20000Hit & 第2TASMAC-NET創設一周年記念 〜 「浩之とあかり」番外編 〜


あたしはあたし 〜 第三章 〜






 その道のりを、あたしは脇目も振らず一所懸命に走っていた。いつもはフラフラしている自分にとって、結構それは珍しい事かもしれなかった。
 行く先は当然決っている。孝治君がずうっと前から作っていた、とっても凄い打ち上げロケット。完成していよいよ今日だって言うから、これからそれを見に行くんだ。
 沢山の、本当に沢山の花火を全部解して一つにまとめた特製品。街で売ってるどんな大きい打ち上げ花火だってそれには絶対かなわない。
 少し前、孝治君の家まで行って見せて貰った事がある。
 それは厚紙でしっかりと作られ丁寧に色まで塗られたいくつかの円筒で、その中にそれぞれに配合されたという火薬がぎっしりと詰まっていた。何か爆発しそうで怖かったけど、『ぜ〜んぜん平気。その辺りはちゃんと計算済みさ』と孝治君が笑いながら言ったので少し安心した。

『初めて月まで行ったサターン型ってロケット知ってっか?あれはな、地球を飛び出す時に、一段目、二段目、三段目って感じで一気に燃料を燃やして切り離しながら上がっていくんだぜ。これはそれと同じなんだ。だから宇宙に飛び出せるのはこのちっぽけな先端部分だけなのさ』

 そう言いながら、丹念に木を削って作ったというその部分を見せてくれた。それは月まで行ったという宇宙船そっくりの格好をしていた。

『これがロケットの先端になるの?..あ、結構軽い!でも材料は固いんだぁ。それなのに中がちゃんとくり抜いてあるのね。後でこの中に詰めものするんでしょ?..へぇー良く出来てるじゃないの。打ち上げて無くなっちゃうの勿体無いみたい』

 その言葉を待っていたかの様に、孝治君は日焼けした真っ黒な顔をニコッとさせた。口許から少し覗く白い歯が、まるで輝いている様に見えた。

『無くなっちゃう訳じゃないさ。こいつは地球の大気という皮を突き破った後、月と同じ様にグルグルと地球の周りを回る存在になるんだぜ。人工衛星って言うんだ。知ってるか?』

 当然知っている。もう小学生だもの。でも、それは大人が作ったもっともっと大きな金属製のロケットじゃないと駄目なんじゃないの?これが本当に人工衛星になるんだろうか。

『うーん、正直に言うと自信は全然無いんだ。本当ならもっと色々と計算して大きさや重さや形や火薬の量なんかを決めないと駄目なんだけど、とにかく打ち上げてみたいと思って勢いで作った第一号だからなぁ』

 そう言いながら頭をポリポリと掻いた。はにかんだ様な、そして少し困った様なその表情。孝治君には内緒だけど、あたしはそれが大のお気に入りだった。

『駄目でもいいじゃない。やれるだけやってみようよ。だってこれ、ギューンって感じで大空を突き抜ける様に上がって行くんでしょ?それだけだって凄いわよ。あたし見てみたい。孝治君と一緒に二人っきりでさあ』

 サラリとそんな事を言ってみたりする。
 あたしは孝治君が好きだった。ガキ大将みたいだって嫌ってる子も居たけれど、運動が出来て頭も良くて顔もそこそこ。それにこんな科学博士みたいな雰囲気も兼ね備えている未知の男の子。だから慕っている女の子も多かった。
 そうした中でも、孝治君とはあたしが一番仲が良かった。こんな男子みたいな性格だからかもしれないけど、他の女の子には無い気楽さで接してくれた。その事がちょっと自慢だった。

『ふっ..二人っきりでか?』
『うん。二人っきりで..ね?』

 気付かれただろうか。少し露骨過ぎたかもしれない。

『う〜〜...ん。まあいいか。本当は耕一たちも誘いたかったんだけどな。でもまあ今までの応援のお陰もあるし、今回は特別だ。お前だけに見せてやるよ』

 お前だけに。その一言で、あたしは有頂天になった。
 まるで夏休みと冬休みと林間学校がいっぺんに来た様な嬉しさだった。
 これってもしかしたらデートよねぇと、あたしの頭は乙女チックな喜びで一杯になった。

『ねえねえ、それならこの人工衛星、あたしに預からせてよ。孝治君がウソ付かない様に指切りの代わりにさぁ。ね?いいでしょ?ね?ね?』
『おいおい、それ持っていかれたら全体の調整が出来ないじゃないか。心配しなくたって嘘付かないから大丈夫だよ』
『おねが〜い。壊したり無くしたりしないからさぁ。ねーいいでしょ?あたしの一生のおねが〜い』

 そう言いながら、孝治君の腕に抱き付く様に懇願した。後から考えると顔から火が出そうなそうした事も、この時は不思議と自然に振る舞えた。

『わ、わかったわかった。わかったよ。それ預かってていいよ。だからそんなにくっつかないでくれ』

 日焼けしても尚分かる程に、孝治君は顔を赤くした。でも嫌がってはいなかった。その事があたしに希望を持たせた。もしかしたら孝治君も...

