道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 嵐山・菅谷館  ◆◆◆◆◆◆

菅谷館跡

国指定史跡菅谷館跡は都幾川と槻川の合流する地点の北の台地上にあります。平安時代末期から鎌倉時代の初期にかけて活躍した武蔵国の武将、畠山重忠の居館である菅谷(須賀谷)は文献などにも登場していますが、嵐山町の菅谷館跡がその場所ではないかと一般には伝えられています。現在の菅谷館の遺構のほとんどは室町時代から戦国時代にかけて何度か改築を受け拡大し、今ある多郭式の構造を備える規模に至ったと考えられています。三の郭跡地に埼玉県立歴史資料館が建てられています。

嵐山町菅谷館内にある案内版

畠山重忠は鎌倉街道上道を語るときに彼の名前無しには語れないほど鎌倉街道上道と拘わりのある人物です。重忠の生きた時代、活躍した舞台、彼が生まれた場所、館を構えた地と、そして終焉地とどれをとっても鎌倉街道とは切っても切れない場所にあります。重忠に関してその人の史料をみる限り、だいぶ誇張されて彼のことが語られているようにも思えます。そこは現在から800年ほど前の人物ですから、その人の真実像とかは現在残る史料だけではわかるものではありません。ホームページ作者は重忠について素直に郷土の英雄と考えたいと思います。気は優しくて力持ち、欲は無く、しかも幕府家臣で一番のハンサムであり、都の文化・芸能にも精通していたといわれるその人は、アッパレ正に武人の鏡であったと思いましょう。

菅谷館内にある畠山重忠像

室町時代の漢詩文集『梅花無尽蔵』に、長享2年(1488)に山内・扇谷の両上杉軍がこの辺りの須賀谷原で戦い、700人の死者と数百匹の馬が倒れたと記録されているそうです。室町、戦国時代頃の菅谷館の付近では幾多の戦いが繰り広げられ、防備を固める為、館の規模も拡大していったと思われます。しかしその頃の館の主などはよくわかっていないようです。文献的資料は乏しいわりに館の遺構の大きさには圧倒されます。ここ菅谷館から東に4キロあまりの関越自動車道東松山インターのそばには、菅谷館と二子のような青鳥城跡があります。城館の生い立ちや規模が菅谷館と似ていて、初めに築かれたのは平安末期で室町、戦国時代に拡張されているといいます。青鳥城は謎の城郭で歴史のほとんどがベールに覆われたままだそうです。

菅谷館内の風景

菅谷館跡に現在見られる遺構は、正確にいうと城跡です。菅谷城跡は平山城形式の城で面積3万2千余坪です。本郭が城跡の南に位置し3方を他の郭に比べて高い土塁と深い堀に囲まれ外部からの進入に対して厳重に築かれています。この本郭辺りが前身の重忠の館跡があったところではないかと考えられているようです。城跡の中央には二の郭があり、四方は空堀に囲まれ、南側の一部は南郭となっています。このうち、北側の小口は門跡と伝えられています。三の郭には歴史資料館が建っていて城内のもっとも大きい郭になっています。西と北側に小口があり、また「出桝形土塁」や連続した「折り」が築かれています。西の郭は本郭から最も離れた北西に位置し、四周は空堀によって隔てられ西から北側にかけて土塁が構築されています。西側の土塁には、「大手門跡」といわれる小口があります。

菅谷館の本郭西の土塁と空堀

西の郭から堀を渡った三の郭の出入口に約五間幅の正てん門と呼ばれるところがあります。発掘調査の結果、西の郭より約1メートル高く盛土していたことが確認され、それは西の郭へ渡した木橋に傾斜をつけて敵の侵入が困難になるよう工夫したものと考えられているそうです。また掘の中段からは木橋の橋脚を立てたと思われる石積みも検出されているそうです。

ここ嵐山町菅谷に館を構えた畠山重忠は先にも説明したように、古来より武士の道に通じた最も代表的な人物であったと語り継がれてきています。文次5年(1189)の奥州征伐や建久元年(1190)の頼朝の上京など数々の先陣を勤めるほどの人物でした。現在歴史資料館には重忠の人形があります。また東京奥多摩の御獄神社に奉納されている国宝の紅威の鎧は重忠が献納したものと伝えられているものです。

三の郭と西の郭のに架かる復原橋と門跡

追記・・・
平成27年では、「埼玉県立歴史資料館」は「埼玉県立嵐山史跡の博物館」と名称が変更されています。

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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