第7章:社会における知識と意味:

    我々が共生している物質世界は無限に豊かであり、我々は行為による仮説の検証によってそれに同化することで適応しているに過ぎない。その結果が意味であり、そこには我々の来歴が全て含まれているから私秘的である。しかし、ヒトは日常的に、社会的同化を必要としており、そのためには来歴を絶えず捨てなくてはならない。つまり、脱学習を必要としている。レム睡眠は脱学習と学習の為と言われており、実際、年齢と共にレム睡眠時間は短くなる。ヒトは社会的同化のために様々なシグナルやシンボルを発達させてきた。最も原始的なものは、情動表現である。他者の情動は身体的運動として現れ、それは自らの情動と身体的運動との経験から因果関係理解が容易だからである。同化は社会的学習を必要とする。子供の遊びにその基本的要素が見られる。学習は意識される必要はない。むしろ意識されない方がうまく同化できる。単なる情動表現によるシグナルを超えたさまざまなシンボルによる文化的進化は既に多くの人が記述しているとおりである。しかし、社会的同化に限って言うとそれは個人の完全な理解ではない。我々のシンボルによる知識は常に表層をなぞるだけであり、それよりも「信頼」こそが、つまり、他者を存在するがままに疑いなく受け入れる事こそが、重要である。それによって、他者の行動を正確に予見することができる。行動を共にし、共に生活すること以上に他人を理解する方法はない。しかし、近代における個人はその発達の方向性を選択することができ、生まれながらの共同体を離れて専門的知識の中に深く入ることになるから、年齢が上ると共に社会的同化もまた難しくなる。「付き合い」が苦痛になるのはそのためである。本当の処、ただ一緒に生活し無駄な時間を過ごすことほど、人間関係や人間らしさを取り戻す方法は無いのである。

    パブロフは、実験用のイヌを、過激な運動、長期に亘る過重な感覚刺激、睡眠の欠乏、正常な社会的接触からの隔離、怒りや恐怖などの強い情動的状態によるストレス、などに曝して、完全な虚脱状態においた。「超限抑制」(transmarginal inhibition)である。この状態でイヌは以前に学習したことを完全に忘れてしまっていて、新しい行動パターンを教え込むことが容易になった。人間の歴史では、このやり方を「洗脳」という。放置すれば独我論的孤立に陥り、社会的秩序が成立しなくなる事から、しばしば「洗脳」が個人的意味の社会的同化の手段として使われてきた。殆どの部族で見られる成人の儀式がその典型である。そこでは昼夜に亘る踊り、繰り返される音楽、過度の緊張を強いる冒険、墓地への行脚など、一旦今まで学習してきた社会的意味構造を忘却する為の儀式が含まれている。音楽は特に重要である。リズムパターンは次の音のタイミングを共有させ、導音から主音への動きは解決を予想して感情を同期させる。共に行動することは何者にも勝る社会的同化の手段である。幾つかの神経化学物質も知られている。オキシトシンはヒツジの母親の嗅球作用して、前回の子供の匂いを忘れさせて新たに生まれた子供の匂いを刷り込むのを助けている。発達プロセスにおいて社会的同化が失われると、自閉症に陥る。逆に同化が起きすぎるとウィリアムズ症候群に陥る。

    というような事で、この章には「洗脳」以外には取り立ててて新規な内容がなかった。全体の感想であるが、フリーマンは数学的記述を避けて、日常言語で表現しようとしているので、カオスダイナミクスがどの程度本質的に重要なものなのかが、具体的には伝わってこないし、脳神経組織においてどの程度実証されているのかもよく判らない。何しろ日常言語での表現の限界によるパラドックスを数学と精密な実験で乗り越えてきたのが物理学の歴史なのである。簡単には納得できるはずもない。もう少し勉強してみようと思うが、他の著述は翻訳されていない。

    吉田民人は生物学からプログラム改変による適応としての自己組織化という原理を得たが、カウフマンやフリーマンは生化学反応や生理学や神経科学や脳科学から、カオス的遍歴による適応としての自己組織化という原理を得ている。共通しているのは、主体とか志向性とか、つまり、生物は生きようしていて、その事を絶対的な前提条件に置いている、ということである。それはもはや再現することも、否定することもできない生物の来歴に依存しているから、自然選択による進化の結果として認めよう、ということである。ただ、その進化ということについてはある程度の仕組みが明らかになっている、というだけである。こういうプラグマティズムの哲学はよく判ったし、僕自身もかなり共感できる。そういう意味でも現状において世界を牽引しているのは良かれ悪しかれ確かにアメリカの文化なのだと思う。

    吉田民人は社会変革の為の科学として、プログラムに依拠しつつプログラムを改変する主体、という概念を生物学に見出して、神経生理学と心理学を再解釈し、社会学への適用を前に世を去った。分子レベルの現象に対しては、科学者が採る精密化や数値化の手法を無視して、概念的把握を行ったために、そういう大掛かりな整理が可能となったのではあるが、フリーマン流に言えば、それは直接的因果関係の連鎖として世界を把握しようとする試み、つまりアニミズムである、ということになるだろう。吉田情報論において、主体は主体として想定されるだけであって、語られない。機能として記述されるだけである。だから、社会集団を考えた場合にその主体を実体的には把握し辛い。社会におけるコミュニケーションのネットワークの中に「主体」が浮かび上がる、というのが理論的な立場ではあるが、吉田自身は社会の中の個人を想定していると思われる。工学は世界を制御しようとするからアニミズムであるが、科学はそうではない、とフリーマンは言う。吉田民人のプログラム科学も工学である。工学における「主体」は工学者であるから語られないが、科学における主体は科学者の外に居て、主体が解析の対象となる。だから、主体の起源を問わざるを得ない。フリーマンは主体の起源を神経系のカオスダイナミクスに求めた訳なので、社会を自己組織体として捉えるには到らず、せいぜい個人が他者とその意味機能を共有化する(同化する)という段階で留まっている。カウフマンは生命の発生から社会におけるカオスまで言及しているが、脳についてはあまり触れていない。つまり、相補的ではある。数学の一分野として始まったカオスダイナミクスではあるが、実は神経系はカオスらしい振る舞いを容易に観察できる系であり、格好の実験系として注目されている。