『やたっ!ありがとう孝治君』

 そして今度こそガバッと抱き付いた。まるで夢の様だった。完全に硬直して声を失っている孝治君が面白くて、そして愛しくて、あたしは尚も腕に力を込めた。

『頑張ってね。失敗したっていいんだから。そんな事であたしガッカリしないから。成功するまで何度でも頑張ればいいんだから。孝治君ならきっと出来るよ。大丈夫!』
『あ..ああ。頑張るよ。はは、何かお前にそう言われると、本当に出来そうに思えてきたよ』

 ようやく立ち直った孝治君はそう言った。あたしは繰り返し心の中で唱えていた。
 がんばれがんばれコージ、がんばれがんばれコージ。
 市街地を外れ、畑道を突っ切り、雑木林を潜り、薄暗い森に突入しながらも、あたしは呪文の様にそうつぶやき続けた。
 やがて、欝蒼とした木立の先が明るくなってくる。そこが目的の場所だった。
 薄暗かったトンネルを一気に突き抜ける。そして、そこにはたっくさんのお日さまに溢れた広い広い草っ原が広がっていた。街から少し離れた所にあって、暗い森に阻まれた滅多に人の訪れない秘密の遊び場。孝治くんのロケットを打ち上げるのに、これ以上の場所は考えられなかった。

『孝治クーン、どこー?』

 草っ原の真ん中に立ちながら見回す様にして声を張り上げる。来ていない訳は無い。約束したのは今日だから。しかも放課後の下校途中、いきなりそれは告げられた。

『ずっと黙っていたけど、アレ、今日だからな。一旦家に帰ってから、前に遊んだ事のある森奥の草っ原に集合。それとアレも忘れずに』
『ほ、本当?本当に?本当に本当に?分かった!絶対行くから!』

 何で今頃言うのよ!なんて事は当然言わなかった。そんなのは分かってる。もし朝の登校でだったら、きっと一時間目前までには教室中に広まったに違いない。それも自分からベラベラと喋って。口の軽さは校内でも五本の指に入るって事はちゃんと自覚している。
 それだから、そんなあたしだって知ってるからこそ孝治君はそうしてくれた。二人っきりって約束を守ってくれた。
 それに、この場所は彼の家からほど近い。だから、だから来ていない訳が無い。
 あたしはもう一度グルリと見回した。

『.....!!孝治君!』

 居た!さっき見た時は気付かなかった。脅かそうと思って隠れていたんだろうか?
 でもいい、そんなのはいい。ああ、これで一緒に見られるんだ。
 あたしは駆け出していた。

『全くもー!一体何処に隠れていたのよぉ。来てないかと思ったじゃない。でも良かったぁこれでようやく........?孝治クン?』

 それまでこちらを見ていたその姿は、私が近づくと後ろを向いてしまった。荷物を取るのかな?と思ったけどそうじゃなかった。単に後ろ向きになっただけだった。
 驚いて、あたしは思わず足を止めた。彼のそうした姿を見回した。そして気付いた。
 孝治君は何も持ってきていなかった。
 彼の家で見せてくれたもの。それは今、あたしの手に握られているモノ以外は何処にも見つけられなかった。

『...やっぱり来たのかよ...』

 あたしが問う前に、孝治君はそう言った。その言葉は震えていた。
 様子がおかしい事は直ぐに分かった。あたしは逸る気持ちを押さえてゆっくりと話し掛けた。

『な、何かあったの?』

 その声も震えていた。落ち着け落ち着けと自分に思う程、それは難しい事の様に感じられた。
 聞きたかった。彼の口から。分かれてから再び会うまでの僅かな時間。その間に起こった全ての事を。

『別に...何も無いよ...』
『そ、そんな....そんなの嘘よ!だってさっきまであんなに!』
『何でも無えって言ってんだろっ!』

 ショックを受けた。孝治君からそんな言葉を向けられたのは初めてだった。
 ケンカもよくした。ちょっかい出し過ぎて怒られた事もある。けど、そんな時でも、いつもどこかあたしに対して『しょうがねえ奴だなぁ』とお父さんみたいな暖かい気持ちで接してくれていた。
 だけど、目の前に背を向けて立つ孝治君からは、そうした暖かさは全く感じられなかった。まるで同じ姿をした全く別の人が立ってるみたいで、あたしは言葉を失っていた。

『...じゃあな』

 そう言って、そのまま森に入ろうとする孝治君の手にあたしは思わず縋っていた。

『ま、待ってよ!』
『触れるなあ!!』

 ビクッ!
 思わず手を放していた。強い拒否に身体が打ちのめされそうになる。そんなあたしに脇目もふらず、孝治君は歩みを進めていた。
 それでも信じていた。これは一時の気の迷い。きっと今日はイヤな事があっただけ。だから明日になれば、気持ちが落ち着けば、きっといつもの元気な孝治君に戻ってくれている。
 あたしは人工衛星を目の高さまで掲げると、明かるい声を出そうと無理矢理に笑顔を作っていた。

『ほら孝治君、人工衛星だよ。あたし、約束通り持ってきたよ。これがあれば打ち上げ出来るんでしょ?今日が駄目でも、また次の時とか、次が駄目でも、その次の次とか。そうだよね?そうなんでしょ?孝治君!』

 孝治君は歩みを止めると、そのままの姿勢で立ち尽くした。その両手は拳へと握られたままだった。心なしか肩が震えてる気がして、それが凄く切なくて、あたしは彼に抱き付こうとした。

『もう...僕には構わないでくれ』

 ささやかな一途の望み。それは既に断たれていた事を知った。そして、そのまま森の中へ消えていく孝治君を黙って見送るしか無かった。
 あたしは人工衛星を握り締めながら、一人残された明るい草っ原の中を馬鹿みたいにいつまでも立ち尽くしていた。



