利根町の鎌倉街道・・・・その2

山林に残る鎌倉街道の入口
左の写真は利根町の山林内に現在も残る鎌倉街道の西側入口部にあたるところです。道路ミラーの奥の森の中に八幡神社があります。鎌倉街道は八幡神社鳥居の右側から森の奥へと進む道になります。ここから押戸の根本寺裏山までが開発を受けていない古いままの鎌倉街道で、約700メートルほどが残されています。

山林に残る鎌倉街道西側入口にある八幡神社
上の写真は八幡神社を撮影したものです。左側が八幡神社の中から鳥居を撮影したものです。右側は八幡神社の石祠です。写真のとおり、現在ある八幡神社は拝殿や本殿などの建物は無く、石の祠のみがあるばかりですが、以前は立派な建物が存在していたのかは資料不足でわかりませんでした。八幡神社を繋げば鎌倉街道といわれているように、ここ利根町の鎌倉街道にも八幡神社があったのです。

八幡神社は戦の神様
八幡神社は昔の人を祀った神社で、祀られた人は八幡太郎義家という人で戦いの神様だった。太平洋戦争の時には沢山の人がお参りにきた。

八幡太郎義家てどんな人なの
八幡太郎義家(源義家)は清和源氏で源頼朝の先祖にあたります。平安時代後期に、前九年の役・後三年の役と奥州での戦で功労している武将であることは良く知られています。しかし、後三年の役後に朝廷はこれを私闘であるとし、将兵達に恩賞の沙汰がなかったのでした。そこで義家は私財を投じて勲功を挙げた将兵をねぎらったことから、特に東国武士達から圧倒的な支持を得ることになります。その後に義家は白河上皇によって院の昇殿を許された最初の武人となるのでした。このような伝説から義家は武人の神とか八幡神の申し子などと呼ばれるようになり神格化していくのでした。

八幡神社は確かに戦いの神様ともいわれていますし、八幡太郎義家を祀たとするのも間違いではないとも思いますが、私は八幡神社の神様ということで、小学生には難しいとは思いましたが、八幡様の総本社である九州大分の宇佐神宮のことを調べてみることをメールで進めてみました。

八幡神の成立
6世紀に大分県宇佐の地に現れる。720年大和朝廷による「はやと」服属の戦いの時、「神軍」を率いて参加、勝利にみちびく。「八幡神」を守り神とした時、戦いに勝つことができたので「八幡神」が戦いの神様となった。
八幡神は東大寺大仏建立の時にも援助、国家の守り神のような存在。八幡信仰は平安時代から全国的に広がっていった。

2回目に送ってきてくれた一枚新聞に小学生たちは、自分たちが調べた八幡神についてこのように書いていました。小学生としては良く調べたものだと感心してしまいました。

更にその続きとして、全国に八幡宮の数がどれだけあるかを調べていました。

八幡宮はいくつあるのか?
茨城県の八幡宮の数は256こ。そして少ないところとして沖縄は1こ。北海道は13こ。宮崎県は16こ。
沖縄には八幡宮は一つしかない。その八幡宮は「安里八幡宮」という。その理由を推理してみた。沖縄の八幡宮が建てられたのは、琉球王国が日本に征服された時か、太平洋戦争でアメリカと戦っていた時のどちらかではないだろうか。その後に調べて建てられた時がわかった。1466年の室町時代に建てられた。「応仁の乱」がはじまる1年前だ。
北海道が少ないのは頼朝の勢力がおよんでいない、アイヌ民族の土地だから。宮崎県の八幡宮が少ないのは、八幡神でない他の「戦の神」がいるのではないか。

子供たちは「八幡神」から、これだけの情報を集め、八幡宮の少ない土地の理由を推理しています。私は脱帽してしまいました。ここまで詳しい日本史の勉強は高校生クラスのものです。私は、子供たちが東大寺建立の時にも八幡神を援助していると書いていたことから、若草山麓、法華堂(三月堂)の隣にある手向山八幡宮を思いだしてしまいました。

みなさん、小学生を子供だと思ってあなどってはいけません。大人でもここまで調べられる人はそう多くはいないはずです。

鎌倉街道から少し離れた謎の道跡?
さて、それでは森の中の鎌倉街道へと足を進めて見たいと思います。八幡様の鳥居の右側から入って行くのですが、ひねくれ者の私は鳥居の隣の道以外にも道跡はないだろうかと、付近の藪の中をちょっと調べてみました。すると、右写真の道跡に似たところが、鎌倉街道と並行してその南側へ約20メートルぐらい離れたところにあるのを発見しました。私の鎌倉街道探索では必ず今ある道だけでなく、その周辺も調べてみる癖があります。

数年間、鎌倉街道探索をやっていて、街道の遺構と伝わるものは、ほとんどが、現在使用されている道から若干離れたところにあるものです。上の道跡に似たところは30メートルぐらい奥まで続いていましたが、その先は段丘になっていて、そこから奥へは進めませんでした。上の写真が道跡なのかどうかは結局のところ私にはわかりませんでした。もとの八幡様の鳥居からの道へ戻って、先へ進みたいと思います。

