2019.01.30
以前に時間切れで返却した佐藤優の『神学の技法』(平凡社)であるが、2回目の貸出の順番が回って来て、メモを取りながら一応読んだ。一応というのは、苦手な聖書の引用部分をスキップしてしまったからである。ユダヤ教徒の預言者の一人であり、『救いは近い』と訴えたイエスが神殿を冒涜した罪で殺された、という(多分)史実に対して、弟子達が記録を残した。中でもイエスに直接は会っていなかったギリシャ系のパウロが、イエスの死に明確な意味を与えた。<神が自らの息子であるイエスを人間として地上に送り、旧約聖書に記された人間の原罪を赦して人間と和解するために、イエスがその罪を背負って刑死を受け入れて、自らの由来(神の子であること)を証明するために復活して見せた。その後神の国の元へと帰ったイエス・キリストは地上に『聖霊』を送って、弟子達に教会組織を作らせた。>という事である。従って、キリスト教徒はイエス・キリストの約束した『救済』を待ち望む人達である。

・・・問題はその救済の解釈とその待ち方であって、それによって諸宗派が分かれる。救済に多少なりとも人間の意志や努力が意味を持つと考えると、マルクスの共産主義やレーニンの党派主義の様な表向き宗教を否定しているイデオロギーに始まり、人間も聖霊の働きで神になれると考えるロシア正教、救済を教会に独占する正統カトリック、等々があり、これらに対して、一般的にプロテスタント諸派は、救済を一方的な神の恩寵と考えて、浄土真宗のような『他力本願』という立場を採る。

・・・中世においては、神は天に存在していて、地上は悪の世界であったが、啓蒙主義の時代には、もはやそのような話は信じられなくなり、人間の心の中に神の根拠が置かれたために、理性の活動(科学)による進歩主義が信じられた。新自由主義もその申し子である。しかし、このような楽観主義は、少なくともヨーロッパでは、第一次世界大戦の悲惨さによって打ち砕かれた。理性の代わりに感情を崇拝した人達(ロマン主義)もやがてナショナリズムに飲み込まれていって、第二次世界大戦に至る。これらば全て一種の『偶像(人工物)崇拝』である。

・・・ここで、神は人間の理性でも感情でもなく、天上に住まうわけでもなく、それらを超越した存在である、と考えたのがカール・バルトであり、佐藤氏はその弟子である。イエス・キリストによって約束された救済は、最期の審判のことであり、そこで人間の歴史は終わる。だから、キリスト教徒はそれまでの間をどう生きるべきかが問われる。他力本願であるから、自らの意志や行為によって、自らが救済されるかどうかは決まらない。そもそも救済というのは共同体としての人間の救済である。

・・・佐藤氏の主張するところでは、まずは救済を信じる事(信仰)が前提であるが、生き方をしては、新約聖書に記されたイエスの行動を見習えばよい、ということである。それは徹底した利他主義である。ただし、自らの手で楽園を作る(革命)というのは間違いである。何故ならそれは神の仕事であり、人間がそれを試みれば(多くは自我崇拝によって)必ず悪を生み出すからである。ならばどうするか?革命に対しては参画するのではなく、その意図を支持しつつ(『地の塩』として)その悪を指摘して修正する、ということである。そのやり方には個人個人の才覚と思想があってよい。

・・・結局、神という超越的存在を信じるということの意味は、自我崇拝を克服する、という事なのだろう、と思う。だから、非キリスト教徒とも共感できる、という事にもなる。

