埼玉県北部と群馬県のルート

東山道武蔵路のルートとして、東京都府中市から埼玉県川越市までは発掘調査や「古代交通研究会」の多角的な調査により、ほぼその推定ルートが固まりつつあるようです。しかし、川越市以北から利根川を渡るまでの間は推定ルートの調査はあまり進んでいないもようです。中でも坂戸市から熊谷市までのルートは、専門の研究者の方々にも国道407号線と並行するようなルートとしか想定されていないようです。

かっては東山道武蔵路のルートは研究者によって様々に考えられていたようです。下総国を廻っていた説や、古利根川沿いを通る説や、大宮に駅家が想定され大宮を通った説などがあったようです。また『続日本紀』の宝亀2年の五ヶ駅を群馬県邑楽郡千代田町の地名の五箇駅として解釈しそこを通ったとする説などもありました。

現在では古代駅路は幅12メートル前後の直線道路という特徴がわかってきています。そして木下良氏を中心として「古代交通研究会」の調査結果が一般的に知られています。東山道武蔵路については木本雅康氏の研究による想定ルートが注目されていて、その想定ルートは「東京都内のルート」と「埼玉県南部のルート」として私も参考にさせてもらっていました。そして埼玉県北部と群馬県のルートもほぼ木本雅康氏の想定ルートを参考に説明させて頂きます。

吉見町で発掘された古代道
そんな最中(2002年2月20日)で朝日新聞の西埼玉版覧に「古代の官道と橋脚跡 吉見で出土 多彩な土木技術」という見出しが載っているのを見ました。そして24日に遺跡の現地説明会が行われ見学して参りました。その遺跡の発見された位置は以外にも木本氏の想定ルートよりも東寄りで、更に方向性も北北東を目指しているようです。その方向を延長すると熊谷へは出ず行田へ向かうようです。

吉見町で発見された古代官道と思われる遺跡は以外にも低湿地帯を通っています。古代官道の遺跡としても低湿地帯は類例が少なく。研究者の間でも注目されているようです。ただ、従来想定されていた所沢市から坂戸市までのルートがほぼ直線でトレースできるの対して、今回発見された吉見町の遺跡にそれを繋げるとなるとどこかで方位の変更が必要になりそうです。

吉見町の遺跡の詳しい内容はこちらをご覧ください。

西吉見条里2遺跡

東松山市古凍のおくま山古墳(熊野神社古墳)

坂戸市から熊谷市までの東山道武蔵路のルートは、国道407号線に並行するように通っていたと考えられています。しかし、その詳細はわかっていません。上の地図は作者が資料を基におおまかに描いたものです。点線であることは実際のルートではなく、このようなルートが考えられるという程度のものです。作者の素人的想像で描いたもので、古代の史跡を繋いでみたり、中世の鎌倉街道を参考にしたものです。

それに対して細かい点線は研究者が実際に指摘しているルートですが実証できるまでには至っていないようです。下の群馬県側の地図で実線で描いているところは発掘調査などで道路遺構が検出され、ほぼ推定ラインとして考えることができる東山道の本路ルートです。

東松山市周辺の古代史跡
東山道武蔵路の所沢市から川越市の想定ラインを北へ延ばすと国道407号線沿いを東松山市、大里村、熊谷市、妻沼町そして利根川を渡り群馬県太田市へと向かうことになりそうです。

そのライン上の古代の史跡としては、東松山市下野本にある将軍塚古墳があり、全長115メートル及ぶ県内有数の大きさを誇る前方後円墳です。そして、その北には有名な吉見百穴があり、更に北に向かうと七世後半頃のものと思われる大谷瓦窯跡や大里村の6世紀後半の築造と考えられている前方後円墳のとうかん山古墳などが見られます。

このように国道407号線沿いには古墳時代から奈良時代の史跡が見られ、この付近の比企丘陵は古代から人々の交流が多かったところと考えられそうです。

熊谷市の直線道
木本雅康氏によると熊谷市街以北に直線的な現在道が存在し、そのライン上に群馬県歴史の道調査で指摘されている「植木」の小字名が存在していて、更に「御霊の渡し」と呼ばれる旧荒川の渡河点なども見られ、この直線道が東山道武蔵路を踏襲した道ではないかと想定されています。

