20000Hit & 第2TASMAC-NET創設一周年記念 〜 「浩之とあかり」番外編 〜


あたしはあたし 〜 第一章 〜






 今となっては随分と長い間、その事を意識しないで過ごしてこれた様に思う。
 それはあたしにとって重要な事柄の一つではあったけれども、いつもの様に無難に解決出来る問題だとも考えていた。
 それはゲームと同じだった。あまり深入りし過ぎなければ良いだけのリセット可能な一つのゲーム。
 それが欺瞞だと分かっていても、自分で気にしたものでなければどうという事は無かったし、そうすれば誰かが傷付く心配も無いと思う安堵感があった。むしろ、そちらの方が強かった。

 そして、いつの頃からか、あたしはそれが正しいと思う様になっていた。
 そう、その考えは今でも然程変わらないのかもしれない。
 『絶対』から『多分間違い無い』程度の微々たる差。その位の変化でしか無い。
 それが分かっただけでも、あたしにとっては収穫と言えるのだろうか?

 そんなだったから、その瞬間が来るまで、あたしはどうにでもなると思っていた。そう思い込んでいた。信じて疑わない心が何処かにあった。

 そんなだったから、真正面からその事実を突き付けられた時、あたしは出せるカードが手元に一枚も無いという事実に愕然とするだけだった。
 自分からは、何もする事が出来なかった。

 その時初めて、あたしはあらゆる事柄が思った以上に自分の自由にはならないと悟ったのかもしれない。



◇      ◇      ◇



 それは西の空から白い線を伴なって唐突に現れたかと思うと、ゆっくりと、でも確実に、あたしの頭上遥か遠くを通過して東の空へと駆け抜けて行った。
 空を二分するかの様に残された一本の線は見事な茜色に染まり、その遥か上空を流れる筋状の絹雲を前にして、消え行く最後の姿を印象付けるかの様に明かるく光輝いている。
 あたしはその線をもう一度追ってみることにした。
 既に帯状となっている西側から、ゆっくりと目を進めるに従って次第に幅が狭まる白い航跡は、真っ直ぐ突き抜けるかの様に東の夕闇へと続いている。
 その光景の面白さに、あたしはすっかり目を奪われていた。

「おい!見てみろよ。スゲェー!」

 校庭に残った男子生徒だろうか。そんな声が、屋上にも響いてくる。
 あの先には一体何があるのだろうか。あたしは想像を巡らせてみた。
 日本の何処かという事は考えなかった。それはまだ見た事の無い、遥か遠くの最果の地への想いだった。TVでは何度か見た事はあっても、実際にこの目や肌で直接触れた事は未だ無かったから、それは憧れに似た想いなのかもしれない。
 直接、この目で見てみたい。その地に立って、風土や空気を感じたい。
 今の時代ならちっとも難しい事じゃないけれど、それはあくまで観光ならではの話だった。あたしが感じたいのはそんな上辺だけの事では無い。

「何やってんだよホラ!早く来いよ!」

 さっきと同じ声がまた響いてくる。あたしはフェンス越しに校庭を見下ろしてみた。
 鞄を脇に抱えて立っているヤボったそうな感じの下級生らしき男子生徒に、これまた小っちゃくてトロそうな感じの女の子が走り寄るのが目に入った。後ろ髪にチョコンと結ばれた赤いリボンがやけに目立っている。
 あのリボンは、男の子に寄せる想いの象徴なのだろうか?
 ガラにも無く、そんな事を考えてみたりする。
 一寸前なら「馬鹿馬鹿しい」の一言で片付けていたけれど、今では少しだけいいかなと思える。
 だからと言って、自分からしてみたいとまでは思わないけど。

「やっぱりここに居たんだ」

 少し離れた所から聞こえる、いつもの声。
 聞こえてはいたけれど、あたしは先程の二人が歩いて行った方向を見続けていた。
 いつもの通学路には早くも薄ボンヤリとした街灯がともり、その先の駅前商店街でも、小さなネオンが瞬き始めているのが見て取れた。
 あまり変わる事の無い風景だった。毎日繰り返される、見飽きた筈のそんな風景の一つ。
 けれども、今日のそれは不思議とあたしの心を捕らえていた。

