道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 嵐山・大蔵館跡・向徳寺 ◆◆◆◆◆◆

嵐山町大蔵

嵐山町大蔵は平安時代末期に源義賢がこの地に館を構えたところと伝えています。この地は文献史料等から大蔵宿が鎌倉初期には形成されていたようです。付近には多くの史跡が存在し、数々の伝承が残ることから、この地が古来から重要な拠点であったことがうかがえます。下の写真のお寺は安養寺といい天台宗の寺です。この寺に昭和30年代の頃に、作家の今東光氏が住職をしていたそうです。今東光は僧名を春聽(しゅんちょう)といい、後に岩手の平泉の中尊寺の貫首となり金色堂の昭和大修理を行っています。安養寺山門は嵐山町指定建造物で江戸時代後期の建物です。一部に籠彫りの唐獅子・龍・花鳥が配されています。

大蔵の安養寺(後ろの森は大蔵神社の森)

源義賢の墓

鎌倉街道上道と県道大野東松山線の交差する信号の南東、民家の裏手に源義賢の墓と伝えられる五輪塔があります。小さな覆屋の中にあり、五輪塔全体では中間部の火輪部と水輪部のみが古い部分で他は後世に補われたものといい、風輪部のみ欠損しています。凝灰岩製で、火災にあって変色した部分が認められ、損傷が激しかったので、昭和52年に東京国立文化財研究所により修復処理されたそうです。この五輪塔は古式五輪塔と呼ばれ、県内に所在する最古の五輪塔だそうです。この五輪塔は源義賢ゆかりの人々が供養のため建てたものと考えられています。

伝源義賢の墓

源義賢とはどんな人だったのでしょうか。源義賢は源為義の次子で近衛天皇が皇太子の時に仕え、帯刀の長となったので、帯刀先生(たてわきせんじょう)と称し、その後東国に下り、上野国多胡館を本拠地としていましたが、更にその後にここ大蔵館に移住してきました。久寿2年(1155)に大蔵館で義朝の長子である甥の悪源太義平と争い討たれたといいます。この騒動は大蔵合戦と呼ばれています。ここにある源義賢と伝えられる墓は一説には尼御前(源義賢の妻)の墓とも伝えられています。ところで源義賢が討たれた大蔵館とは嵐山町のここ以外の説もあります。現在の東京都町田市に大蔵という地名があり、そこは悪源太義平の館のあったところともいわれています。また鎌倉の大蔵説もあり、義賢が嵐山町以外で殺されたとする説はいずれも鎌倉と鎌倉街道上道の線上にあり、源頼朝が鎌倉に幕府を築く以前から鎌倉は関東でも特別な地であり、上道はその鎌倉へと繋がる重要な道であったことがうかがわれます。なお木曾義仲(当時の駒王丸)は義賢の次子で、合戦を逃れ信濃国木曾谷で中原氏に庇護されています。

伝源義賢の五輪塔

大蔵館の南東に位置する地点で、県道大野東松山線沿いに下の写真の比較的新しい馬頭観音菩薩の碑があります。碑には久寿2年8月16日とあり、その日は源義賢が亡くなった日付になります。また碑には南無馬頭観音菩薩の刻字の右に源氏一族一門とあり、左に平氏一族一門とあります。平安時代半ばから武士が歴史の舞台に登場し源氏と平氏はその中心として覇権をめぐり争っていました。平安時代末期は仏教でいう末法の世に入り関東では源氏の棟梁の争い、保元の乱後の平治の乱では源義賢を討った義平の父義朝は平清盛と戦って敗れ、源氏の勢力は一時潰滅します。人間の歴史とは争いの繰り返しなのでしょうか。源平合戦で戦った両氏が800年の時を隔てて、ここに一つになり供養されていたのでした。なお畠山氏や河越氏は秩父平氏の一族です。

県道大野東松山線沿いにある新しい馬頭観音碑

大蔵館跡

大蔵神社にある大蔵館跡の説明版をそのまま引用させてもらいます。

「大蔵館は源氏の棟梁六条判館源為義の次子、東宮帯刀先生源義賢の居館で、都幾川をのぞむ台地上にあった。現在する遺構から推定すると、館の規模は、東西170メートル・南北200メートル余りであったと思われる。館のあった名残りか、館跡のある地名は、御所ヶ谷戸及び堀の内とよばれる。現在遺構としては、土塁・空堀などがあり、ことに東面100メートル地点の竹林内(大澤知助氏宅)には土塁の残存がはっきり認められる。また、かっては高見櫓の跡もあった。なお館跡地内には、伝城山稲荷と大蔵神社がある。」

大蔵館跡内の大蔵神社

大蔵館跡にある大蔵神社の地は、館跡地でも高くなった土段状になっていて、ここに高見櫓があったと伝えられています。大蔵館は「単郭式方形館」という形式の館跡で、方形の周囲を簡単な堀と土塁で囲んだものです。中世初期の武士の館などはこの形式が多くみられると考えられています。大蔵館跡では発掘調査が幾度か行われていますが、源義賢の時代から大きく離れた鎌倉時代の終わり頃から南北朝時代頃の館跡であったことがわかり、源義賢との関連をどのように考えたらよいのか謎が深まりましたが、歴史ロマンは広がって行くようです。

木曾義仲は父義賢をここ大蔵で亡くし、子の義高を鎌倉街道上道の入間川で亡くしています。義仲にとって父親と子供を鎌倉街道上道の道筋で亡くしていることから鎌倉街道上道は悲劇の道ということになるのかも知れません。考えてみれば鎌倉街道上道にゆかりのある人物はことごとく悲劇的な最後を遂げた敗者が目立ちます。畠山重忠しかり、新田義貞しかり。

大蔵館跡

向徳寺

向徳寺は山号は大福山無量院といい、時宗の寺で藤沢清浄光寺(遊行寺)の末寺です。開山は清阿上人といい、後に廃寺となったのを江戸時代中期に向阿徳音和尚が中興したと伝えられます。この寺には国指定重要文化財の銅製阿弥陀如来及び両脇侍立像があり鎌倉時代に作られた善光寺式阿弥陀三尊像です。宝治3年(1249)武州小代(東松山市正代)で鋳造されたことが刻まれています。また墓地には鎌倉末期から南北朝にかけての板碑が多数あります。

なお上記の武州小代は武蔵七党の児玉党、小代氏の館のあった所で、小代氏は蒙古襲来の時に肥後国の地頭職に補佐され、小代氏は九州の肥後に移住しています。

向徳寺境内の板碑群

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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