利根町の鎌倉街道・・・・その3

現実をわすれる不思議な空間
鎌倉街道の中を一人で歩いていると時間というものの感覚が、私には無意味なもののように感じられてくるのです。右の写真のところを歩いていて、人工的なものは古道以外に何も視界に入ってきません。竹林が風に揺らいでいる音だけが耳に入ってきます。或いは私は鎌倉時代に生きているのではないかと、そんな妙な錯覚に捕らわれるのでした。私だけの感覚なのか、鎌倉街道探検をしている時の私には過去も未来も無いのです。現実の生活、過去の思い出までもが頭の中からどこかへ飛んで行ってしまっているかのようです。

茨城県利根町の歴史概略2・・・中世

源氏による鎌倉幕府の成立は板東平氏の乱が切っ掛けであった
古代末期(平安時代の中頃)に平将門の乱が起こり、その後に平忠常の乱と板東平氏の反乱が続きます。これらの反乱のたびに、利根町の当時の相馬郡一帯も様々な影響を受けたことでしょう。忠常の乱の後はその子孫が上総・下総の在地領主として上総氏や千葉氏が登場します。一方、忠常を追討した源頼信は板東による源氏勢力の拡大と武士団の棟梁としての地位をきずく切っ掛けとなったのでした。その後の奥州での前九年・後三年の役では板東の武士達は頼信の子である、頼義・義家に従い、その主従関係はより堅固なものとなっていくのでした。

利根町は相馬御厨の東端辺りであった
中世が初まる前に利根町は「相馬御厨」(そうまみくりや)の東端と考えられています。「御厨」とは伊勢神宮が支配する荘園のことで、板東平氏などがその管理者となっていました。伊勢神宮への貢納物の品々は東海道を通って運ばれたことでしょう。当初の寄進者として下総権介常重という人がいましたが、後の千葉常胤の父にあたる人です。

その後の寄進者として源義朝、千葉常胤、佐竹義宗などの名が見られます。また相馬御厨の四至として「西、東大路」とか「南、小野上大路」「南、板東大路」などの、道を連想させる名前が出ていることから、あるいはこれらは東海道や鎌倉街道の道であったとも想像できるのです。さらに「東、蚊虻境」というのもあり、ここでいう蚊虻は利根町立木の蛟モウ神社の付近であると想定されます。

富士川の戦いの後の佐竹討伐
治承4年(1180)に富士川の戦いで平家に勝利した源頼朝はすぐに西へは向かわずに、いったん関東へ引き返します。そして常陸源氏の佐竹氏を攻撃するのでした。これには関東の結束を重んじた千葉常胤・上総介広常・三浦義澄らの東国平定の主張が、頼朝を動かしたと伝えられています。この時に利根町の鎌倉街道を佐竹攻めの軍勢が通って行ったのかも知れません。また佐竹氏の攻撃は相馬御厨の支配で対立する千葉氏にとって対抗勢力の佐竹氏が滅んだことでその支配権を保証されたことになったわけです。

相馬二郎師常の登場
千葉常胤の次男に師常(もろつね)という人がいました。文治5年(1189)に書かれた源頼朝の書状に「そうまの二郎」という人物が登場しています。この書状は奥州侵攻のときに御家人達に平泉に到着する日を厳命した内容のものですが、この「そうまの二郎」は師常であり、『吾妻鏡』などに登場する千葉氏系の相馬二郎師常のことです。鎌倉時代の初期に相馬御厨は相馬二郎師常が支配していたと考えられています。この利根町の鎌倉街道も相馬師常の氏族によって建造され整備されてきたのかも知れません。

中田切の古道伝承
利根町の鎌倉街道の道筋で南側は、我孫子市布佐から町内の布川を通り中田切へ通じていたと思われます。中田切は鎌倉時代には交通の要衝であったと想像されていて、源義経の伝承があります。義経が兄頼朝に追われて奥州へ逃げのびるときに、この中田切を通ったと伝えられてきています。また中田切には「ふるけいどう(古街道)」と呼ばれる細道が残っているそうです。おそらくその道が大平の船着場跡付近の鎌倉街道へ繋がっていたと思われるのです。さらに中田切には佐竹街道(旧水戸街道)の一里塚跡があり、鎌倉時代の地蔵菩薩をまつる地蔵堂などが付近にあります。

戦国時代、豊島氏の布川城跡
利根川岸の琴平神社や徳満寺は布川城跡であったそうです。現在も土塁や堀切跡が残っています。町内には立木の岩井城跡、さらに早尾と押戸にも城があったと伝えられています。これらの城を統一し、この地方に地盤を築いたのが豊島頼継でした。豊島氏は天正18年(1590)に小田原北条氏とともに滅んでいます。戦国時代の下総から常陸にかけてのこの一帯には数多くの城跡が残っています。戦国時代には鎌倉街道は佐竹街道と呼ばれていて、引き続きこの地方の重要な幹線道であったのです。

鎌倉街道のまわりは海だった
利根町というところは、今の利根川の北岸に広がる水田地帯がほとんどなのですが、この鎌倉街道があるところだけは、なだらかで西へ延びる、標高20メートル前後の丘陵状となっていて、文間台と呼ばれています。鎌倉時代以前は霞ヶ浦や千葉県の印旛沼などとも続いていた「香取の海」または「榎浦」と呼ばれる内海が、この水田地帯を覆っていたようなのです。鎌倉街道の残る丘陵は内海に浮かぶ島の如きであったと思われます。

