20000Hit & 第2TASMAC-NET創設一周年記念 〜 「浩之とあかり」番外編 〜


あたしはあたし 〜 最終章(前半) 〜






 静かだった。なにもかもが静寂に包まれている感じがした。
 そうした中にあって、あたしは時の流れを強く意識していた。別に寂しい訳じゃない。そんな事考える余裕も無かった。それでも心の中は落ち着いていた。
 それに光は満たされている。これはいつもの通りだった。今までと何も変わらない、豊かな色彩に溢れた光の洪水。
 音だって同じに違いない。それは肌で感じられる。全身で感じられる。いまはあたしの耳に入ってこないだけ。そう、それはきっとそう。
 でも..違うか...やっぱりそれはそうじゃない。実際には耳に聞こえているのかもしれない。だけど、あたしのそうした神経はもっと別の所で使われているんだ。きっとそうだ。
 さらに手足を動かしてみる。ゆっくり、ゆっくりと..もどかしい程にゆっくりと。そしてより正確に、より確実に。
 ..変らない。何も変わる事の無い、いつまでも続く同じ感覚。だからきっと大丈夫。このまま最後まで行き着ける。どこか信じて疑わない自分の心。やがて...突如それは現われた!
 これまでに何度も感じた全身への強烈な圧迫感!それがあたしの全てを支配する。
 過ぎ去った耳鳴りはそれを遥かに通り越して痛みとなり、さらに押さえ付けられた手足は動かすのさえもどかしい。圧力を感じる視界は一気にモノクロームと化し、それに伴なって意識すら奪われると思った瞬間、あたしの思考は一点に集中した。

 ここに居ちゃいけない!

 痺れにも似た全身を被いはじめる死への恐怖。そんなものを抑えている必要は何も無い。逃げよう、逃げるんだ!直ぐにでも今直ぐにでも!好きでここに居る訳じゃない!
 あがいてあがいて、もがいてもがいて、そしてもう二度とここには来ない!
 遥か頭上にこれまでの自分の世界が広がっている。こんな苦しみを感じる事無く当たり前に過ごしてこれた場所。そこに早く帰らなきゃ!
 手足をバタつかせてまでもそれを求めようとした時、背後からの強い意志がそれを制した。

『落ち着いて志保!大丈夫だから落ち着いて』

 その声は確かに聞こえた。確かに感じられた。強引だけどいつもと変わらない優しい響き。そして護られている様な暖かな抱擁。
 瞬間、それまの恐ろしさが嘘の様に晴れていく。
 理屈じゃ無いその事に驚き理解しながらも、あたしは頭を巡らせてその顔をじっと見つめていた。

『いけるよ。志保ならこのまま行ける。だからもう少しだけ頑張ってみて』

 聞こえた訳じゃない。その瞳から感じただけ。でも確かに、しかもはっきりと、そして今度もそれはあたしの中に響いてきた。

『それともこのまま上がる?無理はしないでいいから』
『心配しないで。この位何てこと無いわ』

 さっきの狼狽えがくやしくて、でも気にかけてくれたのがちょっぴり嬉しくて、あたしはゆっくりと頭を振っていた。
 こうした互いの指差しや首振りだけの簡単なサインで十分に会話が出来る。ちょっぴり不思議で何だか面白いコミュニケーション。それは相手の表情や、一寸した仕草による所が大きいと感じていた。
 雅史のそうした一つ一つが会話と同じに、ううん、もしかしたらそれ以上に気持ちやメッセージをあたしに伝えてくる。それに触れ、そして感じる度に、心の中は落ち着きと自信に溢れていった。
 大丈夫。今度こそは大丈夫。まだまだ行ける!
 あたしから離れた雅史はその片手をしっかりと掴みながら『行こう』と表情で語りかけてきた。そして、さらに深い所へと共にあたしを導いていく。
 それまで失われていた色彩が再びゆっくりと、そして次第に鮮かさを伴なって戻ってくるのが分かった。押し潰さんばかりの圧力に勝てる力強さを身体の中から感じている。
 負けない。今度こそは。次こそは負けてなるものか!
 次第に苦しくなる息を感じながらも、あたしはその決意と嬉しさ満たされていった。そしてふと思いだす。
 それは昔、何かで読んだ本の一片。太古の昔から海は人々の憧れの象徴であり、大いなる恐れの対象でもあるという一節。それはこうした景観の美しさや壮大さで人々の心を常に魅了しながらも、それに挑む者に対しては厳しい現実とも言える力強さをいつの時代でも湛え、そして与え続ける存在なんだと今まさに実感できる。
 あたしの挑戦なんか、この海にすれば毛先の事ですら無い。まさに吹けば飛ぶ様な、小さな小さな出来事の一つ。けれども、そんな儚い存在のあたしにさえチャンスは平等に与えてくれている。
 息がさらに苦しくなった。加えて圧迫感が益々耐え切れなくなってくる。それでも進みは変わらない。いつもならとっくに音をあげてる筈なのに、今のあたしにはやり遂げられる自信があった。
 目的の場所は始める前から見えている。ちょっと手を伸ばせば届きそうなのに、中々そこに触れる事が出来ない。もどかしい。本当にあと少し、ほんの少しだけなのに。

