利根町の鎌倉街道・・・・その4

右の写真は現在も残る鎌倉街道を、八幡神社から東に進んで、最初に南北の道と交差するところを撮影しました。ここには祠の中に祀られた道祖神と、三基の庚申塔が並んで立っています。この地点の道路面はかなり硬化しているようです。私の見たところでは、東西の鎌倉街道よりも、南から台地に上ってきて、北の王子神社へ向かう南北の道のほうが、人の往来は多かったのではないかと思われます。何故ならば、ここから南に下る道と、ここから王子神社までの道には、人の通行によって形成されたと思われる堀割状の窪地が見られるからなのです。

鎌倉街道の奥には石塔があった。
鎌倉街道の奥に入っていくと庚申塔とかかれた三つの石塔があった。庚申の夜、徹夜をしないと、身体の中にいる三匹の虫(三し虫といい、人が悪いことをすると、その人が寝ている間に天に教えてしまう虫のこと)が、帝釈天に告げてしまうので、その日は徹夜をする。中国の教えで、江戸時代に盛んになった。最近まで、ここいらへんでも行われていたそうだ。

庚申塔は関東各地の鎌倉街道沿いに良く見かける石塔です。右下の写真の石塔には右から、「庚申塔」、「青面金剛王」、「猿田彦大神」とかかれています。いずれも庚申塔であると思われます。子供たちは庚申信仰の話を聞いてどういう感想を持ったのでしょう。宇宙にも人が行くようになった現代に、三し虫の話を信じている子は、はたしているのか。

小学生たちが宮本先生と鎌倉街道を歩いたのは6月です。この季節は森の中はヤブ蚊が沢山いたようです。中には、あまりにもかゆいのでかきむしって、足から血を流している子もいたそうです。10ヶ所以上刺された子もいて、その話を聞いた駄洒落が好きな校長先生は、鎌倉街道ではなく、「蚊に喰われ街道だね」と親父ギャグをとばしていたそうです。

道祖神と庚申塔があるところから王子神社へ向かう道

庚申塔がある鎌倉街道のところから北へ向かう道は王子神社への参道で、右の写真がその道を撮影したものです。道の真ん中が窪んだ堀割状の道で、一見こちらの道の方が鎌倉街道のような趣があります。昔のままの鎌倉街道といえば、長い年月に道が削られ、或いは意図的に掘り下げられた堀割道を想像するものです。ここ利根町に残る700メートルの鎌倉街道には、残念ながら本格的規模の堀割状の道は見あたらないようです。その理由として素人ながらも私が推理したのは次の事柄です。

利根町の鎌倉街道は先でもちょっと触れましたが『利根町史』によると、大平船着場から押戸船着場までの台地上を行く、おおよそ2キロほどの道です。両端が船着場であったわけですから街道が通っていた台地のまわりの低地は内海や湿地帯であったことが想像できます。そのことから、街道を通っている時に道の両脇から、敵がわざわざ水辺から台地に上り攻めて来ることはほとんどありえなかったのではないでしょうか。

堀割状の道は尾根上などを通るときに敵の目から身を隠す目的で、道が掘状に深く掘られていたのではないかと研究者の方々は推測されています。まわりが水場で守られていたのが、ここ利根町の鎌倉街道であることから、堀割道にする必要がなかったと考えられないでしょうか。ここの鎌倉街道は道に沿って平に整地された地形が多く見られることから、道に沿った施設や集落が存在していたのかも知れません。

王子神社の大きなシイの木
王子神社の脇に行くと、ものすごい大きな木が倒れていた。その木はシイの木で、とても大きかったので利根町指定の文化財にしようと思っていた時、台風で倒れてしまった。そのときに王子神社の屋根を壊してしまった。それで、地域の人達でお金を出し合って屋根を直したそうだ。

左の写真がその倒れたシイの巨木なのです。この木の推定樹齢は700年であったといわれますから、何と鎌倉時代からあった木だったことになるのであります。大きかったのに文化財になりそこねて、かわいそう。

押戸の王子神社
左の写真は王子神社の本殿を撮影したものです。文化5年(1808)に社殿を再建したと利根町の歴史資料にあり、この本殿はその時のものなのかどうか、詳しいことはわかりませんでした。神社建築からみると「流れ造り」というものだそうです。「王子」とは若一王子(にゃくいちおうじ)熊野大社の末祠と社伝にいうとあります。王子神社は紀州熊野信仰と関係があるようです。また、海路の伝道で中世に広く分布していったともいいます。この王子神社の裏側は押戸船着場と伝えられていて、調べていくと鎌倉街道と船着場と王子神社はそれぞれが関連したものであったことがわかってきました。

左の写真は王子神社本殿裏にある祠で、左側の祠が「三王大権現」で、右側の祠が「三峯神社」です。更に写真の祠の奥の竹林内には石造の祠もありますが何を祀ってあるのかはわかりませんでした。その石造の祠のある竹林は一見すると平場状で、何かの施設があったところのような感じがしました。王子神社の裏の竹林からは文間台の北の斜面で、竹林がなければ、おろらく押戸の船着場がここから眺められたことでしょう。