◇      ◇      ◇



 まるでいくつもの波の様だった。
 小高い山にも似た波涛の一つ一つが、縦に仕切られた格子の中で踊るかの様に積み重なっていた。
 それは波打ち際の砂模様にも思えた。潮が引き、まるで置き忘れられた様に砂浜に残る幾重もの波跡そのものだった。
 次にはロケットだと思った。何十にも連なり重なった長い長い打ち上げロケット。孝治君の三段ロケットを遥かに凌ぐ大型ロケットだった。
 これだったら、こんなロケットだったなら、もしかして宇宙まで飛ばせただろうか?
 一瞬、真面目にそう考えて、そして直ぐに肩の力が抜けた。天井の木目相手に何やってんのかしらと可笑しくなった。馬鹿みたいだった。
 潮騒が近くに聞こえる。目を少し傾けた。豆電球が灯ったままの室内灯が、白けた様に天井にぽっかりと浮かんでいた。
 部屋の中は、朝の陽光で一杯に満たされていた。
 すっかり忘れていた事。今よりももっと子供だった頃の記憶の一片。思い出す必要の無い、思い出したくもない、あたしの初恋の顛末だった。
 なんでそんな事になったのか、こんな夢を見たのか、よく分からなかった。けど、それらは考えても仕方の無い事だとは気付いていた。
 そんな事よりも、今はこれからやるべき事を考えた方がいい。この先、それは自分の為でもあるのだから。
 大丈夫だと思った。そんな夢見後だけど気分はいい。昨日に比べたら決して悪く無い。
 嬉しくなった。そしてホッとした。大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出してみた。
 うん、オールグリーン。気分は上々!
 両手足をウンと伸ばしながら、久々に取り戻せたいつもの自分と挨拶を交わす。
 それに、今の関心は別の所にあった。こんな思いもかけない夢を見させた張本人。それが誰かという事に。でも、そんなのは当然分かっている。
 あたしは仰向けの姿勢からゴロリと横を向いた。目的のソレは目の前だった。
 タオルケットをまるで蓑虫みたいに器用に巻き付け、僅かに出した頭を枕に埋める様に縮こまっているその姿は、僅かに覗く赤い髪が無ければ...ううん、あったにせよ、何か得体の知れない生き物そのものだ。
 この明るさの中でも微動だにしないその物体を見て、思わず自分の顔がほころぶのが分かった。あたしの中のイジメタロウ君がムクムクと鎌首をもたげてくる。
 おもむろに右足を宙に舞わせた。

「おりゃ!」

 嬉しそうだなと自分で思いながら、狙いドンピシャでおケツのやーらかい所を足指でゲットした。それでも尚動かないソレを見て、益々調子に乗ってくる。
 摘んでいる部分をグニグニこねたり引っぱたり、あげくにブンブン振ったりして反応を見ながら声を掛けた。

「あかりぃ〜、朝だで〜、いい天気だで〜、ほれ早く起きれ起きれ〜〜」
「う.....ううん.....いっ..たあい....シホ..やめてよ〜」

 そう言いながらも僅かに身を捩るだけで起きようとしない。あたしは二次攻撃を敢行する事にした。足を放してムクっと起きると、そのまま上から被い被さる様に全身ガバッと抱き付いてみる。

「こりゃ!」
「んぎゅ...お..おもいよぉ〜..おもいよぉ〜」
「だーから早く起きなさいっての。じゃないと、次は本気で襲っちゃうぞ〜♪」
「お..おきるからぁ...おきるからぁ..」

 あたしは身を起こした。あまりにしつこいのは良く無い。傍らに胡坐をかきながら、蓑虫が起きてくるのをじっと待った。
 起きてきたら、まず何て言おうか...
 昨日の晩の事が思い起こされた。久々に交わした、あたしとあかりとの本音の会話。それによって互いが失ったもの、そして新たに得たもの。
 未だ、わだかまりが心の奥底でくすぶっているのを感じながらも、決して以前程では無い事にあたしは安堵していた。それらはもう終わったのだ。この先同じ様な事があったとしても、あたしはいつでも胸を張ってそれを言う事が出来る。
『あかり、ヒロといつまでも仲良くね』
 別れでは無い、それは新たな出会いの言葉。ありきたりだけど、いつか訪れる二人の門出に送りたいそんな言葉。それを胸に、あたしはこれからも頑張っていける。
 でも今は、とりあえずこの言葉を送るとしよう。
『あかり、おはよう。今日は目一杯楽しもうね』
 そして、あたしの飛びっ切りの笑顔と共に...

「...し...しほぉ...」

 そんな自分の考えについ浸ってしまい、彼女の言葉に気付かなかった。あたしは慌ててそれに応える。

「な、何?」
「なんか..気持ち悪いみたいなの..は、吐きそう...」
「へ?...なっ!!ちょ、ちょ、ちょっと待って!」

 頭の中が真っ白になった。次には慌てて立ち上がっていた。思いもしなかった展開にアタフタした。洗面器洗面器と思いながらもあたしがイジめたからだと反省しつつそういえば昨日この子飲んでたんじゃないお酒馴れてないなら二日酔いは当然よねあーなんで気付いてあげなかったのあたしの馬鹿馬鹿馬鹿と思い切り考えが加速していった。

「バタバタとどうしたの?ここ、開けるよ?」

 同時にガララと音がして誰か顔を覗かせた。やた、助っ人だ!あたしは思いきり振り向くと、そいつに向かって突進していった。

「あ、あの、朝食が出来たみたいだから呼びに...」

 そう言いながら硬直した様に突っ立っているその姿は..雅史!
 その両肩をガシッと掴むと、あたしは前後にブンブン振りながら言った。

「せっせっ洗面器洗面器!」
「な、なに?志保どうしたの?いいからおちついて」
「あかりが!気持ち悪いって、吐きそうだってあたしのせいで、あたしがふざけたから、だから早く!」
「志保いいから落ち着いて!よく分かったから。ちょっと待って」

 そう言うと素早く洗面所に駆け込み、やがて風呂桶と真新しい絞ったタオルを持ってきた。そうか!ここ内湯があったんだ。そんな事すらすっかり忘れていた自分がひたすら情けなくなる。