『自分の目で直接見てみない?きっと感動出来るから』

 思い出したのか、それとも雅史の言葉が伝わったからだろうか。不意にさっきの言葉があたしの中に浮かんできた。その言葉を噛みしめる様に頭の中で復唱する。そして、自分の中でしっかりと呟いていた。

 ウソつき。これのどこが感動出来るのよ。

 今のあたしに残されているもの。それは何とか目的を達成したいという思いだけ。本当ならこんな事したく無い。それなのに、あたしは何故こんなにも真剣なんだろう。
 それを考えると益々息が苦しくなる。だったらもう考えない。今は自分が思う事、自分が望む事だけを確実にやり遂げる。
 最後とばかりに、あたしは両手足を大きく掻いた。身体全体がギシギシ軋むのが分かる。
 残された自分の体力を鮮烈に感じたその一瞬、届かないと思っていた白砂が突然グワッと迫ってきた。
 何の前触れも無く...そう、それは、いとも簡単にあたしの目の前にあった。気付いた時には触れる白いサラサラとしたものがあたしの手のひらの中に溢れ、そしてこぼれ落ちていく。

 ...届いた。目的の場所に着いたんだ!

 反射的に海面へ向かっている自分を何か遠いものに感じながら、あたしは尚も手のひらから零れ落ちる白砂の流れをゆっくりと目で追っていた。



◇      ◇      ◇



 海に浸した手の色合は、すぐ下の砂と重なって余計に白く感じられる。本当ならそんな風に言ってみたい所だけど、ここの白砂にあってはそれは全くの逆効果だった。オイルすら塗ってない全身は早くも日の光を一杯に吸い込んで褐色の度合をより深め、そんな砂の中で浮き立って見える。
 あたしはこうして日焼けするのが好きだ。最近は有害紫外線の話もあってあまり焼かない方がいいのかなとも思うけど、この時期こうして黒くなれるのは醍醐味だしやっぱり気分がいい。それに、こんなに思いきり焼けるのも今のうちだけだし。
 うーーんと手足を伸ばしてまた降ろす。パシャンと跳ねる水の感触がまた気持ちいい。小波程度の波打ち際は、海でありながら海でない雰囲気が何とも面白い。その中に腰を落ち着けながら、あたしは水面下にある白砂を一掴みすくってみる。
 水中ではサラサラとあんなにも綺麗だったのに、ここではモタッとしてなんだか情けない。けど、それは紛れもなく同じ砂。場所によってこんなにも違うのねと感じながら、何だかそれが雅史そっくりに思えて、唐突にあたしは吹き出していた。

 こんな風に、あいつの事をつい考える様になったのはいつからだろう。そういえば、あれから既に一年という月日が流れている。

 告白されてからの雅史の行動。それはこれまで抱いていたのあいつのイメージを変えるに十分だった。昼食時ともなれば同席の申し出。部活が休みなら一緒の帰宅。明日が休みなら映画や遊園地や水族館にゲームセンター、そして男のクセにウィンドウショッピングへの誘い。
 近くにあたしの友達が居ようが居まいがお構い無しに訪れる雅史に対して『うっとうしいからもう来ないで!』と癇癪を何度爆発させたか分からない。けど、あたしのそうした意図とはまるで裏腹に、周りの誰もが雅史に協力する様な態度を取っていた。