 フワッ

 瞬間、あたしは目を閉じる。
 取り巻く風の優しさが変わったのが分かった。いつもと同じ、暖かい風。
 それに包まれる事。それは当たり前のこと。
 そんな風に思えて、少し安心出来て、でもそれが少しシャクで、あたしはわざとそちらに顔を向けなかった。

「日が落ちるのが早くなったよね。それに随分と涼しくなったし」
「...そんな事を言う為にわざわざここに来たの?」

 意識してそう言ったりする。意地悪だなとも思う。でも、そんな事に動じる人じゃないのも分かっている。

「ううん、そうじゃないよ。ただ、部に顔を出さないからどうしたのかなと思ってさ」

 ほらね。思った通りの返事だ。
 全然感じて無いって言うか、相変わらず自分のペースって言うか。
 けれど、そうした変わらぬ返事に見えながらも、その時々で少しづつ違った感情が込められている事にもとっくに気付いている。
 あたしは顔を背けたまま、言葉だけを返した。

「そんな気分じゃ無かったのよ。それに今日は通常練習だけだから、あたしが居なくても大丈夫でしょ?」
「うん。それはそうなんだけどね」

 ホラホラ始まった。こうした曖昧な受け方している時は絶対次の手を隠しているんだから。無駄よ。今日はいつもの様にはいかないわよ。

「それにね、手が空いてるからって洗濯物まで手伝わされるのは勘弁なのよね。全くなんであたしが担当以外の後輩の面倒を見なければならないのよ」
「ああ、その事だったらゴメン。でも、マネージャー達喜んでいたよ。『志保先輩ってやっぱり頼りになりますね』って。『後輩の私たちにこんなに親切にしてくれる先輩は他には居ませんよ』って」
「そ、そう?」

 あたしは少し嬉しくなる。

「うん。それと『よろしければ、また手伝ってくれると嬉しいんですけれど』とも言ってたし」
「ジョーダンじゃないわよ!」

 言いながら思わず振り返ってしまう。そして、しまった!と後悔する。

「ようやくこっちを向いてくれたね」

 目の前には、相も変わらぬ屈託の無い笑顔がそこにあった。
 そう、これが彼の手口なのだ。あたしの性格を見越して微妙な引っ掛けをしてくるいつもの手口。
 気を付けていても必ず引っ掛かかってしまう。何度も何度でも。そしてその度にクヤシイ思いを繰り返している。
 何回声を荒げて怒ったか分からない。でも、その度に返って来る言葉は決まっていた。

『え?あ、だとしたらゴメン。別にそんなつもりじゃなかったんだ』

 てっきりからかってるのかと思ったらそうじゃ無かった。本気だった。それが本心からの言葉だと分かった時は、極度の疲労感で口を開くことすら出来なかった。
 今でもその返事を聞く度にドッと疲れに襲われる。リフレインは一度で沢山。
 話を逸らそうと、あたしは再びフェンスの向こうに顔を戻した。

「部活の方はもう終わったの?」
「うん。ミーティングも含めてね。地区大会が近いから、次回は出て欲しいって部長が言ってたよ」
「そう。分かった。次回はそうするわ」
「よろしくね。それと、洗濯手伝わされて怒ってる件はもういいの?」

ガシャ!

 思わずフェンスを両手で掴む。そして、沸き上がる衝動を何とか押さえ込む。
 怒ったら駄目。そうしたら全てあたしの負け。
 感情に任せたあたしの罵詈雑言をニコニコしながら全て聞き受け流した後、『よく分かったよ。志保の言いたい事ってこういう事なんだね』とキチンと箇条書きにまとめたあげく、『それならこうしたらいいんじゃないかな』と適切なアドバイスまで返してくる。それはもう理路整然としていて、異論を挟む余地が無い程に。
 その間のあたしって、きっとバカみたいにポケーっとしてるだけなんだと思う。
 はあ、そうですか、確かにおっしゃる通りですわね。やれやれ、なんだか疲れましたでございますわ。こういう時は濃ーーーい渋茶に塩コンブがやっぱり最高ですわね。それじゃあ一寸失礼しまして...ズッ、ズズッ、ズズズズズズズズズズズズズ.....いやいや、お粗末様でした....
....って、何であたしがこんな事考えてなきゃなんないのよ〜〜!!

