道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆◆ 所沢・山口観音  ◆◆◆◆◆◆◆

山口観音(金乗院)

山口観音は吾庵山金乗院といい真言宗の寺院で、行基菩薩が開いたと伝えられています。後に弘法大師が東国巡錫の折、龍神に祈念し霊泉を得たので以来弘法大師加持水と称したそうです。山口観音には四体の千手観音像があり、一体はご本尊で他一体は藤原様式を伝える市指定文化財になっています。また山口観音は狭山三十三所第一番の札所になっています。狭山湖と多摩湖に挟まれた地にあり、ユネスコ村や西部ドームの直ぐ西側に位置します。また近くには狭山不動尊があり昭和50年にひらかれた寺院で、大阪の畠山 神社から移された多宝塔や東京の芝増上寺から移された勅額門などが目を引きます。左の写真は山口観音の本堂で、本堂の天井には墨絵の「鳴き竜」が描かれています。

西武球場近くの山口観音

山口観音は、昔は現在の所に観音堂があって、更に東方1キロメートの元寺の地に金乗院があったといいます。亮盛和尚の代に今の本堂が出来たといわれ、亮盛和尚は学者で「板東観音霊場記」をはじめ「七夕草露集」などの多くの著作を江戸の本屋から出版したりしています。また仏教が盛んになるように努力して江戸で出開帳を行っています。「山口詣」も亮盛が書いたものではないかと伝えられているそうです。
山口観音では新田義貞が鎌倉攻めの際、ここに立ち寄り戦勝の祈願をしています。伝新田義貞祈願文が伝えられていて、元弘三年庚申五月十五日の日付と義貞の花押が書かれています。また境内には義貞誓いの桜と呼ばれる桜の木や、下の写真の義貞公霊馬などがあります。

山口観音の新田義貞奉納の馬

伝新田義貞祈願文には次のような内容が書かれています。

我が君は逆臣のため西海に漂っている。愚臣義貞は今は不遜の道にあたり、王化をたすくるために斧鉞をとり敵陣に臨む。願くば大慈菩薩の一発千射の悲箭を添えて、速やかに朝敵を退け、天下を平穏に治め給へ、精丹を至して敬う。

この祈願文が真跡ではないとする論もあるようですが、義貞の鎌倉を攻める心境はこのようなものだったのかと思い巡らせてくれています。660数年前の歴史の流れの真実は誰にもわかるものではないと思います。真実は受け止めた側の善に頼るものと思うところがあります。

山口観音はレジャー施設や西部ドームなどがすぐ目の前にあり、古を偲ぶという心境からやや離れるものがありますが、本堂裏の沢山の水子地蔵や下の写真の「ぽっくりさん」など、気持ちを和らげてくれるものがありました。

山口観音のぽっくりさんと七福神

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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