(まわりぶたい みぬまたんぼ)






5.通船掘の復活

 勢いよく流れ込んできた水が水門でせき止められる。水位の上昇とともに、真新しい舟がゆっくり浮かび上がる。5日、昔のままに復元された「ひらた舟」が約70年ぶりに見沼通船掘に浮かんだ。
 浦和市と川口市の境界付近にある見沼通船掘は、日本で最初の閘門式運河とされ、国の史跡にも指定されている。1931年(昭和六年)を最後に、使われずに放置されていたが、浦和市が4年前から修復を進めてきた。ひらた舟の復活は、その総仕上げだった。
 通船掘の修復は「浦和市尾間木史跡保存会」の長年の要望だった。
 「堀は見沼のシンボルだ。荒れさせてはならない」。保存会は年に2回、堀周辺の草を刈り、郷土史の勉強会も開いてきた。会長の鈴木甫さん(60)は江戸時代、通船掘の通行を管理した鈴木家の子孫でもある。



 見沼田んぼの水田や代用水、通船掘を管理し、豊かな自然を育ててきたのは地元の人たちだった。
 農業を営む堀江甫さん(69)は、代用水の護岸が固められる前、毎年春に各家が人を出して代用水の川ざらえをしたのを覚えている。底にたまった土砂をかき出し、弱った堤は固める。一日がかりの重労働だ。「そうやって二百数十年も用水を守ってきたんです」という。
 しかし兼業農家の増加や後継者不足、減反など押し寄せる荒波にもまれ、地元の農家だけでは農地や用水を維持するのは難しくなっってきた。



新住民が継ぐ保護運動

 浦和市大崎の国昌寺わきで、代用水が約500メートルにわたって素掘りのまま残っている。そこでは護岸工事に反対した市民らでつくる「見沼市民ボランティアセンター」などの市民団体が、自主的にごみ拾いや草刈りをしている。水辺の植物や雑木林の観察、草花を摘んで遊んだりして、見沼との触れ合いを目指しているグループだ。
 尾間木史跡保全会には、鈴木さんのように代々住み続けている人だけでなく、最近、新住民も続々と参加するようになった。見沼田んぼで農家が担いきれなくなった役割を肩代わりしているのは、こうした一般市民である。
 「これまで自然保護運動というと、開発反対の声をあげるだけの運動が多かったが、これからは都市住民が保全の担い手だ。もっと大勢の人に加わってほしい」。見沼田んぼ保全市民連絡会代表の村上明夫さん(55)は、そう思っている。

【見沼通船掘と閘門(こうもん)式運河】
 見沼の干拓を終えた井沢為永は、利根川から引いた東西2本の代用水を使って水運を発達させようと、代用水と芝川を結ぶ通船掘を計画した。芝川の水位は代用水より約3メートル低い。そのため代用水と芝川の間に2ヵ所の関(閘門)を設け、水位を調節して船を上下させる閘門式運河とした。完成は1731年(享保十六年)。江戸と利根川上流を結ぶ動脈となった。閘門式運河で最も有名なのは中米のパナマ運河。

《ガイド》
 見沼通船掘へはJR東浦和駅から徒歩10分ほど。八丁堤や運河の通船権を持っていた鈴木家住宅も近い。野田のサギ山跡に造られた「さぎ山記念公園」へは、JR浦和駅西口から、さぎ山記念公園行きバスで同公園下車か、JR大宮駅東口から「中野田引返場」行きで「上野田」下車。足を伸ばせば、素掘りの見沼代用水や竹林などが保全されている原型保存区間や、竜神伝説が残る国昌寺がある。加田屋新田を開いた坂東家が復元されている「旧坂東家住宅見沼くらしっく館」へは同じバスで「三崎台」下車。

(「回り舞台 見沼田んぼ」は古沢 範英が担当しました