『あ、それなら明日のショップはパスよね。くふふふ、志保ぉ〜、しっかりやんなさいよぉ〜』
『へー、さすが雅史クン目の付け所が違うわね。志保、あんた幸せ者だよ。あのアミューズメントって今一番の流行なんだから』
『お邪魔虫は退散退散。それじゃお先にねー。志保頑張ってねー』

 まったくどいつもこいつも雅史に肩入れしてからに。あたしの意見なんて誰も聞きゃしないんだから!...まあ、その後何だかんだで結局はあいつに付き合ってしまうあたしもあたしなんだけど。
 そうやって少しずつでも話をする様になってきて、これまで知らなかったあいつの性格や一面が一寸ずつでも解かってきて、そして、最近になって気付いた事が一つ。
 それまでは単にヒロやあかりの幼馴染であり、そのよく分からない性格から異性としても対象外だったあいつが、自分でも気付かないうちに、こんなにもあたしの中に入り込んでいたという事実。
 正直、初めは驚き戸惑いもした。全然あたしのタイプじゃなかったし、どんなに文句を言おうが引っ叩こうがまるで余裕で、まるで子供扱いする様に直ぐなだめにかかるそうした態度が大嫌いだったから。

『イライラしやすいのはカルシウムが不足している場合が多いんだよ。姉さんも昔はそうした時期があったって言ってたけど、牛乳や小魚なんかを積極的に取る様にしてからは大分良くなったんだって。志保も試してみたらいいんじゃないかな?』

 ....つまんない事思い出した。そういえば、それって初めて雅史を引っ叩いた時だっけ。しかも思わずグーだった。なんか知らないうちに手が出ていたのよね。
 それでもあいつは懲りなかった。真正面からモロに食らって膝こそ付いたけど、直ぐに立ち上がって『どうしたの?僕、何か悪い事言った?』と少し悲しそうだったのをよく覚えている。その時は『男のクセに何泣いてんのよ』なんて泣いてもいないのに言っちゃったけど、後になって随分と気に病んだんだっけ。
 考え方が違う。性格だって勿論違う。けど、それだけはあたしと同じ。
 悪気は無くても何でもかんでも自分の思った事を素直に口にしてしまう、そうした所だけはきっと...

 サアアァァ....

 少し風が出てきた。その涼しさに少し身震いする。夏だっていうのに、風の中に次の季節が感じられる様だ。
 そして分かっていた。違うって事も。素直さに関しては、結局は雅史の方が全然上なんだって事を。
 だって、あいつはあんなにも自分の心を伝える術に長けている。不器用だけどいつでも一生懸命で、こっちが困る程に気を使ってくれて、そして、あの時と変わらぬ心を今も持ち続けている。
 もし逆の立場だったら、あたしに出来るんだろうか?
 思わずため息をついていた。出来る訳が無い。こんなにもガサツで我が侭で気分屋で、それが分かっていながら抑えられないあたしになんか...

「お待たせ。レモン水無かったからオレンジジュースにしちゃったけどいい?あ、コーラが良ければそっちもあるけど」

 見上げると相変わらずの屈託無い笑顔が目に入った。両手に紙コップを携え、何となくボーっと突っ立っている。その姿を見ているうちに何とも気が抜けてきた。

「オレンジでいいわ」

 そうよね、今はあれこれ考える必要なんて無いじゃない。もっと頭をカラッポにして楽しめばいいんだ。
 ジュースに口を付ける。コップが違うだけで味は同じってのに何だかホッとする。
 そうしているううちに雅史も向き合う格好で腰を下ろしてきた。

「大分落ち着いたみたいだね。良かった」
「なーにが『良かった』よ。おかげでこっちは死ぬ目に遭ったんだからね。結局、海老なんか見ている暇すら無いじゃない。何の為に底まで潜ったんだか分かんないわよ」
「でも、さっき僕が言った通りになったじゃない。自分から行ける場所がさらに広がった訳だしさ。これからはもう少し落ち着いてからやればさっきより余裕で出来るから、今度こそ海老が見られるよ」
「お・こ・と・わ・り。そうそう何度もあんたの口車に乗せられてたまるもんですか!」

 思いっ切りのアッカンベー。この手合いには口で簡単に言うだけじゃ駄目。この程度の事はしておかないと、次に何をやらせようとするか分からない。スポーツ万能ってのは本当タチが悪い。