・・・以下メモである。

『神学の技法』は『神学の思考』の続編(完結編)である。

#####
# 救済 #
#####

<<イエス・キリストは救い主なのか>>

      イエスの死をどうとらえるか?3つの考え方がある。

(1)信者の罪を償うために神が与えた犠牲である
      ユダヤ教では子羊を犠牲として使った。
      キリストは犠牲自身と仲介者(祭司)を兼ねている。
      プロテスタント神学におけるキリストの3つの権能
      1.預言者、2.祭司、3.王
      これらは人間の負う3つの悲惨、1.無知、2.罪を負う、3.抑圧されていること、に対応している。近代(啓蒙主義の時代)になって、犠牲の意味は、「罪の償い」という本義から「人間の英雄的な行為」という派生的な意味に変質した。神が居ないから人間の自己絶対化をもたらした。そして、ナショナリズムと結びついて政治的に利用された。ヒトラーはドイツの莫大な戦後賠償金負担を国民にとってのより大きな栄光の為の犠牲と位置付けた。靖国神社の問題にも同じ構造がある。

(2)復活によるキリストの勝利である
      人間が悪にまみれているのは悪魔の人質になっているからで、神は悪魔に身代金を払って人間を解放した。この考えはロシア正教会の中で生きている。神は悪魔を騙す。現実世界での悪と不正は神の戦略と見られる。アウレンは1930年の「勝利者キリスト」で論考した。第一次世界大戦が「悪の実在」を認識させたからである。日本のキリスト教では本来日露戦争における悲惨さがその契機としてあったのだが、戦争に勝利した為に成功体験としての総括しかなされなかった。

(3)人間の罪を赦す根拠である
      アンセルムスにとって、神は騙したりするような存在ではなかった。人間は神の命令に違反し、それを回復する能力を持たない。一方、神は罪を犯していないので、罪を克服するために何かを行う義務を持たない。真の神であり真の人間でもあるイエスならば、能力と義務の両方を持つので償いが可能になる。トマス・アクイナスはこれを引き継いで、償いの根拠をキリストの愛の大きさに求めた。

      マクグラスによる16世紀プロテスタント神学の類型
      1.代表:十字架においてキリストは人間側の代表として神と契約した。ユダヤ教やイスラム教と異なり、キリスト教では、神と人間の間に媒介者キリストが居る。
      2.参与:信者は信仰によってキリストの甦りに参与する。カトリックでは信仰と人間の自発的行為を救済の条件としたが、プロテスタントでは信仰が全てであり、行為はその信仰の自然な発露として生じる、と考える。
      3.代理:人間は罪を持つ。キリストは罪を持たない。しかし、キリストは人間の代理として十字架にかけられた。16世紀のプロテスタンティズムはカトリック教会の長がキリストであることを忘却し、自ら長として振る舞うこと(堕落)に抗議して、本来の原点キリストに還るという運動であった。だから、理性を信用していない。しかし、17世紀末からの啓蒙主義では理性を基本と考えるから、原罪という考え方とは馴染まない。人間生活全てを理性で処理し尽くすことは不可能である。数学においても必ず恣意的な前提が必要とされている。

      啓蒙主義は原罪を心理的現象に還元する。(フロイトは性欲に還元した。)しかし、その考え方は第一次世界大戦で破綻した。人間の作り出した悪が人類を滅ぼす可能性が見えたのである。救いは人間の理性ではなく、キリストを信じて従うことでしか得られない。原罪を持つ人間には人間を救う力が無い。カール・バルトはそれを徹底した。他力本願である。(カトリックではキリストだけでなくマリアも原罪を持たない。)自己義認(自力救済、自己の偶像化)を排除する。人間をエデンの園から追い出した神の<否定>は、キリストが無罪であるにもかかわらず人間の罪を負って処刑されたという自己犠牲によって、<肯定>に転化された。弁証法である。キリストの自己犠牲は神から人間への<愛>である。これに触れた人間はキリストを<愛する>ことができるようになる。

***

<<人間の理性と神の救い>>

      理性は暗い部屋の中のロウソクである。ロウソクの光は物の姿を見せるがその影も見せる。19世紀ロマン主義はその影に気づいたが、それを肯定的な感情に転換し、やがて壁に当たってニヒリズムを生み出した。これらは知識人の内部での事である。第一次世界大戦によって一般の人々が啓蒙(科学技術や社会工学)の限界に気づいた。

