2025.09.12-09.15
9.12
「柄谷行人『力と交換様式』を読む」(文春新書)。他の本を探していて偶然見つけた。読み易そうだし、この人は以前から気になっていたので買ってみた。本人の講演記録と対談記録と識者達による読後記録から成る。
マルセル・モース、トマス・ホッブス、カール・マルクス。それぞれ交換様式A(贈与と返礼、家族や隣人や共同体)、B(服従(税他)と保護、国家)、C(貨幣と商品、資本主義)をベースに社会を考えた。これらを踏まえた上で、交換様式Dを想定する。ただ具体的なイメージはない。協同組合やアーミッシュ社会のような感じ。。。交換様式D は交換様式A の高次な(BとCを克服した)回復としてやってくる。それを目指すことは重要だが、人為的に想定したり設計したりすることはできない。。。
「霊の力を斥けることが、ただちに科学的な態度だということにはならない。まして、その他の領域で、力の問題を扱うにあたって霊の力を斥けることは、それが科学的であることを保証するものではない。むしろ、その逆である。科学的な態度とは、たんに霊を斥けるのではなく、霊としてみられるほかないような『力』の存在を承認した上で、その謎を解明することである。」まあ、研究者の視点から見ればそういうことになるだろう。さて、交換様式が生み出す「力」とは何か?どんな力をどういうメカニズムで生み出すのか?
9.13
(マルクス・エンゲルス)「史的唯物論」生産力(人間vs自然)と生産関係(人間vs人間)が下部構造を成し、上部構造を規定する。しかし、以下の反論が現れた。
・(マックス・ウェーバー)資本主義の成立にはプロテスタンティズムが欠かせなかった。
・(エミール・デュルケーム)社会的事実or集合表象(個人の心理を越えたもの)が力を持つ。
・(ジグムント・フロイト)経済的動機だけではなく、社会構造を反映する無意識の心理が力を持つ。
・(ミシェル・フーコー)上部構造としての国家が持つ力は下層の別の次元に起源がある。
これらの反論が否定できなかったので、下部構造支配という仮定は信じられなくなり、共産主義革命への希望が失われた。また、実際に破綻した。
しかし、下部構造というのは生産力と生産関係だけなのか?むしろ、より根源的な下部構造というのは交換様式であり、その観点から見直せばやはり下部構造が上部構造を規定しているのではないか?
マルクスの思想は、初期マルクス(疎外論)→吉本隆明、エンゲルスの影響を受けた後期マルクス(史的唯物論)→広松渉、「資本論」を書き始めた頃の交換様式論→宇野弘蔵、と大きく変遷している。
宇野弘蔵は資本論の本質を史的唯物論(イデオロギー)ではなく商品化論(科学)として、これらを峻別した。本来商品とはなりえない労働力を商品として成立している資本主義はそのこと自身による危機に見舞われるというのが「資本論」の筋書きである。産業資本主義や労働価値説(これらは古典派経済学者に帰される)ではなく、商業資本主義や利潤説という側面が重要である。物が商品化され、人が商品化されるところから始まり、やがて資本が商品化されるところで終わる。
アダム・スミスは貨幣を幻想として片付けて、労働こそが価値の源泉であると主張したのであるが、マルクスはそれをそのまま引き継いだのではなくて、なぜ貨幣が幻想としての価値を持つのかについて考えた。そして、それを貨幣と商品の「交換様式」に見出した。交換は共同体の境界において行われるので、不気味な他者との接触に由来する観念的な価値(力)をもたらす。貨幣に付着した力。人々は貨幣を増やすことに熱中する。フェティシズムという言葉はポルトガル人がアフリカ人達が西洋由来のガラクタを金と交換するのを見て、ガラクタを追い求めるという意味で使ったのであるが、他方で、金を求めてアフリカまでやってくる自分たちがフェティッシュであることには気づかなかった。
1848年、「共産党宣言」、ヨーロッパ各地で革命的運動が起きたが、革命には至らず収束した。エンゲルスもマルクスもこれらの革命的運動は階級闘争ではなかったことに気づいた。古くからの宗教運動や農民運動の延長だった。エンゲルスは千年王国、原始キリスト教の研究に向かい、それをカウツキーが引き継いだ。
晩年のマルクスは人間と人間の交通だけでなく人間と自然の交通を交換様式Cが支配することによる自然破壊について研究している。生産力の発展だけに目を向けていると自然や人間の破壊が進行していることに気づかない。
文明の中心ー文明の周辺ー文明の亜周辺。文明の周辺地域は文明の中心の影響に支配されるが、亜周辺地域は適当に形式だけを受け入れて地方性を残す。東アジアでは、中国が中心であり、朝鮮半島とベトナムが周辺で、日本は亜周辺であった。中国王朝の文官主義を李朝は中国以上に純化させた結果、自ら武力で戦うことを選ばなかった。ベトナムには山岳民族が居て亜周辺性を保持していた。日清戦争で負けた中国は日本に学ぼうとしたが、李朝ではそのような機運が小さかった。
