサイを見ました。
きれいな紫色一色で、かなりたくさん咲いていました。アジサイって、花の中で一番雨が
似合う花だと思うのは私だけかしら?いろんな色があるけど、私は青っぽい紫のアジサイ
が一番好きです。
子供の時、よくアジサイが咲いている所へ行っては蝸牛探しをしました。しとしと降る雨
の中で、アジサイのあの大きな葉っぱに蝸牛がのっていて、ゆっくりゆっくり動いている
様子を観察するのがとても好きでした。雨が降っているし、蝸牛も動いているのに、なぜ
か、その空間だけ時間が止まっているような気持ちになるのです。
2000年5月30日(火)
これは、ちょうちょの絵です。ちなみにインドネシア語では、”kupu-kupu”:
クプクプと言います。
今朝、仕事に行く途中、自宅から駅に向かって歩いていたら、モンシロチョウが
目の前を、ヒラヒラ飛んでいきました。子供の時、学校から帰ると、友達と一緒
に冒険と称して、あちこち探検して歩いた時のコースにキャベツ畑が入っていて、
そこのキャベツに黄色のつぶつぶをしたちょうちょの卵がついていたり、緑色の
虫になっているものを発見しては、こっそり家に持ち帰って、観察したことを思
い出しました。
日本でも、童謡で親しまれているあの歌、”ちょうちょ、ちょうちょ、なのはに
とまれ・・・”は、インドネシアでも歌われています。
でも、私は童謡の「ちょうちょ」そのものよりも、三木露風 作詞、山田耕作
作曲の「うた(唄)」という曲のなかに歌われている「ちょうちょ・・・」の旋
律が好きです。
2000年5月24日(水)
これは、朝顔の絵です。
今日、町田市の花屋さんで、朝顔の苗を売っていました。小学校に入学したば
かりの時、初めての理科の教材が朝顔でした。そして、夏休みに入るまで、そ
の成長を観察することになったのです。
先生から、一人2粒ずつ種をもらって黒いビニールの鉢に種をまき、発芽から
開花するまでの様子を記録していくのです。
2粒あればどちらかは必ず芽をだすでしょう、という先生の予想だったので
しょうが、なぜか私の種は2つとも芽を出さなくて、先生がこっそり用意して
いたものと取り替えてくれたのを思い出しました。