      中世においては、天上界での神の秩序と対比されて地上界の悪が認識されていた。それが自然法であった。しかし、啓蒙主義によって地上に理性による秩序が想定され、本質的な悪は視界から消えた。だから、自然法は、正義、秩序、平和、平等、人権を意味するようになった。キリストの神性が軽視され、彼は単に模範的な人生を示した先生である、ということになった。アメリカに見られるユニテリアンがその典型である。シュライエルマッハーは、キリストを人々に神に対する絶対依存の感情を生じさせる存在と考える。単なる人間道徳の体現者というに留まらず、宗教的な理想の体現者であり、しかもその神意識を他者に伝達する。ロシア正教の神学者ウラジミール・ロスキーは、神的位格としてのキリストが人間になることによって、それとの結合によって、人間が神になることが可能になる、と考えた。人間によって理想的な社会を国家を建設しようとしてソ連は崩壊した。その原動力にロシア正教がある。

      プロテスタンティズムの救済論。パウロとフロマートカの考え。人間は神を裏切ったが、神は人間を信頼し続けた。イエス・キリストを派遣して人間と和解しようとした。和解は神からの一方的行為である。放蕩息子の話はこれを例示している。放蕩息子は自らの罪深さを認めて父親はそれを赦して歓迎した。彼が自らの意志で戻ったのではない。神の意志で戻った。だから父親(神)は赦した。他方、長男は真面目に働いていて、主観的な正義感から弟を赦そうとしなかったから、長男の方が罪である。救済の2側面。一つは、神が人間の後を追っていく事。ストーカーのように。二つ目は、イエスの十字架上の死によって、人間の救済が担保される、という事。イエスは、真の人として、自由意志と自発性によって死を選択した。イエスの恐怖と絶望こそ、同時に人間の救済となる。これは神から人間への恩恵であった。

      神学は不可能な事を論理的に説得しようとするから、イエス・キリストが唯一の救済の根拠である、という同じ事項について様々な角度から繰り返し語る。イエスの死と復活によって神の恩恵は可視化されているから、もはや預言者は必要ない。聖霊は、言語、民族、地域を超えて人々にこの使信を伝える。この使信は具体的には教会によって伝達される。

***

######
# 教会論 #
######

<<キリスト教とナショナリズム>>

      パウロはローマ帝国との不要な軋轢を避けるために、信者に対して、地上の権力に逆らうな、と教えた。『ローマ書』である。これをカール・バルトが読み解く。『ローマ書講解』である。地上の国家は原罪を負った人間によって作られたものであるから悪である。暴力を独占することで秩序を保っている。これに対して、社会は文化と慣習によって作られている。国家は変容するものである。その都度の現行秩序に対して一般理論は成り立たない。人間は人間との具体的関係において神を知る。国家が引き起こす何らかの事態に対してキリスト教徒がどのようなカイロス(切断:神との出会い)を作り出すか?が問題である。目の前にある国家は独立した客観的な存在である。それに従うべきか否かという問いに対してどうすればよいか?我々は前者(合法性)も後者(革命)も選ばない。後者の否定(非革命)を選ぶ。パウロやバルトにとって革命は神の意思によって行われる。人間は天上で行われた神による革命に忠実に従う。人間は自らの社会を人間の力だけで統治できない。それを望んで革命を起こせば新たな悪が生まれるだけである。バルトはカルヴァンの流れを汲むが、カルヴァンの独裁主義理想国家に対しては批判的である。人間の革命の動機は現行秩序への恨みであり、そこから導き出される正義には悪が忍び込んでいる。革命家は自分だけは悪から逃れていると思い、カリスマ性を帯びることで、自己神格化する。神の革命は既にキリストによって始まっている。人間はこれに従えばよい。キリスト教徒は人間による限界を持つ革命を支持するが参与しない。革命家に自らの内部にある悪を認識させるためである。革命という語 revolution は本来「天体の運行」という意味であり、人間が革命を起こすことはできない、という含意がある。

