法政大学社会学部メディア社会学科 津田研究室




世界システム/グローバル化の社会学

『アフターリベラリズム』 『犠牲のピラミッド』 『グローバリゼーション』
『グローバリゼーション 文化帝国主義を超えて』 『グローバリゼーションと世界社会』 『グローバル・システムの社会学』
『グローバル・ネットワーク』 『史的システムとしての資本主義』 『文化帝国主義』

ウォーラーステイン・イマニュエル、川北稔訳(1983=1985)『史的システムとしての資本主義』岩波書店
 ウォーラーステインの世界システム論がコンパクトにまとめられているので、とりあえずの理解を得るのに便利でしょう。「発展」という概念に対する批判など、今日の社会学の大きなテーマを扱っているのも魅力です。ただし、私自身の感想では、ウォーラーステインの考え方は少々、唯物論的ではないかなぁ、と思います。『脱=社会科学』では、経済学や社会学、政治学といった社会科学が分化している状況を、ウォーラーステインは批判しているのですが、ウォーラーステイン自身が経済還元主義に陥っているのでは、と思ってしまうのは私だけでしょうか。とはいえ、私が世界システム論に最初に触れたとき、その衝撃は小さいものではなく、魅力的なパラダイムであることには変わりありません 。(1997年)

ウォーラーステイン・イマニュエル、松岡利道訳(1995=1997)『アフターリベラリズム』藤原書店
 1789年から1989年までの世界の3つのイデオロギー的な潮流、すなわち保守主義、リベラリズム、社会主義は、すべてリベラリズムが形を変えたものにすぎず、1989年はリベラリズムが歴史的に敗北した年である、というのが本書の主な主張です。最初、ほんまかいな、と思いながら読んでいたのですが、だんだんと納得させられている自分に気づきました。説得されたのか、洗脳されたのかがイマイチよく分からないのですが、とにかく「なるほど」と思ってしまいました。
 相変わらずの経済還元論な気もしますが、リベラリズムという地政文化の観点から世界システムを論じようとしている本書は、ウォーラーステインがそうした批判に応えようとした成果だと見ることもできます。
 ちなみに、本書は論文集で、同じことを何度も読むことになります。そのせいで、最後には、次に何が書いてあるのかがだんだん予測出来るようになってゆきます。うーん、やっぱり、洗脳されたのだろうか。
(1997年)


スクレアー・レスリー、野沢慎司訳(1990=1995)『グローバル・システムの社会学』玉川大学出版部
 国際社会における主要なアクターとは何か?筆者は、もはやそれは国家ではなく、超国家企業、あるいは超国家資本家階級であると説きます。そして、この両者は国家の思惑をも超えて、超国家的実践を行い、消費主義を拡大させてゆきます。こうした消費主義の拡大を批判する点において、トムリンソンによる『文化帝国主義』の議論と真っ向から衝突しています。消費主義の拡大を批判する人々に対してトムリンソンが投げかける「自らは消費主義を享受しておきながら、途上国の人々が消費主義を享受するのを批判しうるのか」という問いの前では、本書の説得力も大きく欠けてしまうように思われます。とはいえ、興味深い点がたくさんあることも確かな著作です。(1997年)

スパイビ・トニー、岡本充弘訳(1996=1999)『グローバリゼーションと世界社会』三嶺書房
 
近年、盛んに論じられているグローバリゼーションに関する一冊。話題のテーマがわりとコンパクトにまとめられているので、このテーマをざっと知りたい人には便利かもしれません。ちなみに、この本の主張は次の一点に絞られるように思います。すなわち、ローカルな文化がグローバル化する一方、グローバルな文化はローカルな文脈で再生産される…ということです。で、この主張に沿って、ずっとテーマごとに議論が展開されていくわけです…。
 紹介の仕方がちょっと冷たいように思われるかもしれませんが、最近の僕はグローバリゼーション関係の社会学にはかなり批判的なので、それは気のせいではありません。表面的・一時的な現象に振り回されているところに底の浅さが垣間見えてしまうのです(もちろん、そうでない研究者もいるにはいるのですが)。そして、本書も例外ではありません。あと、翻訳に関して言えば、もうちょっとこなれた訳が出来たんじゃないか、という気がしないでもないです。うーむ、なんか批判的な書評(?)になってしまった…。(2000年2月)


