道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆ 所沢・三ツ井戸・薬王寺  ◆◆◆◆◆

下の写真は所沢市街の国道463号線が東川を渡る角にある弘法の三ツ井戸と呼ばれる古井戸です。昔、弘法大師が諸国巡歴の折りに、この地に立ち寄ったさいに民家に飲み水を求めると、機を織っていた婦人が遠方まで水を汲みにいったそうです。これを見て大師様は水に難儀する村人を救おうと杖で三カ所の場所を示して、ここを掘れば清水が得られると村人に教えました。村人は教えられた三カ所を掘ると果たして清水が得られたと伝えられています。
三ツ井戸は東川に沿って50メートル間隔で掘られ、現在ここに残る井戸はその東端のものであるといいます。少し奥には弘法大師をまつる小堂があります。このようないわれの古井戸が残っていることは、この辺りが交通の要衝であったことをうかがわせます。

弘法の三ツ井戸

薬王寺

上の写真の弘法の三ツ井戸から市内を流れる東川を、東に300メートルほど行くと遊石山新光寺があろます。更にそこから300メートルほど東に行ったところには東光山自性院薬王寺があります。
『太平記』には新田義宗が正平7年(1352)に兄義興と共に武蔵野合戦にて足利尊氏と戦って敗れ越後に退いたと記されています。寺の縁起によれば義宗は戦いに敗れた後に、再起の時を計って密かに武蔵のこの地に入り隠れ住んだといいます。ところがその後足利氏の勢は強くなり、遂に南北朝も統一されていったのでした。

武蔵野合戦とは、南北朝内乱の初期、足利尊氏と直義の戦いである観応の擾乱の合戦のひとつです。直義死後に上杉憲顕らは南朝方の新田義興・義宗と結んで尊氏方と戦い、敗北して越後に逃れました。府中分倍河原や所沢小手指原、笛吹峠など鎌倉街道上道には武蔵野合戦の戦場地が多くあります。

所沢市街の薬王寺

新田義宗は髪を落とし衣を着て、今まで隠れ住んでいた家をお堂に改めました。そして一体の薬師如来像を刻み、その腹の中に守本尊を納め、戦死した一族や家臣の菩提を弔いながら余生を送り、応永20年(1413)にこの地で亡くなったといいます。
寺の本尊薬師如来像は昭和37年の解体修理のさいに、永禄10年(1567)修理の墨書胎内銘があり、南北朝頃の作と推定されているそうです。また境内には明治時代に移されてきたという宝篋印塔が三基あり、その一基に「自性院殿義慧源宗大居士 応永二十癸巳三月一日逝去 正四位下羽林次将 武州刺史源朝臣」とあり、これが義宗の墓塔であると伝えてます。但しこの塔は寛永年間頃の造立といわれているようです。

薬王寺境内

薬王寺には『鼠薬師如来縁起』というものがあり、先に説明した新田義宗のことや、義宗公死後に、この地方に鼠が大発生して農作物や穀物を食い荒らし、人々は新田家主従の戦死者の怨霊だと恐れ、義宗公守本尊の薬師如来に願いを掛けると鼠の害はやんだと伝えています。
薬王寺には所沢市指定文化財、高麗版大智度論があり、また「新田義宗終焉之地」の碑や江戸時代末期の女流俳人、野遊亭里恵女(三上里恵)の次の句碑があります。

むさしのにらちなく老し柳かな

薬王寺境内の石碑

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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