東山道武蔵路  その1

東山道武蔵路は古代官道である東山道が上野国から武蔵国府に立ち寄り、再び下野国に戻る支道で、当時駅路と呼ばれる道で、現在一般に武蔵国を通る東山道の支道ということで「東山道武蔵路」と呼ばれている道なのです。
以前は古代の道といえば自然発生的な道を多少発展させた程度の道と考えられていましたが、近年の考古学の道路発掘の進展により、側溝をともなった幅広の直線道路であることが判明してきています。国分寺市の旧国鉄中央学園跡地内から340メートルにも及ぶ遺構が発掘され、指定地区では総延長約490メートルにわたり道路遺構が確認されているということです。国分寺市のこの道路遺跡は古代道路の研究に新たな道路変遷の遺構を検出しています。

ここで紹介させて頂いている発掘当時の写真は相互リンクさせて頂いている安島喜一様が遺跡見学会の時に撮影されたもので、厚意により提供頂いているものです。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

平成7年(1995)に国分寺市の泉町にあった旧国鉄中央学園跡地から幅12メートル・長さ340メートルに及ぶ直線の道路遺構が発掘され話題になりました。
それ以前にも南北道路の存在を伺わせる遺構は市内の別の地点で確認されていましたが、300メートル以上もの遺構で、しかも4期にわたる変遷が確認されていて、全国でも珍しい遺跡であることが判明しました。
左の写真は調査地の北側から南方面を撮影したものです。遺構の大きさや直進性が見て取れます。また第四期の道路面が左にカーブしていくのが確認できます。
左の写真は遺跡の発掘当時のもので、左半面のビルは現在の西国分寺駅付近のビル群です。このビルの下手前に府中街道が通っています。こう見てみると遺跡がかなり大きなものであることがわかります。
現在のこの位置からはその後に新たに建てられたマンション群に遮られて、西国分寺駅付近のビルは臨むことは出来ません。
右の写真は現在の第四小入口交差点付近から、整備保存された東山道武蔵路を南から北側を撮影したものです。中央の大きな桜の木は発掘調査当時の写真にも見られ、遺跡が整備される中で祈念に残されたもののようです。保存空地の茶色のアスファルトの東西の端には黄色く塗られた線が見られますが、これは発掘当時の第一期道路遺構の側溝位置と状態を示したものです。
右の写真は上のものとは逆に北側から南側の第四小入口交差点方面を撮影したものです。黄色い線は発掘当時の西側側溝を平面再現したものです。アスファルトの地中に遺跡が保存されているわけですが、幅15メートルほどのこの空間は現地に立つとかなり広いものです。この側溝を含めた幅は現在の府中街道の2倍ちかくはあるものと思われます。長さが400メートルほどあるということですから、かなりの広い空地であるわけでして、多目的広場としても有効な空間です。
上の写真は発掘当時のもので、遺跡の中程から北側方面を撮影したものです。
当初検出された道路遺構は、全長330メートルで、その後の調査範囲の拡張で340メートルの長さになりました。遺跡の中央部は野球場跡で表面が大幅に削平されていて、ローム層がむきだしになっていたそうですが、側溝の底面は辛うじて破壊を免れ、遺跡の直線的イメージは損なわれていなかったようです。
ここで発見された道路遺構と発掘調査で断片的に確認された道路遺構を繋げると府中市分梅町から北へ2度東の方位で北行し、両側溝間の芯々距離12メートルの古代道路状遺構が、国分寺市東恋ヶ窪まで4.5キロメートルにわたり一直線に通っていることが判明しました。
上の写真は現在のもので、黄色い不規則な帯は発掘当時の東側の側溝を平面再現したものです。アスファルトの下に地中保存されているために、このように整備されているわけですが、一見味気ない風景に思われる方もおられると思います。しかし道路遺構の大きさや直進性は現地に立つと圧倒され迫力が十分にあります。ここに古代の道路があったんだなあと実感できました。
私は中世の鎌倉街道を訪ねてまわっていますが、古い街道跡が日々破壊されたり、道路の拡張整備などで昔の面影が失われていくのを見て大変残念に思っています。そんな中でこのように東山道武蔵路が保存整備されているのを見て、現在残されている鎌倉街道跡や街道伝承の残る道を保存ないしは整備して残して頂けることを願ってやみません。

東山道武蔵路
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