TBS の1998年のドラマ「聖者の行進」(脚本:野島伸司)を観た。中島みゆきの曲「糸」と「命の別名」が主題歌なので、その背景を知るためである。ただ、簡単にはまとめられないので、逐一記述することになった。明らかにネタバレなので、ご注意!
08.06
U-Next の一ヵ月お試し期間を利用して「聖者の行進」(1998年のTBSドラマ;脚本野島伸司)を観始めた。知的障がい者の世界はどうもぴんと来ないけれども、その辺はよく調べてあるのだろうと、信用するしかない。ぐれた女子高校生(土屋ありす)が出てきて、広末涼子に似てるなあ、と思ったらそうだった。知的障がい者達に音楽(その曲が「聖者の行進」)を教える先生(葉川もも)も見たことのある顔だなあ、と思ったら酒井法子だった。ちょっと頼りない感じ。主人公の町田永遠(とわ)はなかなかの熱演。いしだ壱成という俳優らしい。そういえば、京都での毎朝の通勤のバスではよく知的障がい者と同乗した。施設があるのだろう。永遠(とわ)と同じような感じだったが、会話の感じは判らない。ともあれ、このドラマは苛めと暴力シーンがやたらと多いので、ちょっと敬遠したくなる。視聴率が20%もあったというのは信じがたいが、苦情も結構あったらしい。
08.08
「聖者の行進」は第4話まで観た。内容がちょっときついので連続しては観てられない。親からも見放された知的障がい者達が篤志家の社長(竹上光輔:段田安則)に雇われているのだが、社長は障がい者支援金をネコババしている。それを知る社長の甥の三郎は社長の妻(裕子:水沢アキ)と浮気していて、知的障がい者達に暴力を振るっている。社長は知的障がい者の一人(水間妙子:雛形あきこ)を手籠めにしてしまった。別の知的障がい者の一人は、合奏の練習(これは葉川もも先生がボランティアで教えている)で借りている高校で下着泥棒をしてしまい、捕まって晒し物にされる。主人公の町田永遠(とわ)は、これらのいろいろな事件に巻き込まれて「友達だから」と矢面に立って自らを差し出す。理不尽な暴力にも笑顔で耐えている。イエス・キリストみたいである。
ここまでの主題歌は大分前に発表された曲「糸」である。気のせいか、回を追うごとに主題歌の音量が大きくなってきたように思う。この「糸」で歌われる出会いというのは、永遠(とわ)と市長の娘土屋ありすのことだろうか。ドラマを観て荒れかけた心を癒してくれるような曲である。父親の後妻を母として受け入れられなくてぐれている土屋ありすは携帯電話を落として永遠(とわ)がそれを拾うところから彼と友達になり、更に、自殺するところを身を投げ出した永遠(とわ)に助けられ、信頼しあうようになる。ありすは河原に捨てられた廃バスから学校に通っている。そこで、ありすの好きな曲「星に願いを」を永遠(とわ)はアコーディオンで弾く。
08.09
「聖者の行進」は第5話。土屋ありすは知的障がい者達の楽器練習場所を市長である父に頼んだ。しかし、土屋ありすが永遠(とわ)を家に連れてきて、永遠(とわ)が面白がって日本刀を抜いたことで、追い出される。土屋ありすは父親にも失望して家出する。
高原鈴(りん)の兄である蓮(トランペット担当)は妹に付き添う為に知的障がい者の振りをしていつも一緒だったが、耳で聞いた音楽を黒板に書いてしまったことを切っ掛けにして嘘がバレる。他の知的障がい者達は健常者と一緒には働けないと言い出すが、永遠(とわ)は知的障がい者も健常者も皆友達です、と言って説得した。これもイエス・キリストみたいである。
社長の水間妙子への強姦現場を永遠(とわ)が目撃して助けて、人の良い工場長(間中順治)の処に連れて行き、工場長は社長に改善するように訴えるが、「逆らうと首にする、そうすると医学部に進学している息子はどうなる?」と脅す。ここでは、工場長の息子への「愛」が脅迫材料として利用されている。「愛の不時着」でも、北朝鮮の人達は家族を人質みたいにして支配されていた。