「学区の鎌倉街道を歩いた時、こんもりした山で、『まるで古墳の上を歩いているような感じだね』と感想を持った子が何人もいた。」と小学生の先生も言っていました。

森の中の鎌倉街道を東へと進んで行くと、上の写真や右の写真のような竹林の中を通ります。竹林の中の道が藪草に覆われていたら、けもの道のようなところではなかったかと想像されます。

先の話に戻りまして、鎌倉時代は街道が通るこの丘陵のまわりは海(底湿地帯)であったわけなのです。鎌倉街道下道は、現在の利根町付近では「香取の海」を渡らなければ北の常陸国へ進むことができなかったのでした。

左の写真の道沿いに平場が見られます。

『利根町史』に掲載されている鎌倉街道の地図を見ると、西端は「大平船着場」となっていて、近くに天神社があります。そして東端は「押戸船着場」となっていて、近くに王子神社と根本寺があります。利根町の鎌倉街道は大平から押戸までの文間台上の総延長2キロほどの道だったのです。利根町の水田地帯が海だったと聞いておどろかれる方もいることでしょう。そして現在の利根川の流れは江戸時代に人工的に造られたものなのです。

江戸時代初めに行われた利根川の大工事

江戸時代初期に利根川とその流域は、河川の流路の変更や新田開発が大掛かりに行われています。江戸に入った徳川家康は、江戸の町を水害から守るために、当時に東京湾に流れ込んでいた利根川の河川改修工事(利根川の東遷)を行って、それらの改修工事のくり返しにより現在のような利根川の流路が造られたのです。

東の奉行となった伊奈備前守忠次と忠治、忠克の三代で文禄3年(1594)から承応3年(1654)の60年の歳月を経て、現在に近い利根川の流れにしているのでした。忠次は利根川の流れをまず逆川を堀り、渡良瀬川の方へ落とすように工事を行っています。二代目の忠治は太日川の流れを修正して真っ直ぐな川にしていて、これは現在の江戸川にあたります。三代目の忠克は江戸付近の水害を防ぐために、赤堀川を拡張し利根川の流れを鬼怒川に流しました。これ以後の利根川は遙か東方の銚子へ注ぐことになったのでした。このような河川工事の歴史と、更にその後の幾多の河川工事等により現在の利根町の景観になって行ったのでした。

中世には文間台の押戸の北は小貝川と鬼怒川が合流した広い湿地帯であったようです。その湿地帯が下総国と常陸国の国境だったのです。この付近は陸上交通の要衝であることもさることながら、水上交通も発達していたと思われます。このように利根町の鎌倉街道は底湿地帯を渡る最中に残されているのでした。

歴史資料館で拝見させて頂いた利根町の歴史を紹介した本に、もえぎ野台が開発される以前の鎌倉街道の写真があるのを見つけました。現在残る右写真のような細道と違て、大変に立派な道の写真でした。

随所に見られる平場は何?
上の写真の道の北側に、大きな平場が二つあります。また、この利根町の鎌倉街道が通る台地上のほとんどが平に整形されているようなのです。かなり古くからこのように平になっていたものなのか、私には気になるところです。この平場は何かの施設跡か、はたまた城跡の一部なのか? 或いは畑のあったところとも考えられます。

鎌倉街道の整備保存を進めているのは「水と緑の豊かな環境作りプロジェクト」と呼ばれ、鎌倉街道の残る部分は、自然豊かな里山で、周囲にはシイやタブの巨木に竹林と、ホウチャクソウやウラシマソウの野草、そして、ウグイスやメジロなども生息する自然の宝庫でもあるということです。平成15年6月に、鎌倉街道に沿ってアジサイの植樹が行われました。総合学習で鎌倉街道を調べている小学6年生たちも参加しているのでした。

小学生たちが植えたアジサイの苗
アジサイの苗植えで、子供たちの担任の先生は、鎌倉街道で何か課題ができるかも知れないと考えていたといわれました。
アジサイ植えはあっという間に終わってしまったそうです。何故ならば、地域の人達がアジサイを植えやすいように、穴を掘っておいてくれたそうです。しかし、その時はアジサイを植えたから、しばらくそこで遊んだからといって、先生も子供たちも鎌倉街道から、追求すべき課題が見つかる訳でもなかったといっていました。右の写真はその植えられたアジサイを撮影したものです。

鎌倉街道にアジサイを植えてから数日後に子供たちとその先生は、郷土史家の宮本先生と一緒に鎌倉街道を歩き、いろいろなお話を伺ったそうです。私のところに最初に送られて来た一枚新聞は、この宮本先生と歩いた時の内容のものでした。結果的に宮本先生から鎌倉街道の歴史的な話を聞いたことで、鎌倉街道のガイドブックを作ってみてはどうかと子供たちの先生は考えたそうです。メジャーを持って鳥居から、ほこらや、庚申塔や大きなシイノキまでの距離を測定したりして活動する子供たちの姿が見えてくるような気がしたといっておられました。

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