法政大学社会学部メディア社会学科 津田研究室




現代社会論

『アウトサイダーズ』 『意味に餓える社会』 『現代社会の社会学』
『現代社会の理論』 『自己コントロールの檻』 『社会病理を考える』
『社会問題の社会学』 『自由論』 『マクドナルド化する社会』

井上俊ほか編(1997)『現代社会学1 現代社会の社会学』 岩波書店
 
この岩波の社会学シリーズの編者5人が書いた論集です。私個人としては、井上俊さんの「動機と物語」、吉見俊哉さんの「アメリカナイゼーションと文化の政治学」が面白かったです。特に井上さんの、人は自らの創り上げた物語的な構図によって世界を認知してゆく、という議論は非常に興味深く、現代のマス・コミュニケーションの問題を考えるうえでも非常に参考になるのではないかと思いました。ところで、大澤真幸さんの「<資本>の想像力」も面白いのですが、もう少し分かりやすく書いてもらえれば、と思います。せっかく、資本主義と人種差別という、とても面白いテーマを扱っているのに。 (1997年)

酒井隆史(2001)『自由論』 青土社
 
権力という観点から現代社会における「自由」について論じている著作。正直、そんなに読みやすい本ではないです。フーコーやラカン、ネオ・マルクス主義などに関して、それなりの理解をもってないと、全然理解できないかもしれません。が、それでも面白いテーマを扱っているとは思います。規律権力に力点を置く従来のフーコー理解を超えて、フーコーの統治論に着目したり、警察権力の増大やゼロ・トレランス政策から、「管理」の権力から「隔離」の権力への移行を説いたりなど、最新の議論が紹介されており、非常に参考になりました。惜しむらくは、やっぱりもうちょっとわかりやすければ…というところでしょうか。(2002年4月)

徳岡秀雄(1997)『社会病理を考える』 世界思想社
 
社会病理研究に対する様々なアプローチを整理し、それらの問題点を明らかにして、新たなモデル構築を試みるとともに、実際の社会病理に対する分析を行っている本です。特に最近流行の構築主義の観点からの社会病理研究へのアプローチは非常に勉強になりました。また、実証分析では「いじめ」の問題を取り上げていますが、そこで「いじめ」の問題がどのようにして社会的に構築されていくのかが明らかにされています。つまり、「校内暴力」として捉えられていたような事象が「いじめ」として認識されるようになり、過去の事象までもが「いじめ」と捉えられるようになる一方、「いじめ」がメディアを通じてさらに拡大していく、というプロセスが存在するわけです。ありふれた評論家なんかとは違った社会問題の認識の仕方を学ぶことが出来るのではないでしょうか。(1999年)

中河伸俊(1999)『社会問題の社会学』 世界思想社
 構築主義の観点から社会問題にどのようにアプローチできるのか。本書でいうところの構築主義の観点に立つならば、「社会構造」だとか異議申立てを行う人々の主張の「正しさ」は研究の対象とはならず、ただ人々が社会問題を論じる際に用いる会話や行為を分析し、そこで生じる相互作用や論点の移り変わりを明らかにすることが重要なわけです。僕は必ずしもこうした立場の立論に賛成するわけではないですが、反論しようにもきっちりと書き込まれた本なので、なかなか一筋縄にはいきません。ただ、この本の筆者は非常に脚注が好きらしく、実際に大量の脚注があるのですが、中にはどうみても内容とは関係ないような脚注もあり、もう少し整理できたのではないか、とは思います。(1999年)

