道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 狭山・三ツ木原  ◆◆◆◆◆◆

加佐志街道跡

左の写真は狭山市加佐志に残る街道遺構と思われている切り通しです。堀兼中学校の西脇から北に伸びる現在の道よりもやや西側に並走する細道です。『歴史の道調査報告書』に「街道は旧丸山の池の傍らを通って対岸の丘陵に向かうが、この丘陵の北側に長さ130メートルほどの掘割及び切り通し状の遺構が現在している」と書かれていますが、この写真の道がおそらくそこでいう切り通しのことなのではないかと思われます。現在はご覧のように舗装路となってしまっていますが、鎌倉街道の特徴でもある切り通しの姿は確認することができます。このような街道跡はこのままの状態で保存しておきたいものです。

狭山市加佐志の切り通し状の街道跡

三ツ木原古戦場跡

上の加佐志の街道跡を更に北進すると、県道中新田入間川線を越へ、その先数百メートルで本田技研工業などのある工業団地前に出て、その先は道は消えてしまっています。ここから西へ西武新宿線新狭山駅は近く、駅の東、本田技研工業の手前に三ツ木公園があり、公園内には下の写真の三ツ木原古戦場の碑が建っています。三ツ木原の古戦場は数々の戦が行われたところらしく、元弘3年(1333)の新田義貞と北条高時軍の戦い、永享13年(1440)上杉持朝が将軍義教の命で結城満朝を討った時の戦い、天文6年(1537)川越城主上杉朝定と北条氏綱の戦い、天文15年(1546)北条氏康と川越城主との戦いなどがこの辺りで行われたとされています。

西武線新狭山駅近くの公園にある三ツ木原古戦場碑

生越道々標(おごせどうひょう)

この道標は寛政2年(1790)に造られたものです。江戸時代以前の中世まではこの辺りは入間川の南岸で、鎌倉街道などの交通の要衝でしたが、江戸時代に五街道が整備されると交通の中心から外れてゆきます。この付近を通る街道としては秩父道、八王子道で川越方面から入間市方面に向かう道がありました。八王子道はここから入間市扇町屋方面に抜けていた鎌倉街道と交差する道です。道標には南武蔵野道、北越生道と刻まれていて、この南北の道は、南は三ツ木・加佐志を通り堀兼に向かい、北は下奥富・柏原を通り越生まで通じていた道で、鎌倉街道の枝道と考えられているルートにあたります。現在は道標の前を国道16号線が通り、多くの車両が行き交う通りになっています。

国道16号線沿いにある生越道々標

生越道々標の少し北側に国道16号線から入間川の低湿地に下る坂道があり、「五平坂」と呼ばれています。この坂道が鎌倉街道の可能性があるのかどうかはわかりませんが、この辺は幾つか枝道があったものと思われます。生越道々標の前の信号を下って行く道の先には下奥富の広福寺があります。広福寺は永正11年(1514)の創立といい、薬師如来を本尊とし、山門は文化2年の建築で竜宮造の市指定文化財です。又近くの上奥富には梅宮神社があり、平安時代に京都の梅宮を勧請したといわれています。古来安産の神として知られ、社には古代の供応様式である「甘酒祭り」が伝わっています。

狭山市下奥富の五平坂

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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