奈良神社
奈良神社は幡羅郡の式内社で、名前から奈良の都との何らかの関係があると思われています。奈良神社の神威として次のような云われがあります。
「奥州で蝦夷の反乱があったので、これを征討するために奈良神社の神霊を奉じて出兵し、転戦しつつ進んだが、向かうところ敵なしの状態で年老いた者や体の弱い者も同行したがご祭神のおかげで、全員無事であった」

奈良神社が想定東山道に近接することは注目されると木本氏はいい、東山・東海道の連絡路としての機能をもった武蔵路は、蝦夷征討と密接な係わりがあるものとしています。

熊谷市中奈良の横塚山古墳
妻沼町台の白山神社と大字境の道
妻沼町利根川堤防沿いにある八幡神社

横塚山古墳
奈良神社近くの国道407号線(妻沼バイパス)の道路端に横塚山古墳という前方後円墳があります。五世紀末頃に造られたと考えられていて、周構内から埴輪が出土しているそうです。この古墳の周辺は水田になっていて他の古墳は見られませんが、付近からは埴輪片や土器片が採集されていて、かっては古墳群があったと考えられています。この古墳と奈良神社は何か関連したものがあるのかも知れません。

利根川の渡河点
東山道武蔵路は利根川をどの辺りで渡河していたのか、現在では妻沼町の刀水橋付近を想定していいる説が有力視されています。この橋の付近は近世には「古戸の渡し」と呼ばれれる渡し場があったといいます。古戸は「古渡」で近世には既に古い渡しであったことを意味するそうです。また、源義家が奥州征討のさいに、この付近を渡河したという伝承があり、『源平盛衰記』に出てくる「長井の渡」もこの付近に考えられているようです。上野の新田駅から古戸を渡って武蔵国府に向かった駅使は再び古戸を渡りその後足利へ向かうことになるのです。

刀水橋の南の妻沼町には、かって妻沼と男沼という二つの沼があったそうです。その間には「台」と称する微高地が伸びていて、台の集落付近が武蔵国府から数えて五番目の駅家があったと想定されているようです。

妻沼町の字境の道
妻沼町の台と妻沼の大字境に直線的な現在道が存在しています。この道を南に延ばせば奈良神社近くを通り熊谷市街へと向い、北は利根川の自然堤防沿いに源頼朝が那須に巡行するさいに祀ったと伝える八幡神社があります。木本氏はこの大字境の道が東山道武蔵路を踏襲した道と考えられていて、この道沿いに白山神社(両方の御旅所)があり南面していて、更にその神社から東の妻沼に白髪神社(女体社)があり西面していています。その反対の西の男沼に神明神社(男体社)が南面してありますが、この神社は以前は東面していたといいます。この三つの神社の配置から大字境の道は重要な意味を持っていたものと木本氏は説明しています。

利根川に架かる刀水橋の群馬県側は西に石田川が北西から流れ込み、東には小河川が北東から流れ込んでいて、ちょうど逆三角形のように張り出した台地になっています。この台地の先端が群馬県側の渡河点と考えられています。その逆三角に突き出た台地の中央を北に延びる道が存在します。その道は太田市と大泉町の境になっていて、この道が東山道武蔵路ではないかと考えられているようです。

足利への道
太田市と大泉町の境の道はその先で北東方向に向きを変えます。この北東方向の道が東山道の足利駅へと向かう道と見られているようです。この道は途中に大泉町古氷を通過しますが、大泉町古氷は邑楽郡家があったところと想定されていて土師器片や須恵器片が濃密に分布しているそうです。また古氷には長良神社があり『上野国神明帳』邑楽郡の正一位長良神社に比定されています。

この道は大泉町古氷までしか現在していませんが、この道の延長ライン上に近接して太田市竜舞の賀茂神社が存在し、この神社は『上野国神明帳』山田郡の従三位加茂明神に比定されています。

そしてこの道の延長ラインは足利市の国府野遺跡に達しています。国府野遺跡は足利郡家の可能性が高いと考えられている遺跡です。また遺跡の付近には東山道足利駅があったことも想定されているようです。

古戸から新田への道
一方利根川を渡河した後に新田駅方面に向かう東山道武蔵路は以前から群馬県教育委員会の歴史の道調査で確認されている明瞭な道路痕跡があります。その道路痕跡は太田市と大泉町の境の道が北東方向に折れる付近に接続していたものと考えられています。