ベッカー・ハワード、村上直之訳(1963=1978)『アウトサイダーズ』 新泉社

 社会学でいうラベリング理論を代表する一冊、と書くと固苦しそうな本と思われるかもしれませんが、実際には豊富なケーススタディが収録されており、面白く読める作品だと思います。要するに、社会から逸脱した人々は、なにか客観的な要件によって逸脱者となるのではなく、社会の側が彼あるいは彼女に「逸脱者」というレッテルを貼るがゆえに、逸脱者となるのだ、という話ですね。
 たとえば、コンピュータ・ネットワークの草創期にはハッキングというのは必ずしも悪い行為ではなかったのが、コンピュータ・ネットワークが大規模化するにつれて「ハッカー=悪」という構図が出来上がってくる。よって、ここで分析すべきは、ハッカーの方ではなくて(オタクだからハッキングなんかに手を染める、etc)、ハッキングを悪とするようになった社会的規範のほうだ、ということになるわけです。いわば、コロンブスの卵的な発想であり、こうした見方は本書が出版されて数十年経つにもかかわらず、社会を見る際にいまだ新鮮な視点を提供してくれるように思います。近年の構築主義論争でも本書はしばしば言及されており、その意味でも本書を読む価値はあるといえるでしょう。(2001年11月)


ボルツ・ノルベルト、村上淳一訳(1997=1998)『意味に餓える社会』 東京大学出版会
 
「<生きる意味><本来の人間性>そんなものは、もうないのだから」という本書の帯に端的に示されているように、非常にポスト・モダンな現代社会論です。ルーマン的な観点から、複雑性の縮減されていない現代社会の有り様を辛辣に描写しています。特に、フランクフルト学派に代表される批判的な研究に対しては、激しい攻撃が加えられています。「否定弁証法とは何かを理解するための努力は並大抵のものではなかったので、その内容は真理だと思うしかなかった」という指摘には、思わず笑ってしまいました。
 非常にシニカルで、読んでいてとても面白い本です。が、こうした議論から導き出されてくる最終地点は、やはり際限のない現状肯定になってしまう気がしてなりません。もちろん、一枚的岩的なイデオロギーを振り回す時代ではないとも思うのですが…。
(1999年)


見田宗介(1996)『現代社会の理論』 岩波新書
 現代社会の問題点を鋭く、かつ分かりやすく説いた好著。水俣病に代表される環境問題や南北問題などの問題を社会学的な観点から分析し、その解決策として消費社会化や情報化に目を向けています。通常は批判ばかりが先行しがちな消費社会のポジティブな側面にも目が向けられており、ペシミスティックな展開になっていないところに好感が持てます。社会学という分野に興味を持つには最適の入門書と言えるのではないでしょうか。 (1997年)

森真一(2000)『自己コントロールの檻』 講談社選書メチエ
 現代社会はかつてないほど感情のコントロールを要求される社会であり、それを典型的に表しているのが『EQ』や『「困った人たち」とのつき合い方』といった心理学的な本の流行なのだ、というのが本書の主張です。筆者は知識社会学的な観点からそうした心理マニュアル本を分析すると同時に、より大きなコンテクストから現代社会の諸相を分析しています。社会のマクドナルド化、ダイエットの流行、切れる中学生、新保守主義の台頭など、様々なテーマが扱われており、かなり楽しく読むことができました。(2000年8月)

リッツア・ジョージ、正岡寛司監訳(1996=1999)『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版
マックス・ヴェーバーの合理化に関する理論を足がかりに、現代社会を「マクドナルド化」という観点から分析しているのが本書です。英語版が出版されて以来、12ヶ国語で翻訳出版されたらしく、それだけ大きな反響を呼んだ本だということができるでしょう。もっとも、タイトルは派手なのですが、中身はといえば、効率性、予測可能性、計算可能性、制御といった観点から現代社会を分析するという、わりと地道な分析だということができるかもしれません。この研究が脚光を浴びたのも、筆者にヴェーバー研究というしっかりとした土台があったからこそなのでは、と思います。
 ちなみに、本書を読んでいて僕はミルズの『ホワイト・カラー』を思い出してしまったわけですが、そこから大衆社会論の多くと共通の弱点(あまりに受動的すぎる大衆観)を抱え込んでいるのかも、という感じがしました。ともあれ、とても読みやすい訳で、事例も豊富なため、楽しく読むことができました。(2000年10月)