      ロマン主義もバルトの弁証法神学も啓蒙主義への反発であるが、ロマン主義は人間の心を重視して、バルトは人間の力の及ばない外部に解決の糸口を求める。神は悪を通じて人間に語りかけている場合もある。そこに救済を見出すかどうか?人間と人間の間の相互連関は動的であり、革命は不可避であるが、それは神の革命が疎外された形で現れているに過ぎない。だからキリスト教徒はその背後にある神の意思を読み取らねばならない。キリスト教徒は『地の塩』として、この世に対する監視と警告を行うべきである。歴史的に言えば、本来イエス・キリストに従うべき教会が地上の権力者に従ってしまい、フランス革命やロシア革命が起きてしまった。それらの革命をキリスト教徒は自己批判すべき問題として捉えなくてはならない。現実の革命に対してはキリスト教徒は批判的に協力しなくてはならない。権力は悪をもたらし、権威は善をもたらす。全ての権威は神に拠る。革命家は権力によって善を行使することは出来ず、革命家が作り出した秩序が、つまり神の権威によって成立している秩序が行使している。キリスト教徒は善の領域に留まって社会に働きかけるべきである。自らの信仰に基づいて社会で直面する問題に取り組むが、それに特別の価値を付与してはならない。善悪の判断は神に委ねる。近代プロテンスタンティズムは神の居場所を天から心の中に移した結果、人間は自分の心理作用と神の働きを区別できなくなってしまった。それがロマン主義である。しかし、自分の心を崇拝することも偶像崇拝の一種である。キリスト教徒は敵−味方という政治の論理を拒否する。この世で正義を行うということは、信仰を持つキリスト教徒として当然であるが、それを善なる行為と認識してはいけない。救済と結びつけてはいけない。神の前で自らが罪人であることを自覚する。「自分は良心的だ」という良心は自己弁護である。「私は自分が望んでいる善ではなく、望んでいない悪ばかりを行っている」という自覚、つまり、悔い改めることこそがキリスト教徒の良心である。神に従うことは行為ではなく、認識である。「我々は正しくない。」たとえ正しくても、「正しい時ほど正しくない。」という認識である。神の革命は終末論的構成をとる。

***

<<神の国>>−柄谷行人との対話から−

      スイスでは宗教社会主義運動が非常に強かった。そもそもスイスという国が誓約共同体である。バルトもこの伝統の内にある。マルクスの共産主義もバルトの神の国も本質は同じである。交換様式D。マルクスやエンゲルスは宗教を批判するのではなく、人々が宗教に慰めを見出さざるを得ない社会構造を転換しようとした。レーニンは民衆を受動的にしたまま、党員に共産主義を信じることを要請した。その宗教を担保するのが共産党である。キリスト教では体制が整ってくると、キリストを信じることによって救済されるという事を自覚できなくなっていく。そういう時には必ず改革運動が起きる。エンゲルスやカウツキーは、当時の社会主義の堕落を救うヒントをキリスト教の改革運動に見た。他方、ドイツの社会民主党はナショナリズムに救いを求めて戦争を支持した。それに衝撃を受けたバルトはパウロに還った。文献学的聖書批判(パウロが純粋なキリスト教を捻じ曲げた)にも霊感説(パウロは神の声を聞いた)にも陥らない解釈に辿りついた。神は神に留まっていない。人(イエス・キリスト)になる。受肉論はマルクス主義では革命運動論になる。非共産党系マルクス主義者のスターリニズム批判とプロテスタント神学者によるカトリック教会批判とは類比的である。

      マルクスの『資本論』での貨幣を柄谷氏はソシュール言語学の固有名詞と類比している。文法的に固有名詞を説明できないように、共同主観性という理屈では貨幣を説明できない。貨幣の鋳造によって、国家が商品経済の過程に介入する。これは、神がイエス・キリストとして人間世界に受肉する構成と類比的である。