ビクッ!

 左手に暖かい感触。思わず手を引っ込める。
 振り向くと、笑みの消えた心配顔が話し掛けてきた。

「そんなに力を入れ続けていたら手を痛めちゃうよ」
「な、なによ、いきなり...」

 そう言いながら気がつくと、あたしは彼が触れた所を擦りながらうつむいていた。まともに相手の顔が見られなかった。

 どうしちゃったんだろう、あたし....

 こんなにも。そう、こんなにも他人を意識した事なんてこれまで無かったのに...そう、あの時だって、これ程には...
 時間が経つにつれて、自分の心が自分のものでは無くなっていく。そんな不思議な、怖いような逃げ出したい様な、それでいて少し嬉しい様な複雑な気持ちがあたしの中に渦巻いてくる。
 それが、次第に強くなっていって....
 このまま、この気持ちに飲み込まれてしまってもいいのだろうか?

「...スカウトの件、残念だったね」

 思わず口に付いていた。それはもう終わった事。今更言っても仕方無い事なのに。

「ううん、気にしていないよ。僕より上手い選手なんて全国規模で見ればいくらでもいるもの。選考対象になっただけでも上出来だと思うし、まだ望みが絶たれた訳じゃないしね」

 強がっている訳じゃない。だからと言って、あたしに気を遣っている訳でも無い。きっとそうなんだろう。
 彼がそう言ってるのだから。だからあたしにもそう思えるんだ。

「アンタなら大丈夫よ。大学の推薦枠は何とかなりそうなんでしょ?」
「そっちの方は大丈夫だと思う。顧問の先生が随分とプッシュしてくれたみたいで本当助かったよ。僕の希望にも適っているし。むしろそっちの方が本命というか、望んでいた道だしね」

 望んでいた道...か。
 なんだかズルいよな。自分の事はさっさと決めちゃってさ。
 でも、あたしには分かっていた。そうじゃないんだ。そう考えるのは、あたしが決めて来なかった事への嫉妬感からなんだ。
 自分の事なのに。自分で考えなきゃいけない事なのに....

 あたしは顔を向けると、その表情を確認する様にゆっくりと言った。

「推薦決定おめでとう。雅史」
「そんな。まだ早いよ。正式に決まった訳じゃないもの」
「決まった様なものよ。あたしには分かるの。志保姉さんの勘は当たるんだから」

 そう言った後、確信みたいなものが自分の中に湧いてきて、なんだかそれが嬉しくて、あたしは次第に笑顔になっていく自分を感じていた。



◇      ◇      ◇



「何ですってぇ?!島流しぃ?」

 自分の部屋で思わず素っ頓狂な声を上げてしまうあたし。それはヒロからの電話で、予想もしていなかった提案を持ちかけられてた時の事だった。

『おめーはよー、いきなり大声出すんじゃねーよ!鼓膜がおかしくなっちまうじゃねーか!』
「大声出したくもなるわよ!何だって高校生活最後の夏が島流しなのよ!」
『だからお前、偏った知識でモノ言うなって言ってんだろーが!今は一寸した観光地なんだぞ?流刑の地として使われていたのは百数十年以上も昔の事さ』
「そんな事は分かってるわよ!だから何だって今さら佐渡なのよ?グアムとかハワイなら分かるけど、佐渡よ佐渡!しかも高校生活最後の夏がそれよ?あんた悲しくならないの?」
『お前、やっぱり偏見でモノ言ってるよな〜。じゃあさあ、佐渡についてどの位知ってるんだ?言ってみな?』
「そんなの簡単よ。島流しと金山でしょ、それと佐渡おけさ」
『.....それ以外は?』
「それで全てでしょ?」
『...やっぱり超弩級の馬鹿だぜお前って。何にも分かってねえじゃねえか』
「何よその超弩級って!あたしは戦艦かってーの!!」
『だから電話口で大声出すのは止めろ〜!』

 お盆も過ぎてそろそろ残り少なくなってきた夏休みに寂しさを感じていた頃、とつぜんヒロからの二泊三日での佐渡行き話しが降って湧いたように持ち上がってきた。
 何でも親戚がやってる民宿が改装したとかで、お盆も過ぎて余裕が出てきたので一度遊びがてら泊まりに来ないかという話しに便乗させてくれるらしい。
 あかりは当然の事ながらOK。雅史も『そうだね。高校生活最後の夏に皆で遊びに行くのもいいね』とこれまたOKという事だった。