「それでしばらく様子を見てて。僕は浩之を呼んでくる。多分二日酔いだと思うから、その時に冷たいお水なんかも持ってくるよ」
「うん、お願いね!」

 素早くそれらを受け取ると、あかりに向かいながらも背中越しにそんな返事を投げかける。そして内心はホッとしていた。自分が慌ててまくしたてても、彼にはちゃんと伝わっていた。そして期待以上の働きをしてくれた。
 洗面器を彼女の口許にあてがいながら、その背中をゆっくりとさすりつつ様子を呼びかける。そうした中、さっきよりかなり落ち着いた行動が出来ている自分をはっきりと感じていた。それは雅史の落ち着きがあればこそだった。
 やっぱり、あたしじゃ役不足なのかなぁ。
 それまで考えていた言葉の数々がまるで偉そうに感じられて、あたしは思いきり恥ずかしくなっていた。



◇      ◇      ◇



「あっはっはっは。それでオメーは部屋の中を意味も無く駆け回ってたって訳か?ナーニやってんだか全くよお。なっさけ無えなあオイ」
「うっさいわねえ。全然思いもしない事だったから一寸慌てただけじゃない。あんたの方こそ『あかり、あかり、大丈夫か?』なんて後ろでオロオロしてただけじゃないのよ。結局あたしと雅史に全部やらせてさ」
「志保、それは言い過ぎだよ。もし浩之が自ら介抱した方がいいと思ったならそうしている筈だろう?それだけ安心して任せてくれたって事じゃないのかな」
「くぅー、お前って奴ぁ相変わらず優しいねえ。ま、その通りさね。本当、お前らには感謝してるんだぜ、いやマジでさ」

 まったく調子のいい奴。ヒロの横顔を見ながら、あたしは心の中で悪態をついた。
 その横には、あかりが身体を預けるかの様にヒロの腕を掴んでトボトボとくっついていた。細かいピンクと白の横ストライプ地を基調としたワンピース水着に白いカーディガンを羽織り、ビーチサンダルに麦わら帽子というその姿は夏の彼女にピッタリだった。けど、さすがに病み上がりで顔色は少し青白く、何処となく霞んでいる様にも感じられる。
 そういうあたしはツーピースの身体にフィットした幅広なスポーツ水着を着込んでいた。まるで夏のスキーウェアかと思わせるその派手なデザインは色気という点で劣るものの、こと泳ぎに関しては機能的だった。今日は思いきり身体を動かしたかったし、いつものメンバーにあっては色気を振りまいても仕方が無い。
 雅史はビーチパーカーと紺ベースにサイドラインの入ったオーソドックスな海パン姿という性格そのものの真面目スタイル。かたやヒロは...珊瑚礁と椰子の木を原色で表現したかの様なド派手なアロハパンツにアロハシャツ。ジャギーの麦わら帽に丸目の伊達なサングラスを鼻にひっかけ、クーラー引っ提げビーチシートにビーチパラソルその他諸々引っ抱えて、仕上げにワイアードアームズを心持ち控え目に鳴らしたラジカセ逆手のヨタ歩きとくれば、端からはどう贔屓目に見てもイカレポンチな姿そのものだ。
『折角来たんだ。今日は目一杯楽しまなきゃな』なんて本人は言ってたけど、何をどう楽しむんだか分かったもんじゃない。正直、あかりが居なかったら速攻で他人のフリをしたに違いなかった。

「本当、ごめんね。私のせいで皆に迷惑かけちゃって」

 ヒロの腕につかまりながらも、健気にそんな事を言うあかり。本当ならまだ宿でゆっくりしていたいだろうに、気分が少し良くなった所で最初に出た言葉が『さ、早く海に行こ?』だった。当然あたしを含めて全員が反対したけど『どうしても行く!』と自分の我が侭みたいにしてまでこちらに気を遣ってくれる姿を見ているうち次第にこちらも及び腰になって、最後は雅史の『じゃあ行くという事にして、十分休んでからにしようよ』という提案に全員が乗る形となった。
 見上げれば太陽はすっかり天頂近くに在り、焼け付くアスファルトの先には陽炎が立ち煙っている。時折脇を通り過ぎる車が無ければ、私たちだけがこの場に取り残されたかの様な景観だった。

「誰もあんたが悪いなんて思って無いわよ。こういうのは諸悪の根源ってのをまず考えなきゃね。あんたにお酒を飲ませた人がやっぱ一番問題よね〜」
「てえ事はオレか?オレなのか?こういう問題は何でもオレか?」
「あったり前じゃないの。大体において自分の片割れが飲めるか飲めないか位知ってるのが普通でしょ?それを面白がってパカパカ勧めてさ。今回はお調子が過ぎたんじゃない?」
「それを言うならオメーだってそうじゃねえか。『あかりすごーい!じゃあもう一杯行ってみよ〜』ってのしっかり覚えてるぞ」
「そ、それはその一杯だけじゃない。その後のお酒はみーんなアンタが勧めたのよ?」
「一杯も十杯も勧めたには変わりねーだろうが!くだらねー事言ってんじゃねーぞ!」
「どっちがくだらない事なのよ!」

 一触即発になりそうな所に出てきてくれたのはやっぱり雅史だった。

「二人ともその位にしなよ。少なくともこんな所でする話題じゃ無いだろ?それよりも浩之さ、これから向かう二ツ亀海水浴場の事を話してよ。とてもいい所だって聞いてるけど」
「あ、私も聞きた〜い。浩之ちゃん教えて?」
「お、おう。その海水浴場だけどよ。まあ一目見たら驚くと思うけど、こんな綺麗な海があるのか?って思う程スゲー所でな...」

 雅史の提案に飛び付くかの様にヒロが説明を始めたのを見て、あたしは内心ホッとした。分かってはいるけどついつい挑発してしまう、そして自分もそれに乗ってしまう。そして誰かがストッパーになってくれると分かっているから、喧嘩ギリギリまで盛り上がってしまっている。
 甘えてるなと正直思った。そして、こうした空気を心地良いと感じているのも事実だった。
 しばらく...ううん、ずっとこのままでいいのかもしれない。少なくとも、今のあたしはそれを望んでいる。
 尚も雄弁なヒロを見ながら、そんな事を考えた。