訳者(浅野孝雄)あとがき:

  フリーマンの理論(結果論的に言えば「認識論的独我論」)における仏教的要素について説明している。

(1)人間と世界の関係の全体をニューロダイナミクスでは「関係性」として、仏教、唯識では「空」として捉える。それらの概念は「相互依存性」(循環的因果関係、縁起、依他起性)に立脚している。

(2)人間の全ての思考・行動は志向性に依拠していて、脳・身体に埋め込まれた来歴がその発生源である。それは「アラヤ識」による、「身体化された心」という概念に他ならない。12縁起:無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→の循環に相当する。

(3)因果性の観念は外部世界に存在するのではなくて、我々の全ての知識を生み出す志向性のメカニズムの内に起源を有する。六処(感覚器官とその作用)の働きから生じる「触」は外界の認識対象(境)と感覚器官(根)と認識作用(識)の3者が結合する心の作用であるから、これが「同化」に相当する。12縁起におけるサイクルは思考の関係システムであり独我論であるが故に「空」である。

(4)人間の救済を可能ならしめるものは「意識」における「知恵」である。仏教でも「業」という決定論が齎す「苦」から脱却するためには、「如実知見」(あるがままを知る)が不可欠である。フリーマンは脳のカオスダイナミクスを知ることこそが「如実知見」である、と考えている。

(5)脳全体が状態遷移する度に、現れる短い停止状態(Null Spike)は「瞬間的な無」であり、そこに志向性と意味の全体性と新たな思考・創造の源がある。唯識における意識の刹那的な断滅の繰り返し(刹那生滅)に相当する。いずれも一秒間に数回とされている。もっともこれは測定機による観察と内省による観察が一致している、ということに過ぎないが。

(6)我々は正しく意識さえすれば我々自身の人格を形作ることが出来る。唯識においては、眼識からマナ識までの7識が生起し、識活動を行ったことが、意識下のアラヤ識に染みつけられる。これを薫習という。

(7)ブッダとその後継者の内でもヨガ行派は、教義さえも衆生救済のための方便として絶対的なものとは見なして居ない。これはプラグマティズムである。

    フリーマンが依拠するプラグマティズムについて、フリーマン自身からの手紙が紹介されている。プラグマティズムは、価値観については何も与えない。それは個人の来歴に依存するからである。むしろ、さまざまな価値観が如何に共存できるかを考える。歴史的にこのような思想はフェニキア商人達の間で育まれてきた。アリストテレスに起源を持ち、10世紀にアラビアの学者達によって、また13世紀にトーマス・アクィナスによって再興された。アメリカ大陸において、ヨーロッパ哲学の伝統(観念論と唯物論)が意識的に避けられたのは、ファシズム、共産主義、国家社会主義との闘争があったからである。最初の13の州の内、オランダの伝統下にあったニューヨークにおいて寛容な精神があった。ニューイングランドとペンシルベニアには理想主義、熱狂的信者、狂信者になりがちなイギリス国教会への反逆者が入居した。一方で南部諸州にはヨーロッパ的な貴族主義や領主の理不尽な権利や名誉の神聖さに拘る人々が入居した。南北戦争でこれらの対立が極に達して、その生存者が育んだ思想がプラグマティズムであった。現在でもオバマのようなプラグマティストと、キリスト教原理主義、妊娠中絶反対論者、全米ライフル協会、などの狂信主義の対立が残っている。

    自己と自由が脳の生得的なメカニズムから生み出される、というのがフリーマンの理論である。そこに「価値」はない。価値や意味は自らの行為によって見出すものであり、それを他者との調和において実現させるために自由が必要なのである。自己と自由は人類が普遍的に持っているが、古代ユダヤ教に到る民族の歴史の中で、神の支配と人間の自由が対立した。それが「ヨブ記」に描かれている。その後、キリスト教はヨーロッパの自由の伝統の中で神の支配と人間の自由意志を共存させるように妥協して生き延びた。これに対して、古代インドで生まれた仏教は自己と自由の観念を捨てなかった。神との契約もなく、教条も悟りに到る方便に過ぎない。仏教において自己は幻想に過ぎない。そもそも仏教はバラモン教におけるアートマンという支配者(自己)を否定したのである。にも関わらず自己に頼り、自己のみに生きる事が悟りへの道である。つまり、自己は絶対的なものではなく、絶え間なく変化するものとして捉えられている。「仮設の我」である。自己が形成した意味が社会の中で同化されて共有されたものが「法」である。法ですら結局は自己であり、普遍的でないから「空」である。自己に頼る事は法に頼ることであり、法は宙に浮いた観念ではなく具体的な個人としてしてしか存在しない。自己と他者を結びつけるメカニズムはフリーマンにおいては「同化された意味」であるが、仏教では「共行:先祖と社会から受け継ぎ、自らも付け加えている業(カルマ)」である。
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