道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 所沢・堀兼並道  ◆◆◆◆◆◆

堀兼道の並道

所沢市内の県道所沢狭山線の所沢中学校前付近から斜めに北へ分岐した堀兼道は、所沢市神米金のネオポリス西信号から、二本の並行した道になります。現在、東側の道が車道として使用されています。東側の車道から、おおよそ15メートルから20メートル離れた西側には細い2~5メートルほどの幅の道が並行して、堀兼の変電所入り口辺り(総延長約1.5キロメートルほど)まで続いています。

所沢下富の堀兼道並道の東側の道

堀兼道並道の東側は本道と考えられていて、現在は拡張され車の往来の多い道となっています。それに対して、西側の道は、所々で未舗装箇所があり、道幅も狭くほとんど車は通りませんので街道歩きにはもってこいの散策路となっています。近住の人がジョギングをしたり、自転車を走らせたり、犬を散歩に連れて歩いている人などが通ります。フラワーヒルから北の並道は、所沢市の下富と狭山市の堀兼、及び所沢市の下富と狭山市の加佐志といった入り乱れた境界をなしています。地図を見てもらえばその複雑な境界線を理解していただけると思います。何故このような行政区分になっているのかはわかりませんが、歴史の中に埋もれた秘められたものを感じずにはいられません。

堀兼道並道の西側の道

東側の道と、西側の道の間は雑木林になっていて、ところどころには人家が建っていたりします。ところでこの二本の道は、何を意味しているのでしょうか。歴史の道調査報告書には、「東側の道が街道の本道で、西側の道は、身分の低い人が通った鎌倉街道だとの伝承が残っている」、と書かれています。中世の鎌倉街道にこうした道が存在したのでしょうか。江戸時代の五街道にしてもこのように身分で道を分けたという話は聞いたことはありません。街道の建設や整備だけでも大変でしょうに、手間をかけて身分の違いの道を、わざわざもう一本増設するということは如何がなものでしょうか。謎はますます深まるばかりです。

堀兼道並道の西側の道と林の奥に東側の道

身分によって、街道を二つに分けたという伝承があるということですが、何故ここにだけあるのか。取り分けこの付近の土地が特別な意味合いがあるようにも思えません。北倉庄一氏の書かれた『中世の道・鎌倉街道の探索-東京近郊の「鎌倉街道」を訪ねて-』で、氏が言われるように、二本の道が何故ここだけに造られたのか、或いは残ったのかと、興味は尽きません。

東京都の府中以南、いわゆる多摩丘陵地帯は、都市化や区画整理等が進み土地開発前の遺跡発掘が多く行われています。その中で鎌倉街道及びそれに類すると思われる道路遺構なども発掘されています。それらの遺構の中には古代から中世、そして近世に至る長期間使用された複合道路遺跡が認められ、同じ地点でも長い年月に何次期にも渡って道路が造り変えられていたという例があるようです。

堀兼道並道の西側の道

この堀兼道並道について鎌倉街道の案内本に、詳しく取り上げているものは多くありません。ですから多くの方に鎌倉街道堀兼道を知ってもらいたく思っています。そして注目して頂きたいことがあります。比較的新しい鎌倉街道の案内書である、北倉庄一氏の本に堀兼道のことが次のように書かれています。この道が直進性があり、街道の規模にしても本道に劣ることもないことから、上道の支道ではなく、鎌倉街道の前身とされる古代の東山道武蔵路ではないかと取り上げられているのです。

堀兼道並道の西側の道

堀兼道並道も狭山市堀兼の東電南狭山変電所の前辺りで、西側の道は消えています。ここまで来ると、堀兼の井戸のある、堀兼神社の森がすぐそこに見えています。下の写真から少し手前には河岸街道と交わる交差点があり、その交差点の角に文政10年(1827)の馬頭観世音の道標があります。「東古市場道、西八王子、三ヶ嶋道、北川越道、南所沢、江戸道」と刻まれていて、江戸時代にも堀兼道が使用されていたことがうかがえます。またこの辺りは通称「おはやし」と呼ばれているところです。そしてこの近くに、あまり知られてはいませんが、東西の道の間の民家脇に、半ば土に埋もれている無名の井戸跡があります。堀兼の井戸のような漏斗場の遺構を留め、かなり大きなものです。現在も残る堀兼神社境内の堀兼の井戸の二倍はあるものと思われます。

堀兼道の堀兼神社の南辺りの本道

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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