「..という訳でな...おお諸君!あれに見えるが二ツ亀海水浴場である。皆の者、控えおろ〜!」
「なーに言ってんだかアンタってば...って、あら、へえ、へええ〜、あれがそうなの?結構凄いんじゃない?」

 あたしは走りだしていた。そして、その景観が一望出来る場所に真っ先にたどり着く。
 エメラルドグリーンの宝石を思わせる様な海面の輝き。そうした中に広がる深い紺色が見事なまでに調和して、まるで南洋のリーフバレーを見ているかの様だった。さらには入り海となっているせいか波が殆ど立っておらず、風の無い湖面の様な静かな表情に加えて、ここに居ながらでも海の底が見通せる程の透明度だ。
 壮観で神秘的。そんな形容がまさにピッタリだった。神の領域というものが存在するのなら、これもその一つなのかもしれない。
 あたしは声を出すのも忘れ、思いもしなかったその景観を眺め続けていた。

「わぁーーすっごーーい。海が綺麗ーー!」
「うん、本当凄いね。想像した以上だよこれは。泳ぐというより眺める所って感じだね」

 追い付いてきたあかりと雅史からそんな言葉が漏れた。その通りだとあたしも思った。

「どうだ!驚いただろー。海も凄えけど、そこの突き出た島の形も面白いだろ?」
「浩之ちゃんあれだよね?本当だぁ。亀さんが二匹並んでいる様に見えるー」
「だから二ツ亀。単純明快だよな。何はさておき、佐渡の北端にあってこんなスゲー海水浴場に巡り合える何てえのは、はっ!お釈迦様でも気がつくめぇ〜〜〜〜〜ってか?」

 ポーズも含めたヒロの場違いなカブキ姿に、その場の全員が笑いに包まれた。そして、これはヒロのお手柄だとも感じていた。そうでなければ、こんなにも凄い場所を知る機会すら無かったかもしれない。
 誰からともなく『早く行こう!』という事になり、あたしたちは浜までの道を下っていった。昼近い事もあって人の姿は多かったけれど、どこかの芋洗いな海水浴場からすれば貸し切りと言ってもいい程だ。
 白い砂浜に降り立ち、あたしは再び駆け出していた。上から見た通り、湖を思わせるかの様に波が無かった。何も考えず一気にザブンと飛び込んでみる。強い日差しで火照った身体に水の冷たさが心地良い。冷たすぎず、温かすぎず、そしてどこまでも見通せる程に水が綺麗だった。
 嬉しくて、あたしはバッと沖まで泳ぎだそうとした。と、一瞬我に返って後ろを振り向いてみる。
 少し離れた砂浜の上には、ヒロを中心として三人が笑顔を浮かべながらこちらを見ていた。
 さすがにバツが悪くなって、あたしは砂浜に引き返した。

「ゴッメーン。待ちきれなくってさあ」
「はっはっは。お前さんの性格じゃあそんなもんだろうて」
「ちょっとー。どういう意味よそれー」
「言葉通りって奴でね。まあ、いいんじゃねえか?ほんじゃま、ここをベースキャンプにすんぞー」

 言うが早いかヒロは荷物をパパッっと放り出すと、手際良くビーチパラソルを立て始めた。それが終わるとビーチシートを引き、手際良く四隅を砂地にアンカーで固定する。そしてあかりをパラソルの下に手引いて座らせると、クーラーからジュースを取り出してスッと彼女に手渡した。

「あ、ありがとう浩之ちゃん」

 言うと同時にカコッと開けるとコクコク飲みだすあかり。ツーカーと言うか、あ・うんと言うか、これが恋人同士の呼吸かと歯噛みする思いがした。

「じゃあ志保と雅史は行ってこいよ。オレはもう少しこいつの面倒見てるからよ」

 ドカッっと腰を落ち着けながらそんな事を言う。意外な気遣いに驚いて思わず言い返そうとした所へ、あかりが先に割り込んだ。

「えー、お留守番なら私一人でも出来るよー。浩之ちゃんも皆と一緒に行ってきなよ」
「バーカ。女の子一人こんな所に置いておけるかよ。それじゃなくたって海には狼が多いんだ。あっという間に食われっちまうぞ」

 ヒロらしい物の言い方に、あたしは笑って割り込んだ。

「そーゆーあんただって狼じゃない。二人っきりになったからっていきなり変な事したら駄目なんだからね〜」
「アホ!こんな見通しのいい所で何が出来るってんだよ。大きく湾曲した入り江になってるんだからどっから見ても一発で分かっちまうじゃねえか。なあ?あかり」

 いきなり振られたあかりは「え?え?」っとキョロキョロすると、次には真っ赤になってうつむいてしまった。ヒロとの付き合いが長い割りには、こうした所は全然変わらない。
 そんな様子にやれやれと思いながらも、あたしはその好意に甘える事にした。確かにこの場所は見通しが良く、何処で遊んでいても目に入りそうだった。これなら適当に注意していれば、何かあっても直ぐに集合出来そうだ。

「オッケィ。じゃあ1時位に再びここに集合ってのでどう?あたし昼食買ってきてあげる。二人とも何が食べたい?」
「焼きソバ。濃いソース味で具が沢山入ってるやつ。それか出来れば五目焼きそばがいいな。具沢山は当然として油ギットギトのやつな。当然どちらも大盛り」
「う...わ、私は消化の良さそうなものなら何でも...」

 ヒロの言葉であかりがさらに青くなった。全く、この男のデリカシーは一体どうなっているんだろう。
 「へいへい」と両方の手のひらを上に広げてあきれたポーズを取ると、背を向けてその場を離れようとした。

