第6章:意識、気付き、因果律

    意味のある状態というのは、身体と神経系の一つの活動パターンであって、それはカオス的遍歴をする生命体の状態空間における特別な焦点である。それは絶えざる学習と訓練によって細部が調整された神経間の結合によって作られているから、秘私的である。またそれは脳と身体の全体に広がり、統一性をもって部分を規定するし、目的意識に貫かれている。意味はまたその動物の行動の観察によっても経験される。気付きというのは志向的行為にとって必要ではないが、カオス的遍歴の境界での推移において経験される。これを現象学では心的経験として語る。脳のカオスダイナミクスと現象学での心的経験とは関係があるが、因果関係ではなく、局所的な対応関係である。

    心身問題は哲学で問題にされてきたが、擬似問題である。カントは物や出来事の世界と心の世界を峻別して、心は純粋理性であるという立場をとった。心は世界の表象である。フッサールは志向や観念や表象は世界についてのものであり、世界を経験することによって形作られるものと考えた。それらは意識の下にあるから、意識が志向に先行して存在することになる。そうするとあらゆる存在に意識が先行することになり、ホワイトヘッドやペンローズのように、宇宙に存在する全てに意識が伴うという見方に行き着く。ハイデッガーは社会や環境に取り組む行為を通じて現実存在が可能となるとしたから、志向性が意識に先行する。つまり行動は知覚に先行する。ピアジェも同じである。メルロ=ポンティは知覚を学習された行動の構造形成過程と捉えた。身体を何物かに向わせることが知覚である。こうして、志向性は行為によって世界に自己を突き出して自己を世界に適応させること、となり、これを志向性の弧という。メルロ=ポンティは気付きや意識については付随的なものと考えて深くは追求していない。しかし、それは何か?

    ヒトにおいて、刺激から学習された行動に到る時間は約1/4〜3/4秒である。リベットは巧妙な実験を行った。末端への刺激は脳幹内側毛帯を通って感覚皮質に到る速い経路がある。末端の刺激も、感覚皮質への刺激もそれへの気付きまでの時間は1/2秒程度であった。しかし、末端への刺激が1回で充分なのに、感覚皮質への刺激は気付くまでに1/2秒間の繰り返し刺激が必要であった。これらの事から、気付きのレベルにおいて時間の遡及が起きていることが判る。また、任意の行為開始が運動皮質で認められてからそれに気付くまでには1/2秒程度かかる。つまり、意識において、出来事の順序や時間が勝手に調整されているのである。

    因果律は3つの種類で考える必要がある。
(1)動力因には結果を引き起こす能動的な主体が必要である。直線的因果律。必ず始まりと終りがある。刺激→応答、原因→結果、独立変数→従属変数、である。そこには必ず時間的順序があり、時間の矢とも言う。実際の場面では1対1ということは殆どないので、統計的(確率的)因果律、多重因果律となる。また因果に方向性があるから、因果の連鎖もある。相関と因果は峻別され、そのために実験は余計な因子を出来るだけ排除して行われる。
(2)形相因は説明、合理化、批判、である。能動的な主体を必要としない。循環的因果律とも言われる。How?とかWhy?である。
(3)人間の主観的傾向としての因果律は唯名論で採られる。普遍的な概念や抽象的概念は心の中にしかない。そこでの因果律は心がどの程度必然性の感覚を持つか、ということであり、クオリアである。

    神経集団においては、ミクロ(個々の神経)からメゾ(神経集団)への直線的因果律が崩壊する。これはミクロにおける非線形相互作用のためである。ミクロ同士では直線的因果律があると考えられる。つまり、神経集団になった段階で循環的因果律を想定せざるを得ない。

    さて、意識の働きであるが、行為への準備から意図が意識され、行為の遂行から結果が意識される。しかし、自らの意図に拠らない結果については、他者の意図を想定せざるを得ない。これが因果律の必要性である。直線的因果律はアニミズムであって、言語以前の段階で世界と関わるヒトの意識を支配している。共同社会の中で、賞罰を伴う責任を問われる存在としてのヒトは直線的因果律無しには適応していけない。しかし、これを神経から心への因果律として適用するのは間違いである。かって、天球を動かしている動力因としての天使という直線的因果律が存在したが、それは天体観測と数式で克服され、天球は天球同士の相互作用で自発的に動いていることが明らかとなった。原子や分子の相互作用の世界から物性への直線的因果律は常に成立するとは限らないが、統計力学によってそれらを階層を異にする現象として考えるようになった。同じように、神経生理学者も神経の動力学と神経集団のカオス力学との階層の区別が必要である。

    脳の大域的振幅変調パターンは少なくとも気付きの基盤となっている、と考えられる。その機能は局所的で突発的な活動を抑制することである。脳があまりにも発達して複雑化したために、このような大域的振幅変調パターンを維持する必要が生じて、それに必要な遠距離軸索が出来たと考えられる。それは辺縁系から発せられる指令が基本的には情動へと向うのに対して、多くの社会的経験を蓄積した大脳皮質からの理性的抑制として働いている。それは、自由意志や更には自己意識の基盤となっている。

    こうして、非線形力学系の示すカオスが直線的因果律を破る結果として、自由意志が成立することになった。直線的因果律というのは、つまり制御可能性である。ある程度の精度で初期条件を規定すれば将来の状態が予測できる、ということである。カオスダイナミクスは決定論的でありながら、それが成り立たない。カオス現象自身はポアンカレの3体問題のあたりが起源であり、フラクタルと共に昔から知られていたが、制御可能性を失うわけだから工学的な有用性がない。そのために研究がされていなかった。むしろ、決定論的な背景を無視して確率論的ノイズとして平均化して扱えるような系だけに焦点を合わせてきた。統計力学でそのやり方が破綻したのは、相転位近傍の臨界現象であった。そこではノイズとして扱ってきた揺らぎが大きく発達し、スケーリング性を持つようになる。力学が表に出てしまう。平衡から離れた開放系でもそうであった。しかし、統計力学者はそれでも出来るだけカオスをカオスとして扱わないように誤魔化してきたし、そういう現象に限定してきた。神経集団を扱うにあたって初めてカオスと正面から立ち向かう必要が出てきたのである。考えてみれば、経済・社会現象においてもそうである。近代的な統計学の手法はカオスを正面から扱えていない。社会を制御できるものとして扱うからまずは直線的因果関係を想定し、そこから外れるものはノイズとして誤魔化そうとしているのである。というような感想を持ったが、実のところ僕はカオスダイナミクスについての勉強をしていないので、確信は無い。
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