太田市の下浜田町には古戸から新田駅方面に向かう斜めの現在道が存在しています。この下浜田の微高地の斜方位道沿いに伊佐須美神社があります。伊佐須美神社は朝廷の古代陸奥経営に係わり深い神社で陸奥国から勧請の伝承があるそうです。上野と陸奥との係わりは東山道を介することを意味付けられます。

この斜方位の現在道の延長ラインは太田市脇屋から新田町小金井へと達していて、松尾神社付近で東山道の本路に合流することになるのです。

東山道、牛堀・矢ノ原ルート
新田町小金井から村田にかけての新田掘用水は、近年発掘調査が活発に行われた東山道の牛掘・矢ノ原ルートの東延長上に存在し、この間の新田掘用水は東山道の北側側溝を後に転用したことが判明しています。

東山道の牛堀・矢ノ原ルートは伊勢崎市から新田町まで12キロほどが直線道であることが知られていて、武蔵路との分岐点以東も道が続いていることが調査されています。

入谷遺跡
新田町村田と小金井の新田掘用水の北側にある入谷遺跡が調査されていて、基壇を持つ総柱建物跡が2棟と、その建物を囲む約180メートル四方の溝などが確認されています。建物跡は瓦葺きで瓦や出土した土器の年代から、この遺跡が7世紀後半から8世紀後半まで存続したことが推定され、新田駅に関連した遺跡ではないかと考えられています。

下原宿遺跡
新田町村田の新田掘用水の南への屈曲点から新田掘用水と同じ方位で西に伸びる現在道が存在します。この道はやがて市野井でT字路となり終わっていますが、そのT字路の西の空き地が下原宿遺跡の発掘現場で、南北側溝間の心々距離13.3〜13.7メートルの遺構が確認されています。側溝の北側がT字路から東に延びる道と一致し、更に新田掘用水と続いていたことがわかります。

新田町小金井の新田掘用水
新田町村田の東山道北側溝上に現在する道
新田町市野井の下原宿遺跡の発掘地

武蔵国は『続日本紀』の中で宝亀2年に東山道から東海道に所属替えされていることは何度も語ってきました。宝亀2年以後は東山道は武蔵国府へ向かう必要がなくなったわけです。そのことは上野国新田駅から下野国足利駅へ直接向かうようになったのです。

ここで上野国の東山道本路と推定される、牛堀・矢ノ原ルート以外の道路遺構を上げて置きます。新田町市で調査された下新田遺跡は牛堀・矢ノ原ルートの北500メートル付近に並走する道路遺構が検出されています。両側溝間の心々距離12メートルで硬化面も確認されています。この道路遺構の時期についてはハッキリしていないようですが、天仁元年(1108)の浅間噴火以前の遺構であることはわかっているようです。

この下新田遺跡のルートの東延長上に新田郡家に推定される天良七堂遺跡があり、その付近には新田郡寺と推定される寺井廃寺も存在します。この500メートル北の道路遺構と牛堀・矢ノ原ルートの関係はわかっていないようです。何故そんなに離れていない付近に幅12メートル前後の道が二つも存在したのでしょうか。今後の研究でその謎が解明されるのを待つのみです。

おわりに
ようやく東山道武蔵路の旅も終わることになりました。思えば東京都国分寺市の保存された東山道武蔵路を見てから鎌倉街道とは違う古代の道に興味を持ち、番外編としての東山道武蔵路を作成するまで新しい発見が幾つもありました。最後に群馬県の新田町にやって来て一つ驚いたことがあります。東山道の側溝跡と考えられている新田掘用水はその東で生品神社の境内を流れていたのでした。生品神社は新田義貞が討幕のときに旗揚げを行ったところです。鎌倉街道を旅する者として何時かは尋ねる予定でしたが、以外にも東山道武蔵路という古代の道の旅で、生品神社に辿り付いてしまいました。

鎌倉街道のホームページを作成している人間が、古代官道の旅を追いかけていたら、鎌倉街道に係わり深い生品神社に辿り付いたことは、何か因縁めいたものを感じないわけでもありません。私は生品神社の大きな鳥居の前で新田義貞が活躍した時代には東山道武蔵路は断片的にも存在していたのだろうかと、ふとそんなことを考えているのでした。
新田義貞は1333年にここから鎌倉を目指して旅立ったのです。何故か私には稲村ヶ崎の光景が頭の中に浮かんで来るのです。キラキラ輝いた波が瞼の奥に写るのでした。