「ああ、志保ちょっと」
「?何よヒロ」

 見るとサングラス越しにジッとこちらを見上げている。僅かな沈黙。再度問い掛けようとした時、いつもの調子で言葉が返ってきた。

「焼きソバ、絶対忘れんなよ」
「あんたねえ!ったく、心配無いわよ。あかりのはそれ以外でちゃんと買ってきてあげるから」
「へっ、その様子なら大丈夫だな。安心した。ああ、それとな..」
「何よ!まだ何かあるの?」
「大した事じゃねえけどよ、まあ、なんだ、さっきは悪かったな。少し言い過ぎたみてえだ」
「....」

 あーあ、全くねぇ。
 あたしは後ろ手を上げながら「こっちもね」と応える。そして離れながら思っていた。
 いっつもこの調子だった。どんなに腹が立っても、ひっ叩こうかと思う時があっても、こうした一言で全てを許してしまっている。
 かなわないなぁと思った。そして、不公平だとも感じていた。こうした気持ちは自分の意志でどうなるものでもないし、その度に自分の中の女を強く意識してしまっている。

 ふと真横を見ると、いつのまにか雅史がピッタリ付いてきている。思い立って、急に足を止めてみる。すると彼も止める。あたしは顔を見上げて言った。

「何で付いてくるの?」
「送り狼」

 ガクッ!
 ギャグともつかないその一言に一瞬腰砕けとなる。かく言う雅史はあたしのそんな姿を見ながらも、ホヤーっとした笑顔でつっ立ったままだ。本当、この男も相変わらずよく分からない。

「ったく、あんたが狼になってどうすんのよ」
「冗談だよ。狼に対抗するなら狼の方がいいと思っただけだし、志保へは人畜無害だから」

 いつもの天然君ぶりは健在の様だ。あたしは軽い脱力感を感じながら言った。

「はあ、あんたも相変わらずよねえ。まあいいけどね。それなら一緒に遊ぶ?」
「僕は元々そのつもりだよ」
「いいわ。それじゃあね、あの遊泳境界線に浮いてるオレンジのブイまで競争!」

 言うと同時にバッと走ってバシャバシャと海に飛び込んだ。後ろから「志保待ってよ。パーカー置いてくるからさ」と雅史の声が聞こえてくる。構わずそのままザブザブと一気に深みまで進むと、フワッっと身体を浮かせてそのまま一直線にブイを目指した。競争なんだから当然クロールだ。波の殆ど無い、まるで塩辛い湖を思わせるその中を、あたしはただ目標に到達する事だけを考えて一直線に突き進む。
 やがて、下半分が海藻に被われたオレンジ色の浮遊物が大きく視覚に入ってきた。やた!いっちば〜ん。
 触れようとしたその瞬間、脇からスッと現われたかと思うと獲物を横取りするかの様にブイに抱き付く姿が見えた。すかさずあたしもその上から抱き付くと、海面から顔を出して怒鳴りつけた。

「ちょっとー!何横取りしてんのよー!」
「はあ、はあ、志保ずるいよー。いきなり競争なんて言うんだもん。焦っちゃったよ」
「にしても少しは加減しなさいよ!アンタの方が早いのなんて分かっている事じゃないのよ!」
「真剣にやらないと志保いつも怒るじゃない。それとも花を持たせた方が良かった?」

 あけすけにそう言われると、さすがに「当然じゃない」とは返せない。あたしは話を逸らす事にした。

「上に着ていたのはどうしたの?」
「え?ああ、砂浜にそのまま置いてきちゃった」
「結構アンタも後先考えないのねぇ。しょーが無い、それじゃ取りに戻りましょ」

 言いつつ砂浜に目を向けると、雅史のパーカーを振っている姿が目に入った。誰?と思ったらヒロだった。成る程、確かにあそこはいい場所だわ。

「無事回収されたみたいだね。助かった...」

 ホッとした様にそんな事を言う様子からして、結構疲れているのかもしれない。相変わらず真面目なんだからと思わずその顔を覗き込む。先程まで荒かった息はかなり整ってきている様だ。
 その時、相変わらず雅史の身体を抱き包む様にしている自分に気付いて、思わず身を離していた。温かかった体温から一気に冷たい水の感触に変わり、身体が一瞬ブルッっと震える。
 見ると雅史は心配そうな顔をしている。あたしがそのまま泳ぎだしちゃうと思っているのだろうか。正直、こうした表情は可愛いなと思ってしまう。

「そんな顔しないの。大丈夫よ、何処にも行かないから。だからもう少し休んでいて。あたしはあんたの近くを回っているからね」

 そう言って返事が返ってくる前に、あたしはザバッと潜って行った。ゴボガボと泡の音が聞こえ、次第に圧迫感を伴なったキーンという音に変わっていく。自分の身長程は潜った所で、ゆっくりと周りを見回してみた。
 そこは広大で、それでいてとても静かで優しくて、どこまでも澄み切っている大海原の中だった。白い砂地に所々昆布の様な海草が生い茂り、点在する小山の様な岩場には様々な生き物がへばり付く様に生息しているのが分かる。美しいだじゃなく、豊かな海でもあるんだと思った。
 そうした海底をずっと遠くまで追ってみる。淡いマリンブルーの空間がどこまでもどこまでも続いているそんな景観を眺めていると、そうした果てまでも自由に泳いで行けそうに思えてくる。
 ツイと目の前を赤い魚が通過した。そして少し離れた所まで行くと、鰭をユラユラさせながら振り向く様に水中に止まっている。よく観察するとその身体は赤いだけではなく、鮮やかなブルーの丸紋がいくつにも並んでいる姿だった。
 こちらから近付いてみる。ツイと逃げる。近付く。逃げる。
 逃げないでよ。いいじゃない。ちょっと位遊ぼうよ。
 あんたはどっから来たの?何処に住んでいるの?なんて名前なの?...喋れる訳無いか。でもいいわね、こんな綺麗な海に住めて。水の中をどこまでもどこまでも自由に泳いで行けて。あたしはダメだわ。だって、あなたみたいに水中では呼吸が出来ないもの。だからもう直ぐ海面に出ないといけないの。すっかり見慣れた、あたしが生息出来るその場所に.....
 離れた所で尚も様子を伺っている赤い魚に別れを告げながら、あたしは海面を目指していった。あの魚が水面から出られたなら、陸地に上がれたなら、一体どんな事を思うのだろうか。単に蒸し暑いだけ。早く自分の住み処に帰りたい。そんな事を思うのかな。