###(注)wiki

[交換様式の4つの象限]
交換様式A:贈与と返礼という互酬交換:共同体(平等で不自由)
交換様式B:略取と再分配または服従と安堵:国家(不平等で不自由)
交換様式C:商品交換(貨幣と商品):資本(不平等で自由)
交換様式D:定住によって失われた遊動性の高次元での回復
      交換様式A/B/Cが高度に発達した段階で普遍宗教が可能性を開示(平等で自由)
この中で、交換様式D(平等で自由な社会の在り方)は、まだ永続的・安定的に存在したことがなく、人々の視界の中に入ってこない。そのため、我々はナショナリズムと国家主義と資本主義が錯綜する中を堂々めぐりしてしまうしかない。

###(注終わり)

      永世中立国家スイスは、ある意味で国家の自己否定であるが、それが可能なのは、周囲の国家が承認したからで、その背景にはローマ教会があり、他方ではスイスのキリスト教がある。スイスは社会主義思想の温床となった。

      シュライエルマッハーは古代中世の形而上学と結びついて「上」にあると表象されていた神を「心」の中に移動した。近代的な宇宙観との矛盾が回避された。しかし、神が心理と区別できなくなり、ナショナリズムに超越性を持たせることに繋がった。「上」(外部)にあるもの(他者)を必要としたから、そこにナショナリズムを偶像として持ち込んだのである。外からやってくる、神の到来、つまり終末論。自分は能動的に行動するが、究極的には受動的である。マルクスの言「共産主義とは到達すべき理想ではない。現状を止揚する現実の運動を共産主義と言う。」前方にある理念を否定しつつ、他方で理念性が現実に生起する。

***

<<現代において神を信じることはできるのか−使徒信条を読む>>

      「聖霊に拠らなければ誰も「イエスは主である」とは言えない。」主観的には自らの決断のように思えても、客観的には外部からの聖霊の働きによって洗礼がなされる。信仰を主観と勘違いしないようにするために「型」、信仰告白の型が必要である。これが使徒信条である。

###(注)言い換えると−−−私は私が支配する私ではなく、他者との交感の来歴の産物、その現在にすぎない、という事−−−他者と共有できるものとしての「型:きまり言葉」である。それが「客観性」を保証する。
###(注終わり)

      ヤン・ミリチ・ロッホマン:チェコ生まれ、スイスに移住。フロマートカの弟子。巡礼の神学。常に変容していく神学。神は動的である。終末に向かって進んでいる。終末で人間が救済される。そのことを忘れて、知的好奇心のみで首尾一貫した神学を探求するのは本来の姿ではない。フスの宗教改革:ラテン語からチェコ語へ。「人はパンだけで生きるものではない。人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」神の言葉を聞いてそれに従っていれば、何も思い煩うことはない。

      古代教会の諸信条は第一に神学的思想的側面、第二にキリスト教徒の訓練に資すること。「我信ず・・・・アーメン(確かに)」使徒信条は全てではない。

      『人間もしくは天使の異言、預言、神秘、知識、信仰、希望、愛。信仰、希望、愛は最後まで残るが、その中で最も大いなるものは愛である。』(パウロ)

      レオンハルト・ラガツ:信条的信仰は一部識者のものとなるが、信頼的信仰は残る。これは「反知性主義」である。一部の者達が聖書の解釈権を独占することへの抵抗である。

      ギリシャ思想では、真理は言葉で表現される。ユダヤ思想では心の作用、動的な神が人間に働きかけて、人間がどう応えるか、を重視する。神学はこれらの統合であるから、信仰も「理解する為に信じる」という形をとる。循環している。対象が在るという「確実性」ではなく、対象を信じるという「確信性」。目に見えるものは、目に見えない神によって創られた、という創造論。具体的な出来事の中に目に見えない神の力を見る。信仰を人間の実存に解消してはならない。使徒信条の主体は何か?東方教会:神人論:「神が人となられたのは、人が神になるためである。」人は複数形。西方教会:「神が人になられた。」それを信じる私は単数形。弾圧の時代、信仰告白は危険性を伴っていたから、単数形でなされたが、言葉というのは単数では存在できない、共同主観である。教会共同体の一員としての「私」であった。