ともあれ、その中で、社長竹上光輔の甥の三郎は、社長の妻に振られて、苛ついて永遠(とわ)に暴力を振るい、工場長が止めようとするが、逆に社長は甥の側について、工場長に無理やり棍棒を渡して殴らせる。まるで昔の軍隊映画みたいである。永遠(とわ)はイエスーキリストみたいに平然と笑顔で暴力を受ける。その時、永遠(とわ)を庇った高原鈴(りん)が顔を殴られてしまう。ここで「命の別名」が歌われる。この状況を見ての絶望と怒りの歌という風に聞こえる。これはシングルバージョンだろう。インパクトが大きすぎて、ちょっと頭に血が上った感じになった。子供の頃読んだ五味川純平の「人間の条件」を思い出した。後に映画も見たような気がする。戦後世代にとっては、こういう軍隊での過酷な苛めが「悪」の基本概念となっていて、だから情動的な反応が起きるのかもしれない。
もうひとつ気づいたこと。ドラマを観ていると知的障がい者とは言え、その心情が判るので、どこが「障害」なんだろう、とも思うのだが、結局は言葉をうまく使えない、ということなんだと気づく。そんなことで、と思うかもしれないが、実際上言葉をうまく使えないと馬鹿にされる、というのは、例えば海外で暮らしてみると実感することがある。「命の別名」の冒頭、「知らない言葉を覚えるたびに僕らは大人に近くなる」というのは、正にそういうことである。では、「けれど最後まで覚えられない言葉もきっとある」というのはどういう意味なんだろう、と長い間疑問だった。言葉は人が人を支配するための道具という一面があり、支配のピラミッドの頂点に何があるのか、結局の処判らない、ということかもしれない。言葉を忘れて人と相対することで「愛」が伝わることも中島みゆきはしばしば歌っている。
近い解釈があったので引用する。『つまり、「心」をまだ失ってはいない(若)者たちは、「大人」ならば誰でもたやすく口にできる、出世や金儲けやマウンティングや媚びるため「だけ」にある「心」とはなんの縁も所縁もない言葉を上手く操ることが「できない」のです。だから、当然、心ある(若)者たちは、孤立していきます―――。』藤井聡、京大の先生らしい。。。YouTube チャンネル「表現者クライテリオン」。
08.10
「聖者の行進」は第6話。棍棒で顔を殴られた高原鈴(りん)は視力を失った。永遠(とわ)は告発できないが、証拠の棍棒を葉川先生に匿名で預け、警察は棍棒の指紋から、その時助けようとした従業員を間違えて犯人として捕らえた。葉川先生は社長にうまく丸め込まれてしまった。蓮は社長をナイフで襲うが甥の竹上三郎にねじ伏せられる。
土屋ありすは新潟に居る実母の母の元へと家出していて、永遠(とわ)を呼び出す。ここでは「糸」が歌われる。「愛」とは永遠に好きになること。実母の形見のロザリオを紛失して永遠(とわ)が探す。他方、土屋ありすは父親から「妻と離婚してありすと親子二人で暮らす」と電話されて動揺するが、思い直して現場に戻る途中、ロザリオを見つけて届けようとした永遠(とわ)が電車にはねられそうになる。と、ここまで。今回の「命の別名」はそれほどきつくなかった。
08.11
「聖者の行進」第7話。土屋ありすは永遠(とわ)を庇って電車に撥ねられた。他方、誰が工場では棍棒を葉川先生の処に持って行ったのかと問い詰めて、知的障がい者達に体罰を加えていた。高原鈴(りん)がレコーダーで吹く「聖者の行進」を聞いて、蓮が名乗り出て、三郎に虐待されることになったが、その時、土屋ありすを看取った永遠(とわ)が帰ってきた。永遠(とわ)は自ら密告を名乗り出た。永遠(とわ)は「犬のように靴を舐めるなら虐待しないで許す」と言われても「私は人間です」と言って、自ら虐待を受ける。この言葉が仲間たちを勇気づけた。「プライド」という言葉を覚えた。
ところで、ここでいくつか伏線があって、一つは土屋ありすが永遠(とわ)と遊んでいた時、偶然永遠(とわ)の背中を見て虐待を疑ったこと、もう一つは葉川先生が公演で浮浪者と思しき人物と出会い、彼がハーモニカを得意とする引退した弁護士宇野だったこと。ということで、合奏の中にその弁護士を加えた。その折に葉川先生は土屋ありすの死に際に頼まれた「永遠(とわ)の背中を見て、永遠(とわ)を助けて!」と言われたことを思い出し、弁護士と共にその背中を見たのである。