「じゃあさ、今度は一寸ドキドキする事やってみない?」
「ドキドキぃ?あんたにしては大きく出たわねぇ。とりあえず言ってみなさいよ」
「うん、ほら、あそこにさっき抱き付いた遊泳境界ブイが見えるじゃない」
「却下!」

 いきなり結論付けたので雅史は少しムッとした顔になった。あたしは構わずに続ける。

「聞かなくたってお見通しよ。どーせさっきやった競争の続きでしょ?」
「違うって。最後まで話を聞いてよ」
「あら違うの?なら聞いてあげるけど、まさかその境界線を越えて泳いでみようってんじゃあないでしょうね?」
「......」

 図星だったらしく、後が続かなくて困った顔をしている。そんな様子に何だか可笑しさが込み上げてきて、あたしは指を差しながら声を立てて笑った。

「そ、そんなに可笑しいかな?」
「可笑しい訳無いでしょう!今朝だってヒロのおじさんから言われたじゃないの。『操業船が居るから境界線から外は駄目だぞ』って。覚えてるでしょ?」

 紙コップをクシャクシャ丸めて雅史に投げ付ける。それでもパシッと器用に回収しながら余裕の笑みを見せた。
 これはまだあたしに気付かれてない事があるって証拠だ。

「それはそうなんだけど、操業は午前中の早い時間だけとも言ってたじゃない。それでも線から出るのは確かにいけない事なんだけど、地元の人は結構泳いで行ってる場所があるんだって」
「...続けなさいよ」
「え?う、うん。で、その場所はここからも見えるけど、あの海に浮かぶ岩山の様な小さな島...地元では『鷲島』って言ってるらしいけど、昔は燈台があってその土台周りは今でも土盛りされて残ってるんだ。だから素足でも上陸出来るらしいよ。何となく冒険的で面白そうだと思わない?」
「....で?あたしに一緒に行かないかって、そう言いたいワケ?」
「うん、一寸ルール違反だけど、どうかなと思って」

 言い終わらぬうちに片手で海水をすくうと、あたしはそのまま顔面目掛けて容赦無く叩き付けた。思いもしなかった様で見事にクリーンヒット。それでも飽き足らずに今度は両手を使ってバシャバシャと連続的に海水を浴びせかける。

「ちょ、ちょっと志保何するのさ。僕、なにか悪い事言った?」
「なーにが『僕、なにか悪いこと言った?』よ!このスケベ大王!!」
「す、すけべ大王って何だよそれ。僕はそんなつもりで言ったんじゃ..」
「この!この!聞く耳もた〜ん!!」

 言い訳する雅史に尚もバシャバシャと制裁を加えていく。ついには両手プラス両足も使っての全身連続攻撃!全く、男ってのはちょっと甘い顔すると直ぐこれなんだから。
 防戦一方の雅史は、その頃になってようやく反撃に転じてきた。一寸した隙を付いてあたしの暴れる両手を掴むと、器用に足払いをかけて優しく尻餅を付かせる。そして両手を掴んだまま自分も屈み、制する目であたしを見つめてきた。

「いきなり暴れないでよ。話も何も出来ないじゃないか」
「へー、あの島行ってこんな風にあたしの両手を封じるつもりだったんだ〜」
「志保だからそれは誤解だって」
「それにあの島行ったらこ〜んな事もするんでしょ〜?」

 あたしはその状態のまま後ろへ倒れこんだ。「うわっ!」っと驚いた声と同時にパシャンと音がする。仰向けになったあたしの上へ、四つん這いになった雅史が覆い被さる格好となった。

「こうやって押し倒して男の欲望をあたしで満たすつもりだったのよね?ねえ、この次は何するの?やってみせてよ」

 そう言いながら素早く雅史の両頬をつねった。当然思いっきり。「いててててて。志保痛いよ!」と悲鳴を上げるけど放さない。
 あたしは雅史の口から言わせるべく、さらに追い込んだ。

「ね〜早くやってみせてぇ〜。折角こんな格好してんだからさぁ。やっぱまずはこの美乳をモミモミかしらねぇ〜?」
「志保ぉ!そんな事よりも早く両手放してよ!」

 さすがに我慢出来なくなったみたいで、その体勢のまま両腕を器用に持ち上げるとあたしの手を引き剥がした。
 同時にあたしは両手の力を抜いてそのまま左右にパシャンと下ろす。雅史から見たら無防備そのものに違いない。

