古代の交通制度

古代の中央集権体制である律令制は7世紀後半から10世紀半ば頃までの律令その他の法に基づいた公地公民制を基礎とする支配体制です。それは「大化の改新」後に始まり、天智朝の近江令、天武・持統朝の飛鳥浄御原令、をへて文武朝の大宝律令によって完成されました。

古代の律令国家は全国を五畿七道と呼ばれる地域に区分していました。
五畿は畿内ともいい、山城、大和、河内、和泉、摂津の諸国で、七道は東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海の諸道で、これらは地域の呼称であると同時に都からのびる道路の名称でも使われています。

奈良時代の末期頃の行政区分

大宝元年に(701)に制定された大法律令と、その後部分改修された養老律令(718)に、駅制・伝馬制の古代の交通制度が規定されています。

駅制(えきせい)
駅制は中央と地方の情報伝達のために設けられた緊急通信制度で律令制に明記された交通制度です。
駅制を使った情報伝達には、特定の使者が最終目的地まで赴く専使(せんし)方式と、文書などを駅ごとにあるいは国ごとにリレーで送っていく逓送使(ていそうし)方式がありました。8世紀頃は逓送方式が取られ、専使は、使者本人の口から文書の補足を必要な場合などに派遣されていました。しかし、逓送方式の信頼性が失われていき、9世紀後半以降は、専使方式が中心となるようになりました。駅使(えきし)の行程は、緊急の場合は一日10駅以上、普通でも一日8駅以上とされていたようです。

駅路(えきろ)
駅路は都を起点に都と地方を結ぶ路で、古代の交通制度である駅制で使用すると規定された官道です。駅路は五畿七道のうち山陽道と西海道の一部(都から大宰府)を大路、東海道・東山道の主道を中路、その他を小路と三段階にわけています。

駅家(うまや・やくか)
駅路には、30里(約16キロメートル)ごとに駅家が配置されていました。ただし山間部など駅家が置けない場合など30里という規定の距離は柔軟に変更されています。また重要な路線の駅家間距離は短くされていたりもします。(この時代の一里は約550メートルで江戸時代の一里とはことなる。)

駅家は公務旅行者に乗用馬、宿泊、休憩、食事などを提供する施設です。駅家には駅馬(えきば・はゆま)が置かれ、大路では20匹、中路では10匹、小路では5匹とされていました。

駅馬は、群と諸国の間の緊急連絡、公文書の伝達、特別の要務による官人の旅行などに用いられ、その利用にあたって使者は利用証として駅鈴(えきれい・やくりょう)を携行するきまりがありました。駅鈴は、使者の位階によって剋(きざみ)数がことなり乗用の駅馬の数が示されます。剋が多ければ利用できる馬数が多くなることになります。

駅家には駅戸(えきこ)を配置し、駅戸から駅子が出て駅馬の飼養やその他の駅務に従事します。駅戸の中から駅長を一人任命し駅家の管理にあたらせています。駅家は全体的には国司の管轄下にありました。また駅家を維持・運営するために、駅田(えきでん)を置いて駅稲を当てて財源としています。

伝馬制(でんませい)
伝馬制は以前はその史料が少ないことから研究があまり進んでいなかったようですが、最近の古代交通制度は駅制と伝馬制の二重構造からなっていることが重要視されるようになってきていて、新たな研究が進められているようです。
伝馬制は中央から地方へ派遣される使者を迎送する交通制度といえます。(駅制は文書などの情報の交通を主としている)

各郡の郡家(ぐうけ)に5匹ずつの伝馬を常備し、郡家周辺の戸に伝馬を飼わせています。そして伝馬子を徴用して、使者(伝使)の迎送にあたらせます。
郡家は、伝馬を利用する使者が宿泊、休憩、食事などの提供を受ける施設で、その費用は郡に貯えられた郡稲をもって当てています。

伝馬制の使者には伝符(でんぷ)が受けられることになっていて、伝符にも使者の位階に応じた剋があり、剋数によって利用できる馬の数が決まっていました。

伝符は基本的には中央政府と大宰府のみに配備されていて、そのことから伝馬制は中央から地方へ派遣する使者専用の交通制度と考えられています。

しかしそのことがらから、本来考えられてきた伝馬制は地方の豪族の固有の交通制度を再編成したものであるという解釈からはやや異なるとして、新たに「伝制」という用語が使用されるようになってきています。
伝符を要した中央政府からの下向の使者と、伝符が発給されない使者のための制度ということで、伝馬制と区別するものとして出たのが伝制でです。(律令では伝馬制のみの規定がありますが、地方の郡などの交通制度としては伝制が従来の自然なもので、郡側から見れば、伝馬制も伝制の一部といえます。)
しかし伝制は史料用語には存在せず、あくまでも近年の古代道の研究の学術用語であわけです。

伝馬制と伝制の区別は素人の私などには極めてややっこしいもので説明不足があると思われ、詳しく知りたい(調べたい)方には参考資料の書籍等を参照されることをお勧めします。

最後に、古代の道路には一般的に「駅路伝路」があるということを書きとめておきます。駅路は先に説明した中央政権の下で駅家が置かれた道をいい、伝路(本来は伝馬路と区別するのが正しいのかも知れませんが、伝馬路そのものが具体的な路線として把握できていないためか、それを含めて伝路と呼ぶことが多いようです。)は伝馬制の道と伝制の道を含めたものをいいます。