『無論お前もOKだよな?雅史だぞ。雅史も来るんだぞ?何をおいても参加だよな?』
「何でいつもそっちに話しを持ってくのよ。関係無いって何度言ったら分かるのよ!」
『照れるな照れるな。まあ、それはそれとして、高校生活最後の夏にいつもの四人で遊びに行くのもいいんじゃねえか?やっぱり遊びにお前が加わると盛り上がるしな』

 その言葉にあたしはカチンとくる。

「あんたさあ、それってちっとも誉め言葉になっていないわよ?様はお祭り要員の確保みたいなものじゃない」
『あれ?今頃気付いたのか?オレはてっきりそのつもりで考えていたんだけどな』
「いい加減にしなさいよ。切るからね」
『あ、待て待て。冗談だ冗談。まあ、正直な所どうせ行くならいつもの四人でとはオレも思っているんだ。強制はしねえけど、出来れば来て欲しい。たまには四人でゆっくりとこれまでの高校生活を振り返ってもみたいしな』

 これまでの高校生活。その一言が、あたしの胸にズキッとした疼きを蘇らせた。
 この三年間。ううん、中学時代も入れると六年間か。長い様でいてあっという間だったこの期間。あたしは充実した時間を過ごす事が出来たのだろうか。
 自分に正直に。そして、自分が望む様に。
 その結論は今でも出ていない。出せないんじゃない。意識して出していないのかもしれない。
 後からその事を懐かしく思って、笑いもして、後悔なんかもして....本当はそれではいけないんじゃないだろうか?

 しばらく考えてから、あたしは口を開いた。

「分かった。参加するわ」
『オッケー!これでいつもの四人だな。じゃあ時間と日程だけど.....』

 ヒロのそうした説明を機械的にメモりながら、忘れていた筈の疼きをあたしはどうする事も出来ないでいた。



◇      ◇      ◇



『...本日は佐渡汽船をご利用くださり、まことにありがとうございます。本船は新潟港から佐渡の両津港間を結ぶ連絡カーフェリー『おけさ丸』でございます。所要時間は二時間二十分、到着時刻は午後二時三十分を予定しております。両津港は快晴。予定航路の海上天候も良好との報告が入っております。尚、御用の節は、お近くの客室乗務員までお気軽にお声をお掛けくださいます様お願い致します。それでは快適な船旅をお楽しみください』 ポーン

 船内放送を耳にしながら、あたしは前部の右舷デッキに立ち、進み行く海の景色を先程から眺め続けていた。
 出港前の濁った潮と工業地帯の匂いのする重く沈んだ空気とは違い、日本海の空気は清々しいの一言だった。潮風は冷た過ぎず暑過ぎず、こうして海を眺めているには最高の風と言えた。
 海はどこまで行っても穏やかで、青く晴れ渡った空の天頂から煌煌と光り輝く太陽が、海のさざ波の分だけ分割されて、まるでその輝きを全てこの船に集中させるかの様にキラキラと挨拶を返してくる。
 そうした中をかき分ける様にして船は滑らかに疾走していく。こうした爽快感はあたしの感性にピッタリなものだった。
 手すりに身を預けて、そうした船首の波切り部を眺め続ける。

ザザザアアアアア

 船速がさらに上がった様だ。切れる波が次第に高さを増してくる。
 進んでる進んでる。速く、もっと速く!
 顔に当たる風が凄く気持ち良くて、あたしは飽きる事無く前方を眺め続けていた。

グイッ!