「そんな事とは失礼ねえ。男の子の願望なんでしょ?」
「だからそんなつもりは無いって言ってるじゃない。何度言ったら分かってくれんのさ」
「それなら何で鷲島にあたしを誘うのよ?」
「だからそれは単なる冒険心で..」
「あんた、本当に知らないで言ってる?」
「え?何を?」

 駄目だこりゃ。本当に分かって無いらしい。
 恐らくはヒロやあかりでさえ耳にしてるだろうその話しを,あたしは簡単に説明した。

「あの島は別名『天然のラブホテル』って言われているのよ。泳ぎと度胸さえあれば誰でも行けるし、元燈台のあった土台が壁になって海岸からは見えないってワケ。ゴザでも持って行けば完璧よね」
「え!そ、そうなの?でもそんな話何処で聞いたの?」
「疎いわねえ。そんなの宿に居れば自然と耳に入ってくるじゃないの」
「僕の耳には入って来なかったけど?」
「その耳どっか壊れてんじゃない?」
「志保の耳と一緒にしないでよ」
「ふふ。まあ、褒め言葉として受け取っといてあげるわね」

 困惑した顔の雅史に少しだけ優越感。でも、こんな三面記事的情報でしか優位に立てない今の自分が少々くやしい。いつかは普通の話題でも勝ってやる。
 切りだせないでいるそんな表情に、あたしは尚も突っ込みを入れた。

「で?あんたは一体全体どうしたいのよ。男なんだからそこハッキリさせなさいよ」
「だ、だからそんなつもりは無いって」
「それはもう聞き飽きた。じゃあ行かないのね?まあ、別にいいけどね。あー勿体無い勿体無い。男のクセにバッカじゃなかろーか♪」
「志保。だからそれは行く目的が...」

 型通りの言い訳にあたしはため息をついた。そして、自分からはやっぱり変えようとしないんだなってまた気付かされる。
 確かにあたしよりは素直だ。行動力だって人一倍ある。けど、男として見た時に決定的な部分が抜けている。
 何もたった今知った事じゃない。あの日からずっと見てきていつもそう思えていた事。そして、そうした中でのあたしの結論。
 それが変らない限り、やっぱり好きにはなれないんじゃないだろうか。

「冗談よ。あたしから誘う訳無いじゃない。ま、それはさておき、そろそろ時間よね。昼飯買いに行きましょ。それにしても五目焼きソバなんてあるのかしらね?まあソースので十分かあいつには」

 ザバッと身体を起こしつつ、プカプカ浮かぶ変わり果てた紙コップを拾い上げた。二つが複雑に絡み合ったそれは、もはや単なる紙の塊と化している。
 先に雅史が腰を上げ、あたしに手を差し出してくれた。それを掴みながらゆっくりと立ち上がる。その時の表情を、あたしはつい見逃していた。

「..!?ちょっと何やってんの?人の手掴んだままじっとしていないでよ」
「え?あ、ああゴメン」

 そう返事をしながらも、そのままでいる雅史の顔はとても見られたものじゃ無かった。言いたくても言いだせない、そんな様子がありありとその表情に浮かんでいる。
 悩んでいる。告白してきた日と同じか、それ以上に。
 でも、あたしがそれに気付いたからといって何か言ってあげようとは思わないし、する気も無い。
 それなりに付き合いが長くて、こんな性格のあたしだからこそ、雅史のそんな気持ちが手に取る様に良く分かる。けど、今はそれが疎ましかった。
 状況に見切りを付けるべく、あたしはその手を振り切った。

「前に言ったでしょ?はっきりしない男は大嫌いだって。何度も同じ事を言わせないで」
「志保、僕はそんなつもりじゃ...」

 言い訳する雅史を尻目に、あたしは歩きだしていた。



◇      ◇      ◇



 スッキリと晴れ渡った日が続いていた。本当なら気分もスッキリな朝のそんな陽光に包まれながらも、何だか足りない気持ちを胸にあたしは学校へと向う。
 いつもなら横には孝治君がいて『おい、あのドラマ見たか?』とか『今日って宿題あったか?』なんて、いつもやってきているクセにわざと聞いてくる。そして『やってないなら見せてやろうか?貸し1コでさ』なんて提案があったりする。
 その貸しも、もうどの位溜まっただろうか。数えた事は無いけど、今年中に全部返せって言われても絶対無理な数に違いない。
 それにしても孝治君、どうしちゃったんだろう。いつもの場所に時間ギリギリまで待っているのに全然姿を現さない。あの日、何だか様子がおかしかったけどそれと関係あるんだろうか。第一学校に来て無い所からして変だもの。病気じゃないみたいだし、先生も『ご両親からしばらく休ませると連絡があった』としか言わないし。
 そんな事を考え続けてもう4日目。やっぱり今日の帰りにでも寄ってみようかな。でも、この前みたいな態度だと嫌だな。けど、なんでだろう。あたし、何か変な事したんだろうか?
 そんな事を考えてボーっとしていたのかもしれない。いきなり背後からポンと叩かれた。