 ザバァと上に顔を出す。呼吸を整え、次にはキョロキョロと雅史を捜した。でも、目に入ってきたのはプカプカ浮かんでいるオレンジ色のブイそれだけ。
 何処に行っちゃったんだろう?休んでてって言ったのに。
 広い海の中に置き去りにされたみたいで、なんだか少し寂しくなった。居たら居たでうっとうしいと思う事もあるけれど、こうして遊ぶ時はやっぱり居た方が楽しいし、嬉しいと思う。

 嬉しい?

 不思議な気持ち。大勢でワイワイ遊ぶのとは違う、一人相手の特別な感覚。それはあたしが既に知っている切ない気持ち。
 でも、そう感じた相手はこれまでたった二人だけ。
 雅史が...?本当?本当に?本当にそうなんだろうか?
 そう考えて直に訂正した。違うわよね。だって、そうした相手はみんなあたしの方から近づいていったんだもの。

「志保。こっちこっち」

 後ろから声が聞こえて思わず振り向いた。そこには雅史が立ち泳ぎをしながら、ニコニコとあたしを見つめている。
 驚くよりも先に声が出た。

「な!いつからそこに居たのよ!」
「ついさっきだよ。潜ってたんだ」
「潜ってたぁ〜?だってザバッって音も何も聞こえなかったわよ?」
「うん、脅かそうと思ってね。だから静かに出てきたんだ」

 はぁ...疲れる。
 そのままバシャッと海面に顔を漬ける。こうしたテンポ、ペース、よく分からない性格、そしていつも変らぬ天然さ。正直、今のあたしに付いていく自信は無い。それは向こうも同じだと思うんだけど。
 一体、あたしの何がいいんだろう?

「何やってんの?まさか水の中で目を開ける練習とかじゃないよね?」
「な訳無いでしょう!あんたこそワザと言ってるんじゃないでしょうね!?」

 止めた!馬鹿馬鹿しくなった!
 大体雅史がそうした相手である筈が無い。向こうから勝手に告白してきて、勝手に付きまとって、勝手にこっちのリズムを崩して、いつも人を引っ張り回して。
 こんな事をウジウジと考える為に、あたしはここに来たんじゃないんだから。
 ビッと指を差して、あたしは雅史にハッキリと告げた。

「一緒に遊びたいなら、今からあたしの言う事には何でもハイハイと従う事。それが嫌なら別行動。どっちでも好きな方選びなさい」
「ど、どうしたの?志保いきなり。そんな事、急に言われても分からないよ」
「答えられないなら別行動!どうする?」

 甘い顔してなるものか!あたしは睨み付ける様に雅史の目を見つめた。
 しばらく驚いていた。けど、次第にその表情は和らいで、やがていつもの落ち着いた表情に戻っていく。何を考えたのかは知らないけれど、その答えは予想通りだった。

「分かった、従うよ。この旅行中でいいんでしょ?」
「ええ。それじゃあ早速だけど、あたしを楽しませて。退屈なのはイヤよ。それとアンタの疲れる受け答えもね。期待しているからね」

 意地が悪いと思ったけれど、ここまで腹を括ったからには徹底的に意思を貫くつもりだった。その結果によっては、去年交わした雅史との約束への答えになると思うから。
 どうするのかと見ていると、やがてニコッと笑いながら指を下に向けて言った。

「もう一度潜ろうよ。いいもの見せてあげるから」
「いいもの?さっき赤い身体に青い紋の入った魚なら見たわよ?」
「それよりももっといいものさ。志保はさっきの所で待っててよ」
「水の中でぇ?いやよ。そんなに長く潜っていられないもの」
「時間はかからないよ。それもたった一度っきり。ね?」

 仕方ない。あたしは渋々了解した。「じゃあ行くよ」と言い残すと、雅史はそのまま水面下に姿を消していく。それを見送りながら十分に呼吸を整えると、あたしも再び潜っていった。
 先程と何も変わらない静かで奇麗な海の中、再びキーンとした音が耳底に響いてくる。赤い魚の姿は既に無く、その下にはさらに深く潜って行く雅史の姿が目に入った。わずかに泡沫を残しながら、その足は軽快に動いている。
 底の方まで潜るつもりなの?軽く5メートルはあると思うけど。それに見せたいものって何だろう。貝とか拾ってくるのかな。だったらあたしが潜っている必要なんて無いじゃない。
 色々考えているうちに、雅史はこちらを目指して浮上してきた。両手を胸元におしいだく様な格好でゆっくりゆっくり近づいてくる。
 何をしているの?もっと早く上がってきなさいよ。
 そろそろ息が苦しく感じる頃になって、ようやく近くまで浮いてくる。そして丸く握った両手をあたしの目の前に差し出すと、ゆっくりとそれを開いていった。
 何かが居る。何だろう?変なものじゃないでしょうね?
 気味の悪さよりも興味の方が勝り、あたしはゆっくりとその中を覗き込む。そして見た生き物は身体が透ける様でいて、まるでネオンサインみたいな線の光が身体全体に添う様に流れていた。ビックリして思わず顔を上げる。
 何?何なのこれ?
 雅史の顔をジッと見つめると『大丈夫だよ』と言いたげな笑顔を向けてくる。あたしはもう一度覗き込んでみた。
 キラキラと流れる様に輝く光。半透明でいて、少し桜色を伴ったその姿。そしていくつもの足と長い二本の鋏。見慣れた尻尾。
 それは奇麗な海老の姿だった。掌にすっぽりと収まってしまう程の小さな小さな可愛らしい海老。ネオンサインみたいなそれは、身体に生える便蒙の様なものが光に反射して輝いていたんだと分かった。この海と同じく、美しくて不思議で神秘的。そしてそれは、雅史の手の中で飼い馴らされた様に大人しくなっている。
 あたしも掌に包んでみたいと思った。雅史の包んだ両手を指差して、次に自分を指差しながら、同じ様に両手で包む仕草をする。
 雅史はうんうんと頷くと、両手の包みはそのままで器用にあたしを指差しながら、次にはそれを上に向けた。まずは海面に上がれという事らしい。
 うんうんと返すと、雅史は今度は自分を指差して、次にはそれを下に向けた。海老を海底に返してくるという事らしい。指でOKマークを返し、あたしは海面に浮上していった。
 ザバッと海面に顔を出し、一呼吸整えた。立ち泳ぎをしながら雅史を待つ。やがて真正面からザバアと飛び出る様に上がってきたかと思うと、大きく息をしながらあたしに笑顔を見せた。