王子神社を裏の竹林から見る。

右の写真は王子神社の鳥居前から右手の竹林内に少し入ったところにある、今にも倒れそうな荒れ果てた祠です。この祠には何が祀ってあるのか『利根町史』の資料で調べてみたところ「金比羅神社」であることがわかりました。それにしても、荒れ放題の祠は淋しげであると同時に不気味でもあります。王子神社裏の「三王大権現」や「三峯神社」の祠は最近に新しく造り替えられたもののようなので、この祠もいずれは綺麗に造り替えられるのかなと思ったりしました。この祠がある付近の竹林も平場を予感するところで、またその平場状のところは大変広いです。平場はここから奥の鎌倉街道沿いの平場状のところへと続いているようなのです。

王子神社から道祖神・庚申塔のある鎌倉街道まで戻り、そこから東側の鎌倉街道へと足を進めます。

小学生たちはだんだんと鎌倉街道を探検することが面白くなって行ったようです。放課後の自由探検では鎌倉街道に入る入口がいくつあるか探したそうです。男の子も女の子も、そして先生も一緒になって竹や木が倒れた藪の中へ入って行ったというのですから驚いたものです。今時の小学生とその先生が、道を探すために藪の中まで入っていったというのは何だか妙な話のような気さえします。

小学生と先生の鎌倉街道探検
以下、先生の記述
あっちこっちに倒れた木が散乱していて、行く手を阻む中を強引に前へ前へと進むと、とうとう山の急斜面に出てしまった。斜面に生えている木の枝に捕まり慎重に降りていく。女の子が一人転げ落ちてしまったが、それでもニコニコしながら「大丈夫です。どこも怪我してません」、先に降りて行った男の子が「先生、下はよその家の庭です」、「仕方がないから通してもらいなさい」、なにやら裏山から次々と子供達が降りてくるので、家の方はビックリして様子を見ていた。事情を説明すると、ここは鎌倉街道へはいけないが、別のところに細い道があり、そこから上がれると教えてくれた。

上の写真の道の両脇に子供達が植えたアジサイの苗が並んでいます。下の写真はその一本を近づいて撮影したものです。一年後には花が咲くものと思われ、数年後には大きく育ちアジサイの花でいっぱいなる時が来るかも知れません。そして多くの人達が訪れてくれれば子供たちは喜ぶことでしょう。

以下、先生の記述
その後にも鎌倉街道の入口探しは続き、自由探検のときに参加しなかった子も一緒に加わる。「とにかく危険なんだから」と聞けば聞くほど、子供達の期待がふくらみ、目が輝き出す。かなりのスリルではあるが、さすがに先生は「絶対落ちないでよ。落ちて怪我したら、鎌倉街道終わっちゃうからねと、私も必死」どこを歩いていても鎌倉街道のように感じられ、「こっちが道だ」、「いやいくらなんだってこんなところは馬は通れないだろう」、「鎌倉街道だったら何か証拠があるはずだ」、「ほこらがあった」、「これは家にもあるから違うだろう」、「先生こっちには、沼がある」と山の中を、ああでもないこうでもないといいながら道を探していた。

結局、子供達と先生が探した鎌倉街道への入口は全部で6コあったそうです。先生は私に送ってくれたメールにこう書いていました。
「文間小の6年生は、今どきめずらしく塾や習い事をしている子供たちが少なく、たっぷりと子供時代をすごすことができます。これって素敵なことですよね。」

なるほど、今どきにこのような森や山の中で遊び(学習か?)まわる子供たちは確かにそう多くはないとは思われます。身近にこのような自然環境ががあることがまづは第一条件だろうと思いますが、ここ利根町の小学生たちにはその点は恵まれていたということのようです。

自然環境があるなしは、子供たちの育成に何らかの影響があることは確かのような気がするのは私だけでしょうか。

子供たちの先生自身も、「たまたま鎌倉街道の学習をしているから、利根町に赴任して5年目にしてはじめて「奥山古墳群」などを身近に感じているけど、そうでなければ、興味はまったくといっていいほどなかった。」また先生にとっては鎌倉街道のはじめの頃の印象は「苔むし、傾いてしまった墓石、あたりは薄暗く、なんだか一人では絶対歩きたくない。」そんな場所だったといっていましたが、子供たちも同じで、鎌倉街道のすぐ近くに住んでいながら、そんな街道のことは知らず、山の中へ入って遊ぶこともほとんどなかったようなのです。

人が歩くこともなく荒れ放題の鎌倉街道でしたが、町ぐるみで、古道を理解して自然環境を守っていく基盤が築かれれば、あやしい山道も、町の人々のふれあい緑地ともなるのではないでしょうか。

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