      ソ連型社会主義では、科学的無神論が譲る事のできない原則であった。哲学的には単純な啓蒙主義であるが、ソ連型社会主義では、理性を唯一の判断基準にする啓蒙主義というよりも「無神論を信じる」という宗教であった。しかし、チェコにおける52年のスランスキー事件により、人々は人間が罪から逃れられないというキリスト教の教えを思い出した。

      マルクス主義は「共同主観性」を重視するが、キリスト教では、共同主観の外部にある神を必須の要件と考える。実存主義者は共同主観性の限界を人間の内面を掘り下げることで追及して、「個」という幻影に至った。フォイエルバッハやマルクスの宗教批判は、キリスト教でいうところの「偶像」批判に相当するから、彼らの批判はキリスト教信仰と矛盾しない。バルトやフロマートカは、神の啓示から同様な偶像批判を展開する。

      フロマートカは、人間が抱える問題についてマルクス主義者と対話した結果、人間的な顔を持つ社会主義という問題が自覚されて、1968年の「プラハの春」の契機となった。社会主義国においては、資本主義国のような貧富の差はなくなり、現実世界から逃避するための神は不要となったが、人間には超越性という感覚が元来備わっている(ロッホマン)。それがないと、命を賭して革命に参画することは出来ない。死において超越性が問われる。しかし、大量消費社会の元では、神を信じることが困難になっている。それを自覚しつつ、資本主義社会の市場に内在している無神論の危険に気づかねばならない。

      復活を遂げ、高挙されたイエスは救済主キリストになり、地上に聖霊を注ぎ、人々が様々な言葉を話し始め、その言葉の中に救済の為の知恵が隠されていた。ペトロの演説によって聖霊に包まれた教会が生まれた。カトリックでは聖霊は教会の内部でしか働かないが、プロテスタントでは聖霊が自由であるが、聖霊によって召命された者が教会を形成するから、結果的には聖霊の働きは教会で表現される。しかし、正教会では聖霊が教会の外でも自由に働く。

      キリスト教会とは場所のことではなくて礼拝共同体であり、礼拝に参加することでキリスト教徒は自らの生き方を見直す。社会に対してはこの世の同胞の為に奉仕する。

      罪を悔い改めるということが信仰告白である。救済にはそれが不可欠である。マルクス主義は人間中心主義で性善説である。階級社会の残滓を徹底的に除去すれば理想郷が出現すると考える。キリスト教徒はそれでも人間の原罪が残ると考える。

      罪の赦しとは心理作用ではない。それぞれの信者が信仰的良心に従って生活する。赦しは個人的次元ではなく、社会的である。
      信仰即行為、行為即信仰。罪の告白は自らに対する責任を引き受けるということ。
      罪が何であるかを認識し、その罪がどのように神と対立しているかについて明確にする。これが歴史認識である。

      チェコスロヴァキア初代大統領 トーマス・ガリク・マサリク。啓蒙主義は理性、ロマン主義は理性を超える個人の情念に価値を認めたが、いずれも独善性に陥り、第一次大戦をもたらした。マサリクはリアリズムに依拠した。中世の実念論である。『目には見えないが確実に存在するものがある』と考える。それは『人間性』であった。これはイエス・キリストによって基礎づけられている。信仰、希望、愛も目には見えないが確実に存在する現実である。『永遠の命』『神の国』。人間が生きている目的は神の栄光の為である、という目に見えない真実。救済の前提に苦難がある。苦難から自由を掴む。しかし、それは人間の計画や意思によるものではなくて、それらを超えた外部からの力による。それをキリスト教徒は信じる。この力は啓示という形で人間に働きかける。