 いきなり視界が船内に戻される。突然の事で、あたしは引き戻した相手に目を向けた。
 雅史の心配そうな顔が目の前に飛び込んでくる。

「何すんのよ!」
「志保こそ何してんだよ。あのまま海に飛び込むつもりだったの?」
「え?」

 言われて見回すと、後ろではヒロとあかりが同じく心配そうな顔をしている。しかもそれだけでは済まず、いつのまにか一寸した人だかりが出来ていた。

「おい志保!何やってんだお前は!」
「志保〜。お願いだから危ない事しないでよ〜」

 ヒロから怒られ、あかりから泣きそうな顔をされ、あたしは何が起ったのか分からずキョロキョロするだけだった。すると人だかりをかき分ける様にして一人の客室乗務員が近づいてくる。やがて目の前に立つと慌てた様に言った。

「お客様どうなさいました?何か海上に落とし物でもされましたか?」
「え?え?何の事?」
「いえ、何か今にも海へと身を投げ出しそうになっている方が居ると聞きましたので駆けつけてきたんです。あまり身を乗り出すと本当に海上に落ちてしまいますので気をつけてください」

 それで全て分かった。船が進む様が面白くて身を乗り出し過ぎていたんだ。きっと雅史やヒロやあかりは注意してくれていたに違い無い。それも聞こえず、あたしったら....

「す、す、すみません!何でも無いんです何でも。あ、あは、あはははははははは。いやいやこりゃまいったわね。そんじゃま、そういう事でぇ...ホラ!雅史行くわよ!」

 あたしは雅史の腕を掴むと人だかりを突き破る様にして反対側の舷側に逃げた。そこから階段を降りて一段下の舷側まで降りる。それでも足りなくて、あたしは船部後尾まで走った。
 そこでようやく雅史の腕を放すと、思わず両膝に手を置いて息を整える。
 回りの連中が怪訝そうに見ているのが分かったけど、そんな事まで気にしていられない。
 恥ずかしい。本当に恥ずかしかった。あたしったら一体何やってんだろう。

「志保、本当にどうしたの?大丈夫?」

 雅史はそんな言葉を掛けてくるけど、とてもその理由なんてまともに話せない。これじゃあまるで低学年の小学生並じゃないのよ。あーもうこんなんじゃ後で全員から詰問されるのは目に見えているわね。
 こうなったら仕方ない。今のうちに雅史を抱き込んでおこう。

「ま、雅史。一つ約束してくれる?」
「うん。何?」
「さっきの事で二人が後であたしに質問してきたら、うまい事言って話を逸らしてくれない?全く別の関係無い話題を持ち出すとかしてさ」
「え?いいけど、何の為に?」

 あーイライラする!全くワザと言ってんじゃないでしょうね。

「いいから!」
「わ、分かった。でも、もう皆知ってると思うよきっと。志保が船からの景色に目を奪われて身を乗り出しすぎていた事でしょ?」

ガクッ!

 あたしは思わず両手両膝を地に付けた。いや、この場合は甲板にというべきか。
 そうじゃないかとは思ったのよね。もー、これだから付き合いが長いってのはイヤなのよ。こっちのした事が言わなくても全てお見通しなんだもの。
 少ししてようやく気を取り直すと、あたしは雅史に向かって言った。

「...ノドが乾いた。コーラが飲みたい。買ってきてくれない?」
「いいね。じゃあ行ってくるよ」
「あ、一寸待ってお金...」
「後で貰うよ。そこにでも座って待ってて」

 近くのベンチを指差すと、雅史は片手を上げて去っていった。
 あたしはノロノロと身体を起すと、そこには腰かけず、船尾の手すりにもたれ掛かった。ここからは船尾の作業甲板を経て航跡を眺める事が出来た。
 パタパタとひるがえる日の丸の旗の先では、スクリューでかき回した白い航跡が水平線の先まで続いているかの様に見える。出港した地は既に見えなくなっていた。

 なんだかんだ言っても、あたしが一番子供よね....

 乗船した時のあかりとヒロの姿が思い出された。一寸前なら四人揃ってのこうした状況では全員が子供の様にはしゃいでいるのが常だった。しかし、今回はそうした姿をそこに見る事は出来無かった。
 あかりは大きな船に乗れた嬉しさを素直に口にして、ヒロがそれを受けて優しく微笑みながら言葉を返す。そこはまさに二人の世界であり、落ち着いた大人の世界であり、あたしが気軽に口を挟める雰囲気では無くなっていた。
 時の流れは、互いのそうした関係を確実に変えていく。
 あたしには、どこかにそうした雰囲気を否定したい気持ちがあったのかもしれない。そうした様子を見てからは、何だか二人の側に居るのがいけない事の様に思えて仕方が無かった。
 そうでなければ、一人ぼっちで海なんて見ていなかったに違い無い。結局は、あたしだけが四人の中で一番取り残されているという事だろうか。
 二人は既に自分たちのこれからの進路を決めている。二人で一緒の大学、二人で一緒の仕事、二人で一緒の人生...

