2013.01.18

   3時頃出かけて、八丁堀の丸善本屋に行って、脳とカオスの本をいろいろ見て、林初男の教科書を買った。どちらかというと実験家であるが、今は海馬の神経集団モデルを作っている。この人によると、フリーマンの嗅球におけるカオスの発見は必ずしもカオスであるかどうかは認められていなくて、自分の発見した海馬のカオスが最初なのだそうである。もうひとり、脳とカオスについてやはり海馬についてのモデルも作っている津田一郎の「カオス的脳観」は絶版だそうである。この2人はお互いの文献を引用していないから、何かあるのかもしれない。近くに「やよい軒」があったので定食を食べてから、歩いてエリザベト音楽大学に行った。

    今日は煌(きらめき)の第8回コンサートである。大代啓二氏の指導するフルートオーケストラで、たまたま全員がパウエルのフルートを吹いていて、同じメーカーのフルートで合わせると良く合うだろう、というのが動機らしい。他の地域のフルーティストも集めてアメリカで演奏して結構好評だったらしい。その時にやはりパウエルフルートを吹いていた京都市交響楽団の清水信貴氏が参加したということである。今回は彼をソロに迎えての演奏会となった。まあ、こんなことを大代先生が途中で説明した。先生以外の13名は全員女性である。会場は300人弱の座席で立ち見も出る位であった。

    ところで、最初の曲は J.B.ボワモルティエの協奏曲ニ長調作品15-3である。大代先生がソロで、他はオーケストラをフルートだけでやる。これはちょっと頂けない演奏であったので先が思いやられたが、次の曲、F.クーラウのフルートトリオト短調作品13-2はとても良かった。リードしていた人はどこかで見たことがある、と思ったが、以前聴いたライフワンの講師(渡邉茜)であった。テクニックが際立っていて音も深い。あの時のバッハでの狼狽振りは何だったのだろうか。バッハはそれほどまでに難しいのだろうか?

    3曲目が S.メルカダンテという人の協奏曲ホ短調で、清水信貴氏がソロを取った。背が高くて顔つきが細くて顎が出ていて、如何にもフルート向きである。改心したメフィストフェレスみたいである。何だかオケ側のフルートの気合が最初から違っていた。清水氏の音は清冽で強い。音が最後までぶれない。フルートの演奏の印象を決めるのは音の立ち上がりであるが、それ以上に音の終わり方である。当然小さくなっていくのであるが、どうしても音程が下がってだらしなくなりがちであるし、息継ぎでもしようとすれば途中で切れる。清水氏の音は終わり方が美しい。バロック後期から古典派に移行する途中に宮廷で流行した多感様式の曲で、似たような感じのフルート協奏曲が数多く知られている。単純ではあるが、感情的で勢いがある。昔よく聴いたマクサンス・ラリューの演奏を思い出した。もっともラリューような気品は無い。これがアメリカのスタイルだろう。アンコールにソロでバッハのイ短調のソナタから Boure Anglaise を吹いた。なかなか渋い演奏であった。この曲のややおどけた感じを強調していたが、それだけでなくやや不自然な感じも受けた。やはりバッハは演奏者に緊張を強いるものらしい。休憩中にサイン入りのCDを購入。。。

    休憩後の3曲は現代曲である。J.ラウバーという人の「コルシカ島の幻影」 作品54 はなかなか面白い。描写音楽みたいだった。マキ(孤独)はそんな感じだったし、エヴィザ(春の装いに包まれて)は明るい感じ、瞑想曲(ピエナの入り江)では、波が立っているような感じの繰り返し音形に乗ってゆったりとした流れるメロディーがあったり、水の中に沈んだり浮いたりする感じの音階があったりして、実に面白かった。最後のコルト湾の城壁では、ピッコロが入って、切り立った岩の感じを出していた。このトリオも演奏が素晴らしかった。

    次の曲はL.ロレンツォという人の幻想的奇想曲「牧神の弟子」という曲で、4人での演奏であったが、なかなか難しかったし、聴くのがつらくなってきた。6曲目はドビュッシーの夜想曲から「祭」で、14人全員である。相当疲れてきて目を瞑っていたら、いつのまにか終わった。うーん、やはりフルートだけのアンサンブルはどうしても聴きつかれる。最後に「星条旗よ永遠なれ」を楽しそうに演奏してお仕舞い。砂守生子さんのピッコロが素晴らしかった。ピッコロらしい高い音も良かったが、低音部の曇った感じの音との対比が効果的であった。会場から出るとき、清水氏が居た。聴いていたのである。それほど背が高いようにも見えない。舞台で映える人なのだろう。

    帰りの電車は一日働いて疲れた人達で満員であった。西区や佐伯区や廿日市から街中に通勤する人達である。電車で30〜40分程度。
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