「志保、おっはよー」
「...なんだぁ〜ユッコかあ。おはよう」
「なんだぁ〜..は無いでしょぉ?折角挨拶してんのに〜」
「あはは、ごめんごめん」

 クラスメートで結構仲の良い由紀子が話掛けてきた。いつもなら孝治君と一緒だから挨拶だけだけど、今日は自然と横に並んでくる。
 そんな訳で、久々に女の子同士での登校風景。でも、話題の中身はあまり変わらなかったりする。
 テレビドラマに宿題に、今日の体育でするイヤ〜なマラソンテスト。違うのは格好いい男の子の話題を奇声混じりでする位。
 でも、正直この手の話はあまり好きじゃない。だからいつもは興味あるフリだけして聞き流しているだけ。
 けど、今日ばかりはそうもいかなかった。

「ユッコそれ本当なの?大体その話どっから聞いたのよ?!」
「ちょ、ちょっと痛い!落ち着きなさいよ志保。私だって昨日の夜初めて知ったのよ。うちのお母さんPTAの役員やってるからこうした話は早いのよね」
「そんな事はどうでもいいわよ!本当なの?孝治君が転校するって」
「それが本当みたいなのよ。お父さんの転勤先に孝治君の方から一緒に行きたいって急に言い出したんだって。それまではずっと転校したくないって言い続けていたから両親も仕方無いと思って広い社宅に単身赴任のつもりが、急にコロッと態度変えたもんだから大喜びでトントンだったらしいのよ」

 実感が全然無い。だってそんなの、孝治君から一度だって聞いた事が無い。
 何かの間違いじゃないの?それとも、あたしをからかっているだけなんじゃないの?ねえユッコ、本当はそうなんでしょ?

「....それで、いつ転校するの?」
「それが随分急みたい。なんでも昨日にはもう全部の手続きを終わらせたんだって。事務の人からも直接聞いたって言ってたからほぼ間違い無いんじゃない?今日の朝礼でセンセーから話あるわよきっと。でもそうなると孝治君、もしかしたらもうここには顔を見せないつもりなんじゃないかなあ。あーあ、私結構憧れていたんだけどなぁ。そういえば志保ってば孝治君とはとっても仲良かったじゃない。本人から直接聞いて無いの?」

 頭の中がグワングワンとしていた。考えがグルグルと渦を巻いてうまくまとまらない。
 何故?どうして?転校なんて話、全然してなかったじゃない。
 僕はここが好きなんだって、この街にずっと居るんだって、前にそう言ってたじゃない!

「...ユッコ、先生には風邪で休むって言っといて」
「え?休む?志保いきなり何言って...ちょ、ちょっと志保どこ行くの?本当に休むつもりなの?!」

 あたしは走り出していた。
 それは通い馴れたいつもの道。あたしにとっては当たり前な、それでいて少し胸をときめかせながら足を早めた道。
 けど、今あるのは驚きと悲しさだけ。こんな気持ちでここ通らなければならないなんて信じられない。信じられる訳が無い。
 どうして?どうしてこうなっちゃうのよ!
 何度も自分に問い掛けながら、あたしはさらに足を早めていった。



◇      ◇      ◇



「何であんたがここに居るのよ!」

 思わず出した大声に一瞬戸惑いながらも、あたしの目はその姿に釘付けとなっていた。
 汚ない麦わら帽に薄汚れたTシャツ、ヒロよりも派手で趣味の悪い海浜パンツに胡坐座りの姿はさして珍しい訳じゃ無い。けど、そいつはつい昨日あたしが痛めつけた、そして二度と見たくも無い相手だった。