 じゃあ、あたしは?

 あたしは雅史と一緒の人生は送れない。雅史には大きな目標があって、そこにはあたしの入り込む余地など有りはしない。
 それに、今の所そのつもりも無い。それはそうだ。正直、あたしにとって雅史がそうした相手かどうか、はっきりとは分からないのだから。
 互いに接点があったとしても、それはその時々で一瞬のこと。決して連続したものではない。
 それならば、自分は何をしていきたいのだろう?
 そうした『想い人』との接点が少ない分、それ以外の多くの時間は自分が決めた事を中心として流れていく。
 自分で決めなければならない。誰が決めてくれる訳でも無い。ましてや、他人に決めて欲しくは無い。

 けど、何を?

 あたしは俯いた。三年生になってからずっとモヤモヤしているこうした気分の原因は分かっていた。煮詰まっている。高校生活最後というリミットを前にして、自分でドアを開けられない事にイラついている。
 ドアを開ける為の選択肢は過去にもあった筈だ。しかし、選んだものは必ずしもそう望んだものばかりでは無かった事も分かっていた。

 どうしたらいい?

 旅行に来れば少しはどうかなるんじゃないかと考えていたけど、そんな簡単な事では無かったと改めて認識したに過ぎなかった。
 先程までの少し浮かれた気分はすっかり消え、今は重苦しい気持ちだけが残っている。
 この旅行に参加したのは失敗だったのだろうか。やはり止めておけば良かったんだ。こんな気分のままこの旅行に参加していても、他の三人に迷惑をかけるだけかもしれない。
 帰ろう。
 両津港に着いたらそのまま引き返す事にする。三人には「気分が良くなくて」とか理由を付ければいい。逃げかもしれない。でも、そんな気分を引きずってまでこの場に居る事は...

「うるっせーんだよ!このブス!」

 直ぐ側でそうした大声が響き、あたしの思考は中断された。
 そちらに目を向けると、少し離れた所で男女が揉み合う様にしていた。何をしているんだろう?他人同士という訳では無い様だけど...
 あたしはその二人の顔を見やっていた。
 男の歳はあたしと同じ位だろうか。背は低く、ニキビ面でガマガエルの様に潰れた顔立ちだ。そこに大仏パーマをかけているものだからすっかりチンピラ崩れの感じに仕上がっている。着ている服装もチャラチャラした感じのハワイアンシャツにショートのコットンパンツと言った姿だった。
 もう片方の女性も歳の頃は同じだった。背が低いのも同じ。それと....悪いとは思ったけど、思わず笑ってしまった。平安時代なら美人の部類に入るのだろうけど、現代だったらお世辞にもそうは言えない潰れたおかめの様な顔だちで、コロッとした下太りの体形が目立っていた。脚がまるで丸太の様に太い。服装だけは可愛らしくピンクのタンクトップにプリーツ・スカートという姿だけど、その体形のおかげで悲しい程似合っていない。
 何となくピッタリのカップルだなと、あたしは意地悪く考えていた。
 それにしても、一体何を揉めているんだろう?男の罵声は次第に大きくなっていく一方だ。それに従って、回りに居た人もあたしと同じ様にこの二人に目を向け始めている。

「何かってーとお前は俺にちょっかいかけてきやがって!目ざわりなんだよ!今回だってオメーがノコノコ現れなかったら俺はまだ新潟辺りで羽振り良くやってた筈なんだ。結局オメーせいで全てオシャカじゃねえか!ふざけんじゃねえってんだよ!」
「でも正ちゃん、そのお金お店から勝手に持ち出したものなんでしょ?おじさん怒っていたよ。あたしも一緒に謝ってあげるから。ね?機嫌直してよ。ね?ね?」
「何が『ね?』だ!テメーが言っても可愛くも何ともねえんだよこのクソブスめ!!頼みもしねーのに勝手にオヤジの犬になりやがって!大体オメーは側にいるだけで俺にとっちゃいい笑い者なんだよ!うっとうしいし、クセーからくっついてくるんじゃねーよ!」
「そんな..あたし正ちゃんの事が心配だから、だから...」
「それが迷惑だって言ってんだ!」

