利根町の鎌倉街道・・・・その6

大きな木がある塚のところからは、道が二つに分かれています。右の写真は塚から北へ折れて山の尾根の先端へ向かう道で、この道が鎌倉街道のようです。現在この道はこの先で行き止まりになってしまっています。写真を見て頂けるとおわかりのように道の中央に、ふじのツルが降りています。子供たちは足をかけて上ったり、ぶら下がったりして遊んだそうでが、そんなところはやはり子供ですね。小学生たちは2学期に修学旅行で鎌倉の朝比奈切通を歩いてきたそうですが、そこでも垂れ下がっていたツルがあり、ぶら下がってターザンのように遊んだといっていました。

街の中では見ることができない不思議なふじのツル
ふじのツルを近づいて見てみると、なかなかしっかりしたもので、何となく捕まってみたくなるのも頷けます。このツルは利根町の鎌倉街道の名物でもあるようです。

鎌倉街道は不思議がたくさん
鎌倉街道にはへんな木があった。

自由探検で洞窟発見
探検の帰りにどんどん降りていってみると、そこに洞窟みたいな穴を発見した。

子供たちにとっては鎌倉街道はめずらしいものの発見場でもあったようです。

道に沿った不思議な平場
右の写真を見てください。ちょっとわかりずらいかも知れませんが、私も不思議なものを発見しました。尾根の先端へ向かう道の脇には、一段低くなったところに、細長い道と並行した平場が見られます。ここは明らかに削られて平にされたものです。これはいったい何なのでしょうか。あるいはかっての道跡か? 聞くところによると鎌倉街道沿いは、以前には畑になっていたといいますから、これがその畑跡なのか? しかし、この細長い平場は畑跡と考えるには無理が感じられます。狭くて陽当たりがわるいのです。畑跡はその広さから、途中の大く広いところや竹林の平場がその可能性として考えられます。

左の写真は利根町の鎌倉街道の東端の尾根の先端部近くを撮影したものです。人が行けるのもここまでです。ところが、文間小6年生とその先生は、何とここから藪の中を通り、この先、下まで降りていったそうです。先生は次のようにいっていました。
「今は竹が切り倒されていて歩ける道はないのだが、そう遠くない昔には、地元の人達がこの山に入るための道が確保されていたのに違いない。なんせ、ここで畑を作っていたというのだから。」
鎌倉街道が押戸の船着場まで続いていたというならば、写真のところから尾根伝いに降りていったと考えられるのです。

ここまでが鎌倉街道なら、ここで行き止まりということはないはずです。子供たちと先生の、その推理は鎌倉街道のホームページの作者である私からみても、これはかなり的を射た本格的な推理で、あっと驚かされてしまいました。ここを下りたということは、かなり危険な行動であり大変勇気をともなう探検です。話を聞いていた私の方がハラハラしてきてしまいました。

古道跡を連想させる尾根の窪地
ところで上の写真を見てください。私がすごく気になるのは、尾根の行き止まりの先端部の道の中央部が窪んでいることです。鎌倉街道の特徴である堀割状遺構を思わせる窪みなのです。各地の鎌倉街道を見てきた私は、鎌倉街道が台地に上がる部分、或いは台地を降りる部分には必ずといっていいほど、切通しの跡である堀割状遺構が見られます。その堀割状遺構を連想させる道跡の姿が最後の最後で見られたのです。そしてこの窪地状の尾根と並行するように、前記の細長い側道のような平場が途中まで確認できるのでした。この尾根の行き止まりから先へ、実際に道が続いていた可能性はかなり高いと思われます。

押戸は昔は港であった
右の写真は、行き止まりの尾根上のところから、押戸の集落を撮影したものです。集落の向こうには広い水田が広がっています。かってこの水田には霞ヶ浦から続いていたという「香取の海」が存在したのでしょう。そしてこの押戸から船で、向こうに見える竜ヶ崎の台地まで渡って行ったと思われるのです。

押戸の名の由来
押戸の「戸」は昔の港という意味。押戸は昔、沼地だった。竜ヶ崎に行くには港を使って行くしかなかった。押戸のその前の名前は「押手」。押手とは舟を押し出す人のことで、その人達がそこに住んでいたからそう呼んだ。

古い文献に見られる「押手」の地名
押戸の地名は古くからあったようです。鎌倉時代の文献で『関東下地状』というのがあり、相馬胤継の三女子で島津久恒に嫁いだ「妙智尼」に、母の所領を継承させるという内容のところがあり、その所領に「文間郷内押手村」と記述されているそうです。上記の子供たちが調べたとおり「押手」という地名はこんなところからも見られるのです。

利根町周辺や千葉の我孫子市手賀沼に接した辺りには「戸」の字がつく地名が多く見られるそうです。「戸」はまた「津」を意味して船着場とかかわりあいのあったところと考えられているようです。もと文間村役場のあったところからは、奈良・平安時代のものと思われる土器片などが散乱する砂質の畑があって、この押戸は古代まで遡る古い集落であったことが想像されるのです。

尾根上の行き止まりのところから一端、シイの木がある塚のところまで戻ります。そこから二手に分かれた、もう片方の道へ向かいます。道はすぐ竹林の中の下り坂となり、やがて根本寺(こんぽんじ)の墓地の中へ降り立ちます。急な下り坂は街道ではなく、お寺へ下りる道のようです。この坂を下りてしまえば森の中の鎌倉街道も終わりです。たった700メートルの道でしたが、ずいぶんといろいろなものを見ることができました。
「鎌倉街道!、何だ、何もないじゃないか」と思われた方は心の視野が狭い人で、ゆとりのない生活を送っている方かも知れませんよ。ホームページを見ているあなたはどうでしたか。

左の写真の巨木はスダジイです。根本寺から上がってくる坂道の途中右手にあるものです。

坂の途中にある巨木
根本寺から上がってきた右側のスダジイの木の股には「ギンナン」の実があった。何かの鳥が運んできたのだろうか。また、タヌキの「ためふん」らしき物があった。タヌキがいるのかも知れない。墓の前には足あともあった。犬の足あとよりもツメがするどい。

子供たちは鎌倉街道が通る森の自然を大変良く観察しています。おそらく大人よりも植物や鳥と動物のことを知っているものと思われます。鎌倉街道の森にはフクロウがいるそうです。子供たちと先生は冬の最中の夜にフクロウの鳴き声を聞きに行ったといいます。私はほんとうにフクロウがいるのかなと、聞いたら、「絶対にいるもん」といわれてしまいました。また、「ペリット」というフクロウが、お腹の中で消化出来なくて、はき出した物を発見しているそうです。

鎌倉街道の森を抜け出た所は根本寺の墓地です。薄暗い森の中とは対象的に明るく陽ざしがそそいでいました。私は利根町の鎌倉街道は三度訪れていて、右の写真は小学生たちの卒業間近の3月はじめに訪れたときのもので、根本寺境内にはみごとな花(梅の花か)が咲いていました。

古い歴史を持った押戸の根本寺
文間台の東の端には真言宗の根本寺があります。創建については詳しいことはわかっていないようですが、鎌倉時代まで遡ると伝えられていて町内では最も古いお寺だそうです。本尊は宝冠阿弥陀如来。根本寺のお堂は現在再建中です。

根本寺の両界大日如来坐像
寺院前の集会所に安置されていたという大日如来像は、金剛界、胎臓界の印を結ぶ4本の腕を持った両界大日如来坐像で室町時代のものであるそうです。この種の像は作例が少なく貴重なもので、町指定文化財になっています。

左の両界大日如来坐像の写真は利根町教育委員会から使用許可を得ています。

利根町から北の鎌倉街道は?
利根町の鎌倉街道は、ここ押戸から舟で北対岸の常陸国のどの辺りへ上陸していたのでしょうか。調べた資料ごとに様々な説があるようです。竜ヶ崎市の須籐堀から紅葉内、若柴へと向かったとする説は旧佐竹街道と重複するものです。いっぽう、竜ヶ崎市の流通経済大学の辺りの台地に上陸したという説もあり、そこから北東の牛久市島田や桂町には後三年の役の帰路、鎌倉権五郎影正が通ったと伝わる道筋があります。また牛久市には、島田、正直、小坂、岡見と久野、福田の境の道が鎌倉街道と伝えられていて、小字名に「鎌倉街道」というところが数ヶ所あるようです。

『柏市史』の古東海道を説明したページには次のような説明があります。
「低湿地を横断した駅路は、柏-我孫子市境の根戸付近で再び台地に上がったと思われる。この付近にはちょうどQ-Rの道路の延長をなすかのような直線状の道(S-T)があることが注目される。北に根戸の集落方面に上る道には鎌倉街道の伝承があるが、低い丘を無視して直進する形状からみてS-Tのルートの方がより古代的である。・・・略 ほぼ現在の国道356号のルートに沿う形で東進して、我孫子市日秀の相馬郡衛(日秀西遺跡)の前(北側)を通過して、同市新木付近に推定される於賦駅に至ったと思われる。そして、さらに東行して我孫子台地東端の布佐に到達する。ここから先のルートは近世の利根川の開削で地形が大きく変化してしまい細かい推定は困難であるが、現在の利根川の北岸になっている布川台や延喜式内社の蛟モウ神社がある押戸の台地などを飛び島にして、小貝川の自然堤防上を伝いながら茨城県竜ヶ崎市半田町に比定される榛谷駅付近に到着したのではないだろうか。」

上記の説の中で「布川台や延喜式内社の蛟モウ神社がある押戸の台地などを飛び島にして、」とある道順はここまで紹介してきた利根町に残る鎌倉街道のことそのもののような道筋を表現しています。とすると、ここの鎌倉街道も古墳群の中を通っていることなどから、古代からの道を継承したものである可能性も指摘できそうなのです。

竜ヶ崎市半田町から北西へ板橋町、そして牛久市奥原町付近で江戸崎町と牛久市境の古代直線道路跡に接続すれば、常陸国府のあった石岡市へ向かうことができたのではないでしょうか。いずれにしても利根町から北の鎌倉街道のルートは多説があり、探索や研究は大いに楽しめそうです。

利根町の鎌倉街道の西には泉光寺があり、東には根本寺があり、両寺には町指定の鎌倉から室町時代の木造仏があることから、ここはやはり街道沿いで、鎌倉街道を通って仏師や大工、その他の職人が技術を持って利根町に集まってきたことが窺われるといいます。

天満宮で「板碑」発見
根本寺の近くに右の写真の小さな天満宮がありました。天満宮は学問の神様である「菅原道真」を祀っています。梅が綺麗だったのでちょっとお参りをしていこうと祠の前まできてみると、なんとそこには武蔵型の板碑片が二枚あるではありませんか。板碑があるということはこの地が中世前期頃まで遡り、人々の往来があった証にもなります。

埼玉県の鎌倉街道沿いのお寺などではよく見掛けられる板碑ですが、神奈川県や千葉県では、あまり拝見することのない武蔵型の板碑です。紀年銘がある部分が失われているので造られた年代がわからないのが残念です。ここ利根町では昭和53年に蛟モウ神社奥の宮付近の台地南斜面から板碑が数枚発見されています。そのうちの一枚には貞和5年(1349)2月と北朝年号が刻まれたものもあったそうです。また、それよりも古い鎌倉時代の永仁(1293〜1299)銘の板碑も町指定文化財として歴史民俗資料館に保管されているようです。

「鎌倉街道」の総合学習について感じたこと

小学生の総合学習のテーマとしては「鎌倉街道」はいささか高度なテーマであるように、私には感じられていました。それでも実際の学習としては、この難解なテーマに対して、だんだんと子供たちは興味を持ちはじめていったようです。先生の努力もさることながら、やはり身近なところに鎌倉街道と伝わる道があったことが一番の興味をそそがれた要因だったのではないでしょうか。

この利根町の鎌倉街道のホームページは、卒業した文間小6年生たちと、その先生が作ったものです。小学生たちが調べた内容を、メールや一枚新聞に書いて、私に送ってきてくれたからこそ、私がまとめることができたのです。鎌倉街道の情報を教えてくれた子供たち、そして、その子供たちと接する場を設けていただいた先生には大変感謝しています。鎌倉街道のホームページを作りはじめて、このような出会いがあろうなどとは考えてもみなかったことです。

小学生たちは卒業前に総合学習の総仕上げとして鎌倉街道のパンフレット作りをしていました。私は3月はじめに再び利根町へ出掛けていて、小学生たちと先生に再会していました。その時、小学生たちに鎌倉街道を勉強して何が面白かったのか聞いてみました。大半の子供たちは鎌倉街道にある自然(動植物)を調べて、珍しい鳥や大きな木があったことなどに興味を持ったようでした。歴史的なことに興味を持った子供は少なく、鎌倉街道の学習は社会の歴史よりも、理科の自然科学の方へ行ってしまったようなところもあるようです。

しかし、そこは総合学習ですから、歴史にしろ自然科学にしろ、自分たちで協力しあって調べるということの楽しさを学んだのではないでしょうか。何はともあれ、鎌倉街道を調べたことで、子供たち自身の住んでいる町の、身近な自然を大切にする心を愛しんでくれたのではないかと思っています。

今の大人たちは、自分たちの子供たちに何を残してやることができるのでしょうか。便利で生活しやすい街づくりも、それはそれで良いかも知れませんが、便利になりすぎて、お金を出せば何でもできる世の中や、何かするのにボタンを押すだけの世の中になってしまったら、生きていて何が楽しいことがあるのでしょうか。

子供たちにとっては自然が大切なもののように思われた、総合学習「幻の道探検、鎌倉街道」であったように感じられました。子供たちが勉強していた教室を見せてもらいました。廊下の壁一面に鎌倉街道を調べたことを書いた貼り紙や、鎌倉街道の森で拾い集めた「木の実」「鳥のはね」などが袋に詰めて下げられていました。床には「コゲラ」が穴をあけたと思われる、折れて落ちていた木の幹が一本置いてありました。また、私が送ったメールも印刷して貼ってありました。子供たち一人一人のぬくもりが感じられる教室であたように私の目に映りました。

小学生を卒業して中学、高校、大学と子供たちの学習は続いていきます。一人一人、みな違った「道」をこれから歩んでいくと思いますが、小学6年生のときに学習した「鎌倉街道」を、ふとあるときに思い出したりすることがあるかも知れません。そんなときにもこの利根町の鎌倉街道が今のままで残っていることを深く願いたいものです。

私としては、鎌倉街道下道はこれからのテーマの一つとなりそうです。鎌倉街道の上に広がる、きれいな青空は、私をそこへと誘うのでした。

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