「お疲れ。それにしてもよく見つけたわねあんな奇麗な海老。この辺りに沢山居るの?」
「うん、海底の海草が生えるその根元に結構ね。ゆっくりと海老の後ろに手を添えてから前の方で脅かすと手の中に飛び込んでくるから簡単に捕まるんだ。何て名前かは知らないけど、以前家族で行ったグアムの海に居たのと似ている感じがするよ」
「ふーん、そういえばあんたスキューバーとかシュノーケリングは結構得意なのよね。やっぱりそうした海での成果なの?」
「うん、インストラクター以外にも姉さんが得意だったからよく教えて貰ったんだ。子供が出来る前は特訓とか言ってね。おかげで長時間の素潜りもそこそこ出来る様になったよ。6、7メートル位なら何とかなるかな?」

 成る程ね。一回の素潜りでそうした生き物を発見出来るのも、そうした能力があればこそか。
 とてもそこまでは潜れないあたしにとって、それは羨ましいと言うより他に無かった。

「じゃあ、また海老見せてよ。そして今度はあたしに包ませて」
「うん、それもいいけど、よければ自ら潜って直接見てみない?素潜りの方法、僕で良ければ教えてあげるよ」

 な!またこうした自分のペースに持ち込もうとするのかこの男は!さっきあたしの言う事には何でもハイハイ従うって言ったじゃないのよ!
 そんな表情から察したのか、雅史が先に口を開いた。

「志保なら素質があると思うよ。僕なんかよりもずっと早く覚えられると思うんだ。それにここ、あまり深く無いから大丈夫だよ。せいぜい4、5メートルって所だし」
「イヤよ!あたしはそんな事したく無い!いいから言った通りにしなさいよ。それが出来ないならさっさとここから居なくなって!」

 日頃からの雅史への鬱憤が溜っていたのかもしれない。それは自分でも驚く程強い口調だった。そしてそれを証明するかの様に、明らかに困った顔をしている雅史に対していい気味と思っている自分がいた。
 もっと困ればいい。少しは狼狽えてみなさいよ。素直に泣きを入れれば許してあげない事もないんだからね。
 そんなあたしのドロドロした思惑を感じたのか、雅史はスッとあたしの両肘を掴んできた。
 いきなりのそうした行動に、逆にあたしの方が狼狽えた。

「何すんのよ!離してよ!」
「いいから志保、一寸落ち着いて」

 身を捩って尚も言い返そうとしたあたしに対して、思った以上に強い力でグイと正面を向かされると、意思の強い目をあたしにジッと向けながら物静かな口ぶりで語りかけてきた。

「志保。志保はさっき『あたしを楽しませて』って僕に言ったよね?だったら今だけでも僕の言う事を信じてみてよ。絶対楽しいから。自分の目で直接見られる場所が広がるって、それだけでも感動的だから。確かに練習は必要だけど、志保なら本当、直に覚えられると思うんだ。僕が保証する。だからやってみようよ」

 真っ直ぐにあたしを見つめるその目は、一点の曇りすら感じさせなかった。まるで雅史の気持ちがそのままこちらに流れ込んでくるかの様だった。そして、そうされているうちにあたしは何故かこの海の事を思っていた。
 広大で、それでいて静かで優しくて、様々な生き物を沢山抱えている豊かで奇麗な海。そしてそうした中に今、自分が包まれているという事実。
 次第に自分の気持ちが落ち着いてくるのが分かる。それは自分一人では成し得ない不思議な感覚だった。そして、あたしはそれを以前から知っていた。
 この旅行中にだけ叶えられるあたしからの約束事。それなら彼の方だって、それを叶える為の願い事は必要なのかもしれない。

「....分かったわ。あんたの提案に乗ってあげるわよ。その代わり、そこまで言ったからには男としての責任は果たしなさいよ?いい?」
「任せてよ。本当大丈夫だから。それに僕、これまでそうした嘘言った事なんて無かったよね?」
「そんな事いちいちあたしに確認しないの!」

 確かにね。
 口では別の事を言いながらも、心の中ではそう返事をする。
 だから信じていいのかもしれない。少なくともこの旅行の間は、自分の中にもっと素直な気持ちを持っていたい。
 我が儘じゃない、相手の気持ちをそのままに受け止められる、そして自らも望んでいるそんな心の中へ。
 少しは笑顔を取り戻せたあたしの手を雅史は優しく掴むと、自信に溢れた目と優しい笑顔を共に力強く頷いてみせた。

 あたしへの魔法使い....

 頭の中に、そうした言葉がふと浮かんでくる。
 そんな雅史の手引きに従って、あたしは再び豊かな海へと潜っていった。


「あたしはあたし −最終章(前半)−」 へ続く.....


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