トムリンソン・ジョン、片岡信訳(1991=1993)『文化帝国主義』 青土社
 コカ・コーラやマクドナルドといった多国籍企業の拡大、あるいは、衛星放送などによる国境を越える情報流通の活発化。このような「文化」の流通の活発化は文化帝国主義(あるいはメディア帝国主義)という議論を生み出してきました。本書は、「文化」や「帝国主義」といった言葉の定義の問題から議論を始め、そのような文化帝国主義の議論が含む問題点を明らかにしていきます。そして、現代文化における最大の問題を「目的なき文化」の拡大と位置づけ、明確な目的を持たないままただ「発展」のみを志向し続ける現代世界のあり方に警鐘を鳴らしています。本書を初めて読んだときにはあまり理解できず、途中で挫折してしまったのですが、再度チャレンジしたときには、非常な感銘を受けました。僕は読んだ中でも最も感銘を受けた一冊です。(2000年5月)

トムリンソン・ジョン、片岡信訳(1999=2000)『グローバリゼーション』青土社
 『文化帝国主義』で一躍有名となったトムリンソンの最新作が、早くも邦訳で出ました。軽めのグローバリゼーション論が多いなか、豊富な読書量に裏打ちされた緻密な理論構成から成るこの著作は重厚な仕上がりになっていると言ってよいでしょう。難解な議論も分かりやすく整理されており、とても勉強になりました。「コスモポリタニズムの可能性」などと言うとお気楽な楽観論という感じがするのですが、トムリンソンはグローバリゼーションの進行がナショナリズムを活性化させる可能性を認めつつも、コスモポリタニズムの可能性を見出そうと慎重に議論を進めています。僕もそうしたトムリンソンの姿勢にはとても好感を覚えました。なお、翻訳も非常によく、読みやすい訳書になっていると思います。(2000年5月)

バーガー・ピーター、加茂雄三他訳(1974=1976)『犠牲のピラミッド』紀伊國屋書店
 バーガーの著作にしては、ややマイナーなこの著作。第三世界の惨状に対して、資本主義的イデオロギーに沿った発展方式も社会主義的イデオロギーによる発展方式も批判した上で、一般の民衆の視点に立った発展の必要性を訴えています。やや古い本なので、事例などに古さが感じられることは仕方が無いのですが、それを補って余りある内容だと言える本です。特に、章と章との間に挿入された間奏曲と題する章がとても興味深く、近代化と伝統の狭間で苦しむ人々の姿が伝わってきます。
 僕が思うに、この本の一番良いところは、バーガー自身の苦悩が伝わってくるところだと思います。既成のイデオロギーに便乗することを拒否し、第三世界の惨状に対する道徳的なコミットと社会科学者としての客観的分析の必要性との間で苦悩する姿が伝わってきます。あと、伝統社会に対する見方としては、『再帰的近代化』に掲載されているギデンズの「ポスト伝統社会に生きること」と比較しながら読むと面白いと思います。(2000年4月)


山之内靖ほか編(1994)『社会科学の方法11 グローバル・ネットワーク』 岩波書店
 現代社会において拡大し続けるグローバルなネットワーク。それは果たして政治や社会にいかなるインパクトを持ちうるのか?本書はそうした問いについて、国家、民族、地域、国際機構、戦争などといった観点からなる分析を行なっている論文集です。非常に興味深い論文が数多く掲載されており、これからの社会現象を考える上で不可欠となるグローバルな視点を得るのに格好の書となるでしょう。本書は、社会学というよりは政治学に属するような気がしますが、社会学だの政治学だのというカテゴリー分けに固執する研究者にろくな奴はいないそうなので、毛嫌いせずに読んでみると以外な発見があるかもしれません。 (1997年)


ロバートソン・ローランド、阿部美哉訳(1992=1997)『グローバリゼーション』東京大学出版会
 
英語ではやたら多くの文献があるにもかかわらず、日本語文献ではほとんど存在しなかったグローバリゼーションを正面から扱った著作です。ロバートソンは、パーソンズ、ギデンズ、ウォーラーステイン等の主張を織り交ぜつつ、「グローバリゼーション=世界の同質化」的な発想に対抗して、「グローバリゼーションは個別主義を推進させる」という主張を行っています。しかし、全体的に非常に難解な本で、理解出来ないところもたくさんありました(情けなや)。
 ところで、本書は原著の部分訳なのだそうで、非常に残念です。なぜなら、私はロバートソンの別の論文を原文で読もうとしたのですが、これがまた難解で、途中で挫折したからです。だから、できるだけ日本語で読みたいと思う今日このごろなのですが…。

 最後に、一つ。グローバリゼーションというと、どうも最近のちゃらちゃらした議論というイメージが拭えないのですが、その大御所の一人であるロバートソンはパーソンズの社会理論を綿密にフォローしています。こういう地道な作業を行わない限り、日本のグローバリゼーションの議論もまた、ポスト・モダンのブームと同じく、一過性のものとして消費されてしまうことは間違いないでしょう。(1997年)