***

<<キリスト教の教会とは何か>>

      プロテスタント教会は、その本質において自己絶対化を脱構築する性格を帯びている。
***

########
#   信仰論   #
########

<<なぜ、何を、どのように信じるのか>>

      キリスト教における真理は動的であり、消すと神の関係、イエスと周囲の具体的な人間との関係の類比から真理をつかみ取っていくことが、キリスト教徒には求められる。キリスト教徒は『地の塩』である。塩は異質な存在であるからこそ意味がある。塩は他者に働きかけることで初めて意味を持つ。

      自発的には信仰は生まれない。信仰も召命であり、神の恩恵である。

      人間は自己中心的な性格を帯びている。この自己中心性を神から与えられた清い心によって脱構築していくことが求められている。『心』は目に見えないが確実に存在している。

      時代の経過と共に、キリスト教は反体制から体制側に移り、ヘブライズムからヘレニズムの思想空間に移ったから、教義が静的になって、動的な人間の魂を捉えることができなくなった。近代になって、プロテスタンティズムは、神の場所を形而上学的天から人間の心に転換したために、近代科学との矛盾が原理的になくなり、それに依拠した資本主義と結びついて、キリスト教国家が世界を主導するようになった。『終末論』を欠いた進歩・進化主義は原罪の自覚を忘れさせてしまう。国家主権と民族が結びついた国民国家の元で、キリスト教的民族は、動産、不動産、知識、教養、自由が自分達の所有物であると勘違いしている。能力も心も肉体も神に授けられたものである。福音には、宗教、世界観、政治体制、文化形態などの人間的な制約を破壊する力が備わっている。キリスト教徒にとって重要なのは、現実に起きていることに対して責任を感じることである。神は人間の悲惨さの深淵にイエスを送った。イエスはこの方法に徹底的に従った。だから、苦難に直面している人と、一時的にではあれ、人生を共有するという、具体的な人間的触れあいをする中で、信仰を他者にも伝達していく。神から人間の中に派遣されたイエスの現実こそが、キリスト教徒が従わなくてはならない唯一の基準である。愛によって他者に信仰が伝えられることが召命である。

      イエスの死によって人間の死が克服されて、『永遠の命』を得ることができるようになった。それは未来における終末が人間の解放であることを信じているからである。

      自己義認の誘惑:人間の努力は救済には結びつかない。救いは人間の内側からではなく外側からもたらされる。罪を赦す神の愛を素直に受け入れる心構えが重要。
***

#########
#    終末論    #
#########

      終末は『急ぎつつ、待つ。』これに対して、ユートピア主義では、人間の力で「神の国」を建設しようとする。神を抜きにした「神の国」。自らの罪の意識が希薄になる。国家の暴力機能を抑止する装置が組み込まれないシステムになる。教権主義では「神の国」は彼岸の出来事だからと諦めて、現実の教会政治に埋没する。その結果として教会が官僚化して教権主義に陥る。

      『神の栄光の為に生きる』というのは、具体的には、<イエス・キリストが地上においてそうであったように>、常に他人の為に生きるように努力するということである。このような生活を続けて、最後の審判には淡々と臨めばよい。最後の審判はイエス・キリストの専管事項であるが、人間は様々な思弁を巡らせてしまう。その最たる例が、死者の「不死なる魂」である。肉体から魂を救済するというのは、肉体に罪を認めて魂は清い、という言説に繋がる。これはグノーシス主義やネオプラトニズムである。キリスト教は魂と身体が分かれているという二元論を採らない。人間の限界のある知識では、死後のあり方について論じることはできないのだが、人間には不可能な事であってもそれを論じてイメージを描こうとする性向があるから、終末論も人間的思弁に堕してしまう危険性がある。

      天国という概念は、個人的な人間実存の投影ではなくて、償われた共同体全体として愛の神の共同体に参与することだとみなされる。千年王国という概念は身体の復活という問題を脇に逸らしてしまう。煉獄はプロテスタントでは認められない。カトリックでは、煉獄において死者を天国に行かせることが出来るということで、教会が遺族から献金を得ていた。

      ルター派は信仰を重視して政治行動を抑制した。聖と俗の『二王国説』。これに対して、改革派は積極的に社会に関わる。

      啓蒙主義の時代、神学をそれに適合させる動きが起きた。神の国は地上で人間が努力を重ねれば実現可能である、とした。しかし、第一次大戦で後退した。

      19世紀末、シュヴァイツァー。隣人の為に奉仕する生き方を重視した。ブルームハルト兄弟は信仰の此岸性を強調した。

      イエス・キリストが出現したという事実によって、人間の救済は先取りされているけれども、キリストが再臨して、最後の審判を行う時に救済が完成し、キリスト教徒は『永遠の命』を得て、『神の国』に入る。この終末論を明確に言語化したのはパウロである。イエスは自らをユダヤ教徒と考えていたが、イエスの説いた教えがキリスト教である、ということを明確にしたのがパウロである。人間が『神の国』の建設に少しでも関われることはない。しかし、「何をやっても駄目だ」と思ってしまうこと自体が「選ばれていない」ことの証拠である。自分の心を真摯に見つめて行けば、そこから、自分には他者(社会)に貢献できる適性のあることが判る。その適性を他者の為に生かすように努力すべきである。キリスト教徒は既に救われることが保証されているが、未だ救いは実現していない。『時の間』に生きている、この緊張関係が現実の社会への責任感を生み出す。

      アウグスティヌスの寛容:棄教した者の教会への再加入を認める。トナトゥス派は認めなかった。自分の信仰が本当であって、他の人は真の信仰を持っていないと糾弾した。分派を形成し、ユリアヌス帝のキリスト教弾圧に加担した。

      啓蒙主義的人間観の典型がフォイエルバッハの宗教批判である。神学は転倒した人間学である。人間の願望を投影して宗教を作った、と。これは正しい。しかし、イエスはそのような人間の作りあげた偶像を崇拝するな、と訴えたのである。マルクスは宗教が現実世界の課題から人々を遠ざけると考えただけである。それは世俗化された終末論であった。エルンスト・ブロッホ『希望の原理』、ユルゲン・モルトマンの『希望の神学』を見よ。ダーウィンの進化論も自由主義神学を生み出し、人間の努力による地上『神の国』という幻想を作った。

      第一次大戦後、ルドルフ・ブルトマンは、聖書の神話的表象を非神話化して、福音を現在の問題として捉えなおした、実存主義的アプローチである。『ヨハネによる福音書』に依拠して、ひとりひとりが現在実現しつつある福音を実存的に受け止めることを重視した。しかし、個人という近代の概念では信仰を理解することは出来ない。

      モルトマンは、終末論を希望、つまり未来の問題として捉えた。教会が共同体として希望を持つ。背景には1960年代米ソの平和共存がある。

      歴史には終わりがあり、それが歴史の目的である。それ故に人間は希望を持つことができる。終末を人間ははっきりとは知ることができないが、知らない事に満足しなければならない。神の愛を信じてその不明瞭な希望の終末を信じるしかない。だから、信仰あっての希望である。

      神の愛は、人間を死から復活させる形で現れる。人間が不死になるのではない。肉体だけが滅びて魂が生き残るのではない。人間は魂も肉体も一体であり、必ず死ぬのであるが、最後の審判において復活するのである。それは神の一方的な恩恵である。

      キリストは、かって自分が罪もないのに裁かれたという現実を踏まえた上で、十字架上のイエスの死によって人間は罪を克服することが出来る、という前提に立って審判を行う。人間はこのキリストを信じることで救われるのである。

  <目次へ>  <一つ前へ>    <次へ>