道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 嵐山・鎌形八幡・班渓寺  ◆◆◆◆◆◆

嵐山町鎌形の地は推定される鎌倉街道上道ルートより大きく西にそれていますが、ここには鎌倉街道上道の歴史を語るには忘れてならない史跡が幾つかあるので紹介します。それは鎌形八幡神社、班渓寺と伝木曽殿館跡です。いずれの史跡も都幾川左岸にあり、特に鎌形八幡神社は坂上田村麻呂が勧請した社と伝えられていますので、鎌倉街道成立以前の古いものということになります。そして木曾義仲はこの地で生まれたと伝えられていて、彼の活躍した舞台は木曾、信濃、北陸、そして京の都などが挙げられますが、ここ嵐山町と義仲の関連を知る人は少ないようです。しかし義仲の子の義高や、妻の山吹姫は鎌倉街道上道に関係して登場する人物なのです。

嵐山町鎌形の鎌形八幡神社

鎌形八幡神社

鎌形八幡神社は平安時代の初期、延暦年間に坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡神社宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると伝えられている社です。この説からすると鎌倉の鶴岡八幡宮より古いことになるようです。昭和41年の台風の時に古木のほとんどが倒れてしまったそうですが、以前は老杉が境内を覆っていたそうです。八幡神社は武門、武将の神として信仰され、源義賢、源義仲(木曾義仲)、源義高(清水冠者義高)3代の伝説がこの地には多く残り、源氏の氏神として仰がれているということです。また鎌形八幡神社には嵐山町指定文化財の懸仏が2枚保存されているそうです。そして見所の一つとして忘れてならないのが、木曽義仲産湯の清水があることです。

鎌形八幡神社の義仲産湯の清水

木曾義仲の父は帯刀先生源義賢で、鎌形の東隣の鎌倉街道上道の通っていた大蔵に館を構えていました。義賢は義仲(駒王丸)が2歳の時に義賢の甥の悪源太義平に討たれてしまいました。この騒動を大蔵合戦と呼んでいます。その時、駒王丸は母、小枝御前と共に畠山重能、斉藤実盛らの温情により助けられ信州の木曾に逃れたのでした。しかし、畠山重能も斉藤実盛もその後は義仲とは敵対関係となるのは皮肉な運命なのか、或いは歴史の必然なのか。義仲は木曾で宮ノ越に館をもつ中原兼遠にあずけられ平家討伐の挙兵まで木曾の地を拠点とするのでした。ここ鎌形八幡神社にある木曽義仲産湯の清水は、義賢がこの地に下屋敷をもうけて小枝御前に生ませた駒王丸の産湯の清水と伝えています。社殿前の階段を下りた所にあり今も御手洗槽の竹筒から清らかな水が零れています。竹筒の根本の石垣の上には「木曽義仲産湯の清水」の石碑が立っています。

※木曾義仲誕生の地を、上野国多胡郡とする説もあるようです。

木曽義仲産湯の清水

班渓寺

班渓寺は曹洞宗の寺で威徳山班渓寺といいます。この寺の梵鐘に次の文字が刻まれているそうです。「木曽義仲 長男 清水冠者源義高為 阿母威徳院殿班渓妙虎大姉 創建スル所也」。妙虎大姉(山吹姫)が我が子義高が頼朝によってその追ってに殺害され、夫義仲と子の義高の菩提を弔ってこの寺を建てたということです。寺の前には左の写真のように「木曽義仲公誕生之地」の石碑が立っています。寺の境内の裏に竹藪があり、そこに清水が湧き出ていて、その清水も義仲産湯の清水と呼ばれているようです。その辺りを木曽殿坂とか木曽殿館跡と伝えています。また班渓寺には「威徳院殿班渓妙虎大姉」と書かれた山吹姫の位牌が安置されているそうです。

鎌形の班渓寺

木曾義仲には何人かの女性がいたようです。彼の妻として有名なのは巴御前です。数ある諸説には義高の母はこの巴御前になっているものもあります。巴御前といえば京の都で畠山重忠との一騎討ちの話が知られているようです。そこで面白いのが、幼い駒王丸(義仲の幼名)を助けた畠山重能がいて、重能は重忠の父にあたります。木曾義仲に一時は味方した畠山重能と、義経らと共に義仲を討った畠山重忠がいるわけです。『吾妻鏡』などによると、最初平氏方の畠山重忠が源頼朝と出会い、源氏方に付いた経緯がわかります。このへんが平氏と源氏の逆転劇のヒントになるようです。話が逸れたので元に戻って、木曾義仲のもうひとりの妻がここ班渓寺に眠る山吹姫です。山吹姫は木曾の中原兼遠の兄にあたる2男の兼保の娘だともいわれますが、はっきりした所在はわからないようです。巴御前と山吹姫は重複するところがあり、共に女武者で幾多の合戦に参戦しているとも伝えます。定説では義高の母は山吹姫であることになっているようです。

班渓寺墓地にある伝山吹姫の墓

木曾義仲(木曽義仲)とはどんな人物だったのでしょうか。義仲に関して詳しい人物像を示したものは余りなく、謎の多い人です。幼き時に同じ源氏の血筋の者により父を亡くし故郷を追われ木曾の山中で育ち、似仁王の平家追討の命を果たし征夷大将軍にまで任ぜられながらも後白河法皇に嫌われ策略により、またも同じ源氏の頼朝軍によって31歳の若さで生涯を閉じたわけですが、彼に対する一般論は木曾の山猿とかいわれるように、都で法王や貴族に受け入れられなかったということになっているようです。しかし彼が山の中で育ったから都での作法、教養が無かったというのは、あまりにも単純過ぎる考えだと思います。私は同郷の者として彼の波瀾万丈の生涯に同情の念を感じます。私の想像ですが義仲は純粋な性格の持ち主ではなかったかと思うのです。

班渓寺裏の伝木曽殿館跡

追記・・・
ホームページ作者の思いとして、嵐山町班渓寺の山門にて雨宿りした記憶がありました。ホームページ作成前のことで、自宅の川越市から自転車で嵐山町まで来たときのことでした。連れも無くひとり寂しく史跡めぐりをしているいつもの自分の姿としての思い出です。その当時は歴史話しを語り合う友人もなく、歴史話をするのは史跡そのものとの心の対話でした。後に鎌倉街道上道のホームページを作成しようと考えたきっかけのひとつ話しです。

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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