クリニックのある山科では食後に4階の本屋に寄って立ち読みをすることが多いが、新書本など面白そうなのがあるとつい買ってしまう。森山徹の「ダンゴムシに心はあるのか」(PHPサイエンス・ワールド新書)もそうである。連休中に広島に行っている間も読んでいたが、あまりすんなりとは読めなかった。

      心という言葉は何を意味しているのか?まずはその定義から始める。それ次第で研究の可能性も方向性も決まる。言い換えれば研究が可能なような定義が必要である。生物はいつも何らかの環境からの刺激に対して反応しているが、それは必ずしも決まりきった反応ばかりではないので、そういうことを観測すると、その生物は幾つかの反応の可能性を持っていて、余計な反応が出てこないように抑制しているように見える。それを我々は心の働きだと感じる。「内なる私」とか「隠れた意図」とか「表に出ない感情」とか、日常的に我々が心の特性と考えていることを巧く要約した定義のように思える。言い換えれば因果律の対立概念として心の働きを考えるのである。つまり、単に因果律に従う訳ではなく、「自発性」がある、という次第である。近代以降の物質科学万能主義者にとって、生物における「自発性」というのも解明はされていないが絶対的な因果律に従っている、というのが「常識」であるが、しかし、その常識は我々の自然な感じ方(心理)とは何か別な抽象的な概念(実証されていない仮説)なのである。

      そこで、生物の心の働きを研究するための方法論が生み出される。それは生物を慣れ親しんだ日常から少し離してやって観察=測定することである。日常的には生物は刺激に対して定型的な反応をする。それは大抵の場合本能である。ティンバーゲンは一見複雑で擬人化すらできそうな動物の行動を詳しく観察して、それが「鍵刺激」で誘発される「生得的解発機構」の連鎖で説明できることを多くの例で見出している。昆虫類の行動は特定の環境に非常に効率的に適応していて、「考える」という無駄なエネルギーを使わないのである。今日それぞれの動物においてそれらの研究の蓄積があるのであるが、逆にそれを利用して、環境を変えてやることによって、その生得的解発機構が適応的でないような状況に追い込んでやれば、眠っていた別の行動が自発的に生じるだろうか?それが新たな適応行動であれば、学習するだろうか?ということである。

      この本で主に取り上げられているのはダンゴムシの「交代性転向」である。ダンゴムシは何かの障害物に接すると逆方向に向きを変えるが、しばらく歩くとその前とは逆の方向に向きを変える。これは敵から逃走する途中で障害物にぶつかっても真直ぐ逃げるための適応(生得的解発機構)であると考えられている。このことが不利な状況を生み出す環境として円形の板を水の上に置いてダンゴムシを歩かせるという実験を行う。ダンゴムシは水が嫌いであるが、交代性転向を続けていると何時までたっても水に接触するという不利な状況になる。しかし、その状況はしばしばダンゴムシの意外な行動によって回避される。例えば、思い切って水に入って泳いで向こう岸に渡る、とか、内側に置いた台の上に登る(これも通常危険に身を曝すために行わない行動である)、とか、いろいろな実験が紹介されている。一つの実験で「冒険的」であるとされたダンゴムシは別の実験でもそうであり、個体によってその融通性に差があると思われる。

      さて、ティンバーゲンは「鍵刺激」があればいつも「生得的解発機構」が働き始めるといったわけではなく、もう一つ必要な要素として「動機付け」が必要であるとした。横に動く物体に対するヒキガエルの捕食行動はそもそもヒキガエルが空腹でなければ起こらない。この「内的欲求」というのはそれだけではなかなか解明できない。ダンゴムシが「交代性転向」以外の行動を取るのも、いつもいつも水に接してしまうという状況を全体的に不快に思うという「内的欲求」によるものであると考えれられる。その時にどんな行動が起きるかは予め予測可能ではないが、少なくとも何らかの行動を起こさなければ現在の状況から脱出できないという切迫感があるということで、これこそが「心」と見られる行動の源なのである。実際の行動はダンゴムシという個体が予め保持している、というよりはその時の環境に依存する度合いが大きく、そういう意味で「心」は環境にあり、その源こそが「生命力」である、ということになるのではないだろうか?

<一つ前へ>  <目次>