今回でも、土屋ありすと永遠(とわ)の愛を描くときに「糸」が使われたが、話の最後には「命の別名」が使われた。今回は絶望的と思えた状況に、虐待の事実が明るみ出そうだという多少の希望が垣間見えたということで、元気を与える曲のように聞えた。この曲はリズム的には元気の出る曲である。後に「地上の星」に繋がるというのも理解できる。
調べてみたら、これは本当にこのような事件があったそうである(水戸事件 1995年 1、2 。そういえば、この年には阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があった。)しかも、刑事裁判では障がい者雇用助成金の横領については有罪となったが、強姦や暴行の大部分については証言者が知的障がいの為に証拠採用にならず、また、知的障がい者雇用の貢献を評価して軽微な判決となっている。民事裁判でやっと原告が勝訴した。
「聖者の行進」第8話。永遠(とわ)は皆を誘って、河原の廃バス(土屋ありすの住処だった)に閉じこもった。そこで水間妙子の悪阻(つわり)が始まる。妊娠であるが、永遠(とわ)には判らない。
葉川先生は親たちに虐待を報告したが、親たちは動かなかった。自分の弱さに絶望する葉川先生への弁護士宇野淳一の言葉:「強くなる必要はない。自分の弱さに向かいそれを大事にすることです。強い(強がる)と自分の痛みに鈍感になり、それは他人の痛みに鈍感になるということです。弱いものが手を取り合い、生きていくことが素晴らしい。」結局、永遠(とわ)の母親だけが立ち上がって、告訴することが決まった。
しかし、先を読んだ社長の竹上光輔は虐待を実行した甥の竹上三郎を蓮に命じて殺させた。虐待の実行犯は社長の教唆を証言することなく死んでしまったのである。死体を埋める蓮。視力を失った妹 鈴(りん)が恐れて泣く。ここでまた「命の別名」。この成り行きはちょっと怖くて心が冷たくなる感じ。そういえば、この歌での中島みゆきの声はおどろおどろしい。蓮は何故社長の甘言を信じたのだろうか?蓮にとって妹の鈴(りん)が全てであり、鈴(りん)の居場所はこの工場しかなくて、だから、社長を守らねばならない、ということ。更に、蓮は竹上光輔がいかに悪だとしても名士となった竹上が社会に裁かれるとは思っていない。これは根が深い。
ところで、永遠(とわ)はいつでも、三匹の子豚の物語を好み、特に、三男のウーが大好きな青年であった。ウーは、強くて賢くて、我慢強い子豚であったから。永遠(とわ)はいつでもウーのことを考えていた。辛いとき苦しいとき困った時は、いつもウーことを考えて頑張っていた。これは何だろう?インスタグラム:yakitorisakabakadusaya さん(京都の居酒屋「かづさや」さん。。。)の答えを引用させていただく。『ウーの事を思ってました。人間は弱いままでいいでしょ。素直であればいいでしょ。優しくあればそれだけでいいでしょ。「ウサギと亀」しかり「アリとキリギリス」しかり。弱者が強者を打ち負かす的流れの物語は沢山あるけれど、「三匹の子豚」の三男ウーがそうだったように、弱者は最後に勝ってさえも、相手を嘲笑したりしないんです。人生を急ぐ必要はありません。「強くならなきゃ」なんて思う必要もありません。他者を羨む事なく、自己を卑下する事もなく、ただただ優しい人を目指しましょう。人は見ています。君がいることを喜ぶ人がちゃんと存在します。』つまり、ウーは兄弟の中で一番のろまで馬鹿にされていたけれども、、、ということか。
08.12