 二人の様子を見ているうち、あたしの中で弾けそうな感情が芽生えてきているのが分かった。
 あたしはそれをグッと押さえつける。

「お待たせ。コーラで良かったんだよね。冷えてるのが無くて別の自販機回っていて時間かかっちゃった」
「...どうもありがとう」

 あたしは雅史からコーラを受け取りながらも、二人の様子から目が離せなかった。理由なんて分からない。ただ、許せないものをあたしの中で感じていたのは事実だった。
 雅史が何か言ったのかもしれないけど、耳に入らなかった。

「でも、正ちゃん以前はあんなに優しくしてくれたじゃな...」
「一度抱いてやった位で彼女ズラか!ふざけんじゃねえ!!」

 怒声が上がると、男はガッと女の子を殴り付けた。「キャア!」と悲鳴が上がり、ダァンとデッキに叩きつけられる音が響く。その様子に回りの連中が息を飲んだのが分かった。
 尚もケリを入れようとする男に向かって、あたしは走り出していた。

「待ちなさいよ!」
「んん?何だぁお前は...わあっ!つ、冷てえ!!」

 あたしは雅史から受け取ったコーラを思い切り振ると、男に向けて強く握りながら一気にプルタブを引き上げていた。狭い出口からはコーラが噴水の様に飛び出し、ガマガエルの様な顔面に向けて砂糖水のシャワーを浴びせかける。

「少し頭を冷やしなさい!理由はどうあれ、女の子に向かって暴力を振るうなんて最低よ!」
「く、く、くっそ〜〜。やってくれやがったなあ!女だからって容赦しねえぞこの野郎!」

 いきなり男はあたしの両腕を掴むと、それを捻り上げようとした。けど、そんなセコい技に引っ掛かるあたしじゃない。これでもチカン対策の合気道経験が少しはある。
 相手が捻り上げようとした力の方向に逆わずに、自分の身体をそれよりも素早く回し込んで相手の力を無力化すると、そのまま相手の腕を取りつつ身体を回転させて捻り上げる様に持っていく。

「うお?!ど、どうなってんだ?」

 遅い!こっちはヒロ直伝なんだから。あんたの動きなんてまるで蚊がとまってる様だわ。
 あたしは腕を掴んだまま相手の背に回ると、両肩に対して関節技を決めていた。その状態のまま片足を男の背中に乗せて床に突っ伏させる。
 男は何が起ったのか分からず、盛んにわめき続けていた。

「うおおーー!痛え痛え!痛えよう!もう止めてくれぇ!」
「女の子に二度と暴力振るわないって誓う?」
「誓う誓う誓うよお。だから止めてくれよぉ!」

 信用出来ない。あたしは尚も腕を捻り上げた。

「痛ってえ〜〜!!誓うって言ってるだろうがよ〜!」
「だったらそこの女の子に謝りなさい。そうしたら放してあげるわ」
「ふ、ふ、ふざけんな!こんなブス野郎にこの俺様が頭下げるなんて出来るかよ!!」
「だったら放す訳にはいかないわね」

 あたしはさらに力を入れる。これ以上やったら折れると思われる所まで。男のうめき声が益々大きくなった。

「お願いします。もう正ちゃんを許してあげてください」

 先程殴り飛ばされた女の子があたしの肩に手を掛ける様にして懇願してきた。殴られた顔が腫れ上がってきている。あたしはその子の顔をまじまじと見て言った。

「あなた、この男に何をされたか分かって言ってるの?」
「分かっています。ですけど、あたしは全然気にしていません。それに、これはあたしと正ちゃんとの問題なんです。ですが、あなた様や回りの人に迷惑を掛けてしまった事はお詫びします。どうかこれで許して頂けませんでしょうか」

 そう言うと、女の子はいきなりあたしの目の前に両膝を付いて正座となり、そのまま両手を付いて土下座をした。

 まるで頭を殴られたかの様な衝撃が走った。あたしの中で何かが音を立てるかの様に崩れていくのが分かった。

 どうして?どうしてこんなクズみたいな男の為にそんな事が出来るの?
 あなたには自分のプライドというものが無いの?