柄谷氏は近代文学を評価しない。ルネッサンス的な文学、二葉亭四迷、漱石、樋口一葉、森鴎外、シェークスピア、セルバンテス、ゴーゴリ、ドストエフスキー、ジョイス、フォークナー、ボルヘス、ガルシア・マルケス、中上健次、カフカ。近代文学は戦争の後に起こる。日本では日清戦争の後。朝鮮半島では国民が自らは戦争に参加しなかったので近代文学も起こらなかった。ハングルを発明したにもかかわらず、それは文官たちに圧殺された。従って第二次大戦後に近代文学が生まれた。
9.15
第3部には5人の識者の意見が収録されていて、最初の大澤真幸がこの著書を見事に判りやすく要約している(僕は読んでいないのでそう感じるというだけであるが)。それを今更ここで書いても仕方ないと思う位であるが、メモなので更に要約しておく。
交換様式からどうして「力」が生じるのか?一番判りやすいのは交換様式 A(贈与と返礼)である。それは人類の定住と共に始まる。それ以前はグループを成していて、その中では平等と自由があった。成員はそれが気に入らなければ自由に出ていくことが出来た(原遊動性)。定住によって社会が複雑化すると、この原遊動性への欲動が抑制される(我慢しなくてはならない)が、その手段として他者への贈与を迫る脅迫観念が芽生える。贈与関係によって心理的に原遊動性の自由を回復する(他者との対等性の回復)。日常的にも、お歳暮とか友人と食事をしたときの支払いの場面などで感じ取ることができるだろう。
この Aにおける互酬性が垂直化する(特定のリーダーとの関係になる)のが交換様式Bであり、その場合には「力」は臣民側での服従の自発性と支配者側での保護の義務意識という風に非対称化している。
交換様式Cにおいては、商品は貨幣に対して自発的に服従し、その代りに貨幣の保護を受ける(交換価値を与えられる)のであるが、これはあくまでも物同士の関係である。しかし、商品や貨幣を扱う人々をその関係に巻き込んでしまって、心理的な力となる。
歴史的には交換様式Cは交換様式Bの助け(国家による貨幣の保証)を借りて実現するが、そもそも人間にとって物と物との交換は信用なくしては成立しないから、交換様式Aが一番基礎にあるともいえる。古代国家(帝国)においては交換様式C(域内の取引)はあくまでも交換様式B(広域支配)を強化するための手段であった。つまり交換様式Cの成立そのものが国家による保護の結果であり、それは商人たちの帝国への服従と対になって、それが交換様式Bである。帝国の皇帝の背後には神が居て、その宗教は世界宗教(一神教)となり、交換様式Bが観念化されているのである。
元々交換様式Aは原遊動性への回帰願望であったが、交換様式BとCが支配的になった社会においては、それらを否定する(反抗する)ことによってしか、原遊動性への回帰が実感されない、という状況が生じる。歴史的には普遍宗教への動機となった。これが交換様式Dの一例である。
ヨーロッパにおいて、交換様式CがBに優越するという状況が生じた。ゲルマン社会には未開性(封建性)が残っていて、帝国の支配が不十分であり、国家が発達していなかったから、都市は独立した共同体として発達した。つまり、十字軍の派遣によって発達した遠隔地との交易が国家に保護されないで自立する都市を生み出した。その後に生まれた絶対王政は都市ブルジョアと結託することで帝国とは異なる交換様式B(交換様式Cに依存する)を作り出した。市民は絶対王政における臣下として養成され、やがて、交換関係Aの回復を目指して王政を転覆し、自らが作り上げた国家による新たな交換関係Bを交換関係Cと結合させて、近代国家を築くことになる。並行して、絶対王政がもたらした宗教改革は勤勉な労働者を生み出すことで、彼らを交換関係Cに巻き込んだ。もう一つの重要な発展はイギリスで起きた新たな新都市(農村と連続的に繋がった都市)であり、商品を購買する消費者が誕生した。こうして、労働力と消費者(市場)が準備されたことで、商業資本主義は産業資本主義へと転化した。
『資本論』の粗筋としては、まず共同体間での物品交換で産まれる商品物神から始まり、貨幣が使われるようになると貨幣物神、貨幣の増殖への欲望から資本物神へと進化し、更に抽象化されて株式資本が誕生する。株式資本は国家と対等であり、国家は労働力の提供の為に教育、市場の提供の為に福祉政策を行う他、戦争を含む種々の外交を行って、株式資本を国家に引き留めようとする。
商業資本は空間的差異(価値の差異)を利用して利潤を得るが、産業資本は時間的差異(投資と回収)による利潤を得る。グローバル化すれば差異の源泉が枯渇していく。
マルクスの晩年、エンゲルスの晩年、エルンスト・ブロッホ、ベンヤミン等が、交換様式Dの可能性について考察を残した。
最後に大澤真幸による柄谷行人の心理分析(想像)がある。私と他者との根源的な関係。他者はその存在だけで霊的な力を発している。それは私の発する言葉が他者に理解されるかどうか判らないという恐怖である。夏目漱石の『道草』の主人公 健三は、見知らぬ「帽子を被らない男」から「お前は何者か?」という問いを感じ取った。オイディプスが予言者に感じ取った不安と同じ。これこそ柄谷行人に『力』という不気味な概念を想定させた「力」ではないだろうか?
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