「聖者の行進」第9話。三郎は居なくなり、永遠(とわ)の母親以外の親たちは竹上社長の側について、子供達は工場に戻され、永遠(とわ)は解雇されて母親が引き取った。他方、水間妙子の妊娠が明らかになり、竹上社長は証拠隠滅のために蓮に水間妙子のお腹に居る胎児の殺害を命じた。それを聞いていた妹の鈴(りん)(視力を失っている)はバスで永遠(とわ)に教えられた彼の家の近くの公園に辿り着き、レコーダーで「聖者の行進」を吹いた。その公園で子供達に犬のように虐められていた永遠(とわ)はそれを聞いて「プライド」に目覚めて立ち上がり、鈴(りん)を見つける。ここで「糸」が流れる。鈴(りん)は「蓮を助けて!」と言い、永遠(とわ)と一緒に工場に帰る途中で、蓮と水間妙子の修羅場に遭遇して永遠(とわ)が間に割って入った。ここで主題歌「命の別名」である。これは永遠(とわ)を元気づけるように聞える。永遠(とわ)は何だか救世主みたいになってきた。
ドラマとしてどうかと思うのは、ちょっとしたユーモアとか笑いとか遊びの要素が全くない、ということである。こういう厳しいお話では、それがないと観ている人たちが苦しくなってしまう。考える余裕がなくなってしまう。僕が文句を言っても仕方ないけど。。。
「聖者の行進」第10話。水間妙子 母子は無事だった。妙子に頼まれて永遠(とわ)は生まれてくる子供の父親になることを誓った。竹上社長は婦女暴行で告訴されて裁判が始まる。妙子は堕胎手術を受けさせられようとするが、永遠(とわ)が「僕が父親になるでしょ」と言って、止めた。妙子は裁判で社長を指さしたが、日付や時間を言えない。知的障がい者の証言は信用されない。
弁護士の宇野は永遠(とわ)に証言させようとして練習させる。妙子は川で自殺しようとするが永遠(とわ)に助けられる。永遠(とわ)が裁判所に入る場面で第10話が終わる。ここで「糸」である。まだもう一つ話があった!
「聖者の行進」最終話。法廷での竹上社長の演技は見事で裁判官を騙しおおせた。最後に永遠(とわ)の証言。しかし、弁護士の策略(グラスを落として驚かせる)にやられてうまくいかなかった。永遠(とわ)は叫ぶ「障がい者だって人間です。忘れることだってあります!」結局竹上は無罪となったが、うわさが広まってしまい、妻も子供も逃げ出した。
ここから先は多分実際の事件とはかなり異なっているのだろう。工場で一人になった竹上を蓮が襲って、灯油を撒いて火を点けた。蓮は鈴(りん)を道連れに死のうとしていた。鈴(りん)はレコーダーで「聖者の行進」を吹く。皆が助けに入る。永遠(とわ)と竹上社長だけが残る。脚を怪我して動けない竹上の隣で永遠(とわ)は座りこむ。一緒に焼かれて死ぬ覚悟である。ここで「命の別名」。竹上が過去を語る。「家族に相手にされず、目の前に弱い障がい者達が居て、誘惑に負けた。自分の強さに酔ってしまった。地獄に落ちる。」永遠(とわ)は答える。「皆大きな輪の中に入るでしょ。」これを聞いて竹上は「心」を取り戻したように見える。このドラマでの悪役竹上社長を演じた段田安則の鬼気迫る演技は素晴らしい。そういえば、最近の「光る君へ」でも藤原兼家を見事に演じていた。
工場は焼け落ちた。蓮は葉川先生に愛を告白して亡くなった。焼けた工場の跡地に集まって弔いの合奏しようとして、鈴(りん)が気付く。鈴(りん)はいつでも鋭敏に何かを見つける。先導役である。マンホールの中(地下倉庫)に永遠(とわ)が逃げていた。竹上が最後に助けてくれたのだという!最後の救い。ちょっとイエス・キリストの「復活」に似ている。。。工場は募金によって再建された。最後に「糸」。「糸」というのは人と人との繋がりの歌と解釈すれば、確かに、このドラマの主題歌に相応しいのかもしれない。
それにしても、確かに裁判というのは「言葉」で行われるから、知的障がい者には不利である。今でもそうなのだろうか?知的障がい者だけではない。何処にも行く当てがない、誰にも相手にされない、ということが悪に蝕まれる最大の原因になる、ということ。やはり「愛」にしか救いはない。
最後の印象として、厳しい内容のドラマであるだけに、繰り返し使われる音楽や三匹の子豚の話がある種の救いのように感じる。マタイ受難曲で挿入されているアリアのような感じである。そういう意味で、このドラマは、最後まで観れば、受難曲のような印象を残す。ひょっとするとそれが野島伸司の意図だったのかもしれない。
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