 ショックだった。そうした姿に。そうした事が出来る女の子の意思に。
 ドラマや小説ならそうした話しはいくらでも知っている。しかし、現実に目の前でそうした行為を見せつけられると、もはやあたしにはそれ以上どうしたら良いかを考える事すら出来なくなっていた。

「志保、もう止めよう。このまま続けていたらまた乗務員が来て面倒な事になるよ」

 雅史が側に寄ってきてあたしにそう告げたのが聞こえた。それに従う様に、あたしは男への戒めを解いた。

「正ちゃん大丈夫?。正ちゃん、正ちゃん」

 入れ代わる様に女の子が寄り添っていく。男はまだうめき声を上げて床の上に突っ伏したままだった。思った以上にダメージを与えた様だ。
 あたしはその様子をチラと見た後、フラフラとその場を後にしようとした。

「おい!」

 その声に思わず振り返る。ゼーゼー息を付きながらも顔だけ上げたガマガエルのその濁った瞳が、あたしの目をしっかりと捉えていた。

「テメエ、ツラ覚えたぞ。今度会った時はギタギタにしてやっからな!」

 それが威勢だけなのは分かっていた。そんな男の脅しなど恐るるに足りなかった。
 あたしは男に向き直ると、意を決して静かに、そしてゆっくりと言った。

「あたし、あんた達と似たカップル知ってるよ。男の方はどうしょうも無い馬鹿で、女の方はそんな男に甲斐甲斐しく尽くしている.....あんた達にそっくりだよ」
「なにい!テメエ、何が言いてえ!」

 威勢だけは十分な様だ。あたしは尚も続けた。

「別に...ただ、大きく違うのは、その二人は順当な人生を歩んでいるって事よ。条件がこうも似てながら、一方は凄く楽しそうに日々の生活を謳歌しているのに、あんたは相手を傷付けてばかり...どうしてこうも違うんだろうね?」
「だから何だって言うんだ!何処のどいつか知らねえが、そんな奴が居るなら連れてきてみやがれ!」

 あたしは男に近づくと、膝を折ってその姿を覗きこむ様にした。相変わらず痛みに顔をしかめながら、それでも威嚇するかの様にあたしの顔を見つめている。

「あんた不幸だね。一寸見方を変えれば、あんただっていくらでも楽しい日々を手に入れられるって言うのに...そんなに不幸にしているのが好き?それが楽しい?少しは自分の頭でよく考えたらどうなの?」

 それだけ言うと、あたしはさっさと立ち上がって男に背を向けた。
 後ろで何かわめいている声が聞こえてきたけど、もはや耳には入っていなかった。
 先程の様に慌てる事はせず、ゆっくりと人垣をかき分けると、荷物を置いてある二等船室にそのまま向かう。
 雅史はその間終始無言だった。ただ、斜め後ろに付いてきているのだけは感じていた。

「雅史、あんたも...」
「え?何?」
「...ううん、何でも無い」

 聞かない方がいいのだろう。あたしは頭を振った。
 認められなかった。それでも、その意思すら否定するもう一つの意思がある事に自分でも気付いていた。
 あの女の子のああした行動。それが認められるとするなら....

「おー居た居た。随分探したんだぜえ。全く何処行ってたんだよ二人して」
「志保やっと見つけた!もー、いきなり走って逃げちゃうんだもん。あれから乗務員の人に色々聞かれちゃったんだよ」

 その声であたしは顔を上げていた。そこにはいつもの二人が立っていた。
 変なサングラスを掛けてはいるけど、いつものお調子者のヒロ。そして、手に可愛らしい麦わら帽子を持ちながら、夏からのお届け物の様なワンピース姿のあかり。
 似合っていると思った。どんなカップルよりも似合っている。そして、それが寂しくもあった。
 これまでずっと封印していた筈の心の奥底にあった自分の本当の気持ち。その封がいつのまにか解かれ、あたしに目の前の現実を突き付けていた。

 ヒロ....

 そう、この男があたしの全ての始まりだったんだ....
 それを思うと切なくて、悲しくて、あたしは二人の前なのに、涙が流れるのを止める事が出来なかった。


「あたしはあたし −第二章−」 へ続く.....


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