「ご挨拶だなぁ。同じフェリーだったんだぜ俺達ぁよ。だからここに居たっておかしかぁねえじゃねえか」

 相変わらずの薄気味悪いその顔に埋もれる濁った目の光を見た瞬間、それがどういう事態なのか、あたしは十分過ぎる位理解していた。

「ふざけないで!あんたの事だからあれから後を付けてきたんでしょ。昨日の今日で信じられる訳が無いわよ」

 その言葉にニヤニヤしながら嘗め回す様な視線を送ってくる。その気味悪さにゾクッと身体が反応した。

「へっ、両津港でのおめーらの出迎えってジャガーだったろ?そんな気ぃ無くたってあれ見りゃ直ぐピンとくるぜ。お前ン所の宿のオヤジ、結構な洒落者で通ってんだよ。なんせこちとら同業者だかんな」
「同業者?どういう事よ!」
「鈍いやねえ。俺が今、ここで何してるか見れば解かりそうなものだろ?」

 そう言いながら、その場を見せびらかす様に両手を広げる仕草をする。今更見るまでも無かったけど、大きくカラフルなビーチシート上に広げられたそれらをもう一度眺めてみた。
 二人乗り程のゴムボートや輪投げの様に木クイに積み置かれた大小様々な浮き輪の数々。綺麗な色のビーチボールに一抱えもあるイルカやシャチやドラ○モン。そしてこんなの誰が借りるの?のビート板。それら脇には膨らませ用のボンベが置かれ、各レンタル料金と「○×旅館出張店」と書かれたベニア看板が立て掛けられている。
 品揃えは決して悪くない。こんな奴がやってなければ借りていたかもしれなかった。

「ウチの場所もあって元々は南の方でやってんだけどよ、今日は何となく北での実入りが多そうだと思ったのよ。こんなセコい商売でも売り上げイコール俺の小遣いな訳でな。だからお前の事なんざ別に知ったこっちゃ無え。大体どの海水浴場に行ってるかなんて分かる訳ねえしよ」

 あたしは思いきり顔をしかめた。その言葉を裏づけるにほど遠いニヤけた笑い。嫌悪感は今まさにピークに達していた。

「嘘言いなさいよ。北での海水浴場ったらここしか無いじゃない。あんたがあたしの泊まる宿に当たりを付けたんなら、ここに来ると踏んだっておかしくは無いわよね。島内でも指折りの遊泳場だし、今日明日で張ってればまず十中八九って所だわ。だとしたら目的はただ一つ。あたしって事じゃないの。そもそも本人を目の前にしてそんな言い訳する必要がある訳?もっと素直に言ったらどうなのよ」
「へへっ、よく口の回る女だぜ。けどなかなかに解かってんじゃねえかよ。胸がデケエからもっとバカだと思ってたぜ」

 カチンとくる一言と共にそいつはユラリと立ち上がると、先程とはうって変わった威嚇の表情を見せながらゆっくりと近付いてきた。下から睨め付ける様な表情はまさしくチンピラそのものだ。

「午前中だと思ったからよ。今日はもう来ねーのかって店閉い直前だったのさ。こんなんでコセコセ小遣い稼ぎしてるよりゃウチの金チョロったりあのブタに貢がせた方がまだ実入りがいい。まあ、実入りという意味じゃあここに勝るものは無えけどな」
「その汚ない顔を近付けないで。また痛い目を見たいの?」
「言うじゃねえか。不意打ちなんて卑怯な手を使いやがってよ。まあ、ありゃ俺の油断だったから仕方ねえけどな。だから今度は正々堂々といこうや。勝った方は負けた方を好きに出来るって事でよ。おめーに痛め付けられたダメージがまだ残ってっからハンディ無しだな」

 まるで涎を垂らさんばかりにノッソリと近付いてくる姿に鳥肌が立った。冗談じゃない。誰がこんな男に!
 けど、これはマジでヤバい。あたしを甘く見てるなら付け入る隙はいくらでもあるけど、全力で、しかも真正面から組まれたら女のあたしに勝ち目は無い。
 やっぱりここは引こうか....ううん、それだけは絶対イヤだ。今更こんな男に背中なんか見せたくない!
 けど、一体どうしたら...

 あたしは思わずヒロの事を考えていた。取っ組み合ったらきっとあいつの居る場所からも分かる筈。問題はそれまで踏ん張れるかだけど、ここは根性見せるしか無い。
 お願いヒロ。この状況に気付いて!
 祈る様な気持ちで迫り来る相手に身構えた。

「ちょい待ち。お二人さん、その位にしときなよ」

 直前に聞いたその言葉。ドキッとすると共に、あたしはようやく雅史の存在を思い出していた。

「なんだぁテメエは?女の付録がでしゃばんじゃねえ。すっこんでろ!」
「駄目よ雅史!出てこないで!」

 あたしは青くなった。他人とのこんな喧嘩経験なんてあろう筈も無いし、そもそも雅史には関係無い事だった。それにこんなつまらない事でケガでもされたら、高校生活最後の秋の大会に影響が出ないとも限らない。
 なんて事なのよ。あたしマネージャーじゃない!今になってそんな大事な事に気付くなんて!
 あたしはかばおうと雅史の肩に思わず手を伸ばす。けど寸前でその手は掴まれ、「大丈夫だから」といつもの屈託無い笑顔が向けられた。
 それ以上、あたしは何も言えなくなってしまった。

「まあそう熱くならないで。第一こんな所で一悶着起こしたら、そちらの宿の手前まずいんじゃない?」
「んだとぉ?ざけんじゃねえよ。先に手ぇ出したのはそのアマの方じゃねえか。言ってみりゃこっちは被害者だぜ。その落とし前はどう付けてくれんだよ。あ?」
「何言ってんのよ!それ以前に女の子を殴ったのはあなたの....」

 ハッとして口を噤んだ。今は下手に刺激しない方がいい。あたしは唇をギュッと噛んでいた。

「へ!あれが女なものかよ。まあ百歩譲ったとして、俺なりの愛のムチってもんだぜありゃあよ」
「そんな一方的な言い草が通用するって本気で思ってるの?相手は女の子なのよ?それを男の力で本気で殴るなんて...見逃せる訳無いじゃない!」
「るせえ!てめーにゃ関係無え事だろうがよ。それを正義ズラしやがってよ。ヒーローにでもなったつもりかよ?ぁあ?..それとも何か?そんなに俺とお近付きになりたかったのかよ?ぇえ?だったらいつでも相手してやんぜ。あのブタ以上によ。思いっきり可愛がってやっからよヘッヘヘヘ」
「な..なんて奴... 」

 腹の底からフツフツと怒りが込み上げてくる。身体がブルブルと震えるのが分かる。でも、でも今は....
 拳を握り締めたまま、あたしは視線を逸らしていた。

「どうやら互いに納得がいかないみたいだね。なら、僕に仲裁させてくれない?」
「何だあ?女の代わりテメエがやるってのか?俺ぁ男には興味がねえぞ」
「僕だってご免だよ。それに戦って勝てるなんて思っていない。そう出来るんならしたい所だけどね」

 そう言いながら腰の防水ポーチを紐解いている。
 まさか...や、やめてよ雅史!!

「四万ある。どっちが悪いかというのも込みにして、これで手を引いてくれないか?」
「雅史やめて!あんた何でそんな事!」

 言葉の途中で既に事は終わっていた。男は雅史からひったくる様にお金を掴むと、馴れた手付きで数えはじめる。そしてパパンと札ビラの音を立て、さも嬉しそうにこちらを仰ぎ見た。

「いい心掛けじゃねえか。ちと少ねえが、その小市民ぶりが気に入ったぜ。へへ、そんなんじゃテメーにゃそのアマぁ乗りこなせねよ。手に余るんならいつでも言いな。相手してやっからよ」
「...もう、僕達には付きまとわないでくれるね?」
「まあいいだろ。今度からはそいつが変なちょっかい出さねえ様、首に縄でも付けとくんだな。ああそうだ、よけりゃ好きなの借りてっていいぜ。ぞの位ぇサービスしてやるよ。このボートなんてどーだ?熱いお二人にゃビッタリだぜぇへッへへへへへ」
「遠慮しておくよ。それじゃ志保行こうか....志保?どうしたの?」

 バシィ!

 右手に痺れにも似た痛みが走る。それを無視して、あたしは雅史を睨み付けた。
 分かっている。雅史は何も悪く無い。全てはあたしが、自分がいけないんだって事は分かっている。
 でも、でも今のあたしにはそれしか無い。そんな事でしか自分の憤りが表現出来ない!

 全てのものに背を向けて、あたしは再び海へと走り出していた。


「あたしはあたし −最終章(後半)−」 へ続く.....


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