まさに森の中の鎌倉街道です

鎌倉街道再生プロジェクト
上の写真と右の写真は八幡様の鳥居脇から少し奥に入った付近を撮影したものです。ここの鎌倉街道は、まさに森の中の道で、開発された、もえぎ野台とは全く違って、まるで八幡様の鳥居前から全く別の世界になってしまったような錯覚をおぼえます。ちょっと前まではこの鎌倉街道はけもの道か廃道のように荒れていたそうです。ほとんど通る人もいなかったのでしょうか。それが最近になって学校関係者や地域のボランティアの方々、更には町会議員の方までも参加して、沢山の野鳥がいる自然の宝庫である鎌倉街道を守るプロジェクトが立ち上がったということです。

プロジェクトが立ち上がった一年目は、参加者70人で竹を切って歩けるスペースをつくったりしたそうです。そのように荒れていた鎌倉街道も、もえぎ野台開発以前の7〜8年前までは、歩こう会の散策コースになっていて、早尾台の大平まで続いていたといいます。

利根町の鎌倉街道はマラソンコースに利用されていた。

現在では開発により3分の2が削られてしまった鎌倉街道ですが以前は中学校のマラソンコースにもなっていたようです。

茨城県利根町の歴史概略1・・・古代

利根町は茨城県の最南端に位置しています。町の南には利根川が流れ千葉県との県境をなしています。歴史的にはあまり知られた町ではありませんが、昔しからこの町の付近一帯は交通の要衝とされてきたところです。現在の国道6号線やJR常磐線は千葉県我孫子市から茨城県取手市へ利根川を渡っています。江戸時代の水戸街道も現在の国道6号線にほぼ近いルートを辿っていました。しかし、江戸時代以前の下総から常陸へ向かう主要ルートは利根町の布川を経由していたのです。

現在の国道6号線のルートからみると、利根町布川を経由するのは遠回りのようにも思えますが、内海が入り込んだ湿地帯のこの地方では河川の流路は現在と中世以前とではかなりの差違があったと考えられます。一見に遠回りのようにみえる布川経由の道筋ですが、遠い昔には河川や湿地帯を通過するには都合がよかったのかも知れません。千葉県印西市木下に残されている『竹袋村旧来記』には天和3年(1683)に布川から取手へ水戸街道が移されたという記録があるそうです。

多くの貝塚と最古級の土偶
利根町内には布川台や文間台という、この地方では珍しく20メートル前後の台地が存在します。太古の昔には付近一帯は霞ヶ浦から続く内海が入り込んでいて、この台地は島となっていたようなのです。これらの台地には貝塚が多く見られ、町内の早尾台では国内最古級の土偶が発見されていることから、これらの台地には早くから人々が住み着いていたと思われます。

利根町付近を通っていた古代の駅路
古代律令時代の官道(駅路)は古東海道が上総国府から印旛沼の東岸を北上した後で二手に分かれ、一方は東進し下総の一ノ宮の香取神宮や、常陸国一ノ宮の鹿島神宮を経由したルートと、また一方は、真っ直ぐ北上して茨城県江戸崎町(榎浦駅推定地)付近に向かうルートがあったようです。特に後者のルート上には江戸崎町と牛久市境の直線の道や地割が阿見町向坪まで総延長7.5キロメートルも続いていて、古代道跡と推定されているのは興味深いものがあります。

武蔵国が東山道から東海道に所属替えされると、この付近の駅路も大きく変更され、東海道は下総国府から常陸国府へと向かうルートを取るようになります。駅家も変更され、千葉県我孫子市の国道356号線に沿った遺跡からは実際に古代の道路遺構も検出されていて、このルートを北東に延長すると利根町を通過する可能性が考えられるのです。

相馬郡でただ一つの由緒有る延喜式内社
利根町は昔の下総国相馬郡にあたり、平安時代の「延喜式神名帳」に「相馬郡一座※蛟モウ神社」と記載されている神社があり、現在の利根町立木にある蛟モウ神社門の宮と奥の宮がその神社であったとされています。古くは「ミヅチ」と読まれ、水神(龍神)を表し、文間の台地が水を分けて進む水蛇に似ていたことから名付けられたとも伝えられています。

蛟モウ神社(こうもうじんじゃ)は漢字で左のように書きますがパソコンに文字がないので「蛟モウ神社」と書かせて頂きます。

鎌倉街道にある木
●スダジイ
鎌倉街道の巨木はスダジイがほとんどです。一般いう「椎の木」とは、この木のことをいうことが多いようです。
●シラカシ
公園や庭などではよく見られますが、山ではあまり多くないようです。幹の表面はなめらかで縦筋が見られることと、白い丸い模様が特徴です。
●ハリギリ
ハリギリの葉はモミジに似ていますがモミジよりは大きいようです。木の表面には針のようなとげがあります。
●竹
鎌倉街道のだいぶぶんが竹で覆われていて、春になるとタケノコも沢山見られます。
●スダジイの実と葉
葉は先のほうがギザギザしたものもあります。葉の裏側は白っぽくなっています。スダジイの木の実は甘くておいしいそうです。
●シラカシの実と葉
葉はギザギザしていて長細いです。実は大きく卵型で普通のドングリと見分けがつきやすいです。
●カシワの実と葉
カシワの葉は大きくまわりが波打っています。ドングリも大きめです。葉はご存じカシワ餅に使われます。
●クヌギの実と葉
クヌギは細長い葉でまわりはギザギザ尖っています。ドングリは2年かかて大きくなるそうです。樹液にはカブト虫やクワガタが集まります。

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