2025.08.22-09.03
100分de名著 7月 は「現象学」。録画を観た。フッサールの名前は知っていたし、現象学についてもいろいろな機会に聞いていたが、フッサールを読んだわけではなかったので、勉強になった。第一次世界大戦を経験して、科学だけで世界を切り取っていくことの危うさが認識されるようになった。「客観世界」の法則を極めていく物理学の方法論だけでは人間は幸福にはなれない。これは僕が高校生の頃、科学研究者を目指すことに決めたときから付きまとってきた課題(悩み)であった。物理学の方法論には「価値」が(表向き)排除されている。(研究者個人としては仮説設定に価値観が反映されているのだが。)いずれにしても、「価値」や「意味」は「心」の側にある。
フッサールは、方法論として、徹底的に主観の側に立って物事を考え直す。そのやり方を体系化したのが「現象学」である。例えば、客観世界というのも人間の主観的確信であると考えれば、その確信を生み出す条件があることに気づく。(実は現実の自然科学の学会というのはその条件に沿った組織になっている。)
僕もある意味で現象学的に考えていて、僕の言い方では、ここで「客観世界」と呼ばれているのは「モデル」である。そして、人間の心もまた客観性を持つ限りにおいて、「科学」の対象となる。ただ、物質やエネルギーではなく、「情報」として心を捉えるというモデル化を行うのである。しかし、そのモデル化(人工知能)と本物の「心」とは違う。
「100分de名著:フッサール」のテキストを読んでいる。ひとつ引っかかった言葉が「実証主義」positivism である。ここでは字義通りの意味で使われていて、客観世界は数学的に組み上げられた体系として実在するのであるが、その体系は勿論実際の経験によって実証されなくてはならない。つまり理論への信念と実証が科学の両輪である、という意味で使われている。ただ、20世紀初頭における「実証主義」は別の意味でも使われていた。それはむしろ理論体系の否定である。実験結果の集積を説明できるだけではその理論体系が唯一のものとは言えない。だから、その理論体系の基礎となっている概念は絶対的なものではない、という意味である。元々は実証されえない神学や哲学の主張を否定するためのものだったから、科学と相性が良いのであるが、量子論が発見される時には、粒子とか波動とかいう古典的物理概念を否定するために使われた。超音速流体で有名なエルンスト・マッハはその最左翼で、まるで現象学者のようである(フッサールとも時期が重なっている)が、ユークリッド的時空というのも実在するとは言えない、という極端な発想がアインシュタインの相対性理論に繋がっている。・・・2017年の日記から引用
元々実証主義というのは形而上学の全面的な否認であり、この世の全ての実在性は実証作業によってのみ明らかになる、というものである。実証とは何かといえば、つまり経験であり実験であるが、同時に論理的演繹作業も伴うことになる。人はしばしば後者の粗雑さによって間違えるから、そこを厳密に行う事に焦点を当てたのが論理実証主義ということになる。分析哲学というのもその延長上にある。そういう流れの中で考えると、問題の一つは、絶対に正しい前提というものがあるのか?ということで、これはその論理体系の内部からは証明できない、ということがゲーデルによって証明されてしまった。もう一つの問題は、実証するということは、全ての場合については行えない訳だから完全な実証ということも不可能ということである。この後者については、実証の意味を見直すこと、つまり、検証に置き換える、ということで救われた。ポパーが唱えた反証可能性である。反証の論理的可能性を持たない命題は科学の命題ではなく、反証の可能性を持ちつつ未だに反証されていない命題が正しい命題である、ということになった。新実証主義(批判的合理主義)と名付けられているらしい。・・・引用おわり
「100分de名著 フッサール」のテキストを読み終えた。西研という人の解説。判りやすいけど、こんなものなんだろうか?という疑念が残る。物理系科学によって体系化理論化された自然像をどう捉えるか?それが客観的事実であるという確信はどこから来るか?と反省していって、その確信が他ならぬ主観的願望に由来していることに気づく。そして、その主観的願望というのは多くの人々が共通に持っている有用性に対する期待といってもよい。現象学というのは自然科学を否定するというものではなくて、自然科学をどういう風に受け止めるか、という方法であり、その意義は、物質世界の論理に押しつぶされないための工夫であり、抵抗である。何故そんなことが必要なのか、と言えば、人生の意味を確信する必要があるからである。こう考えると僕が今まで考えてきたことと何も変わらない。主観と客観の問題にはこういう解決しかないだろうと思う。
最後の章は「本質看取」。多くの人との話し合いによって、共通点を見出していく方法。意見はさまざまで、対立することもあるだろうが、それでも共通する側面は必ずある。この辺は多分西研独特の展開なのだろう。話し合いによって、それぞれの主観が露わになり、そこから共通するものを探り当てるというのは、ちょうど客観世界についてデータを集めて解析して、傾向性や因果性を発見するのと対応している。その客観世界というのは何も物質世界だけではない。政治経済社会学もそうである。だからそのような客観科学(普通の意味での人文社会自然科学)に対する主観科学として現象学の本質看取がある、という位置づけだろう。これこそ哲学者の仕事であるという。確かにソクラテスがそうだった。 <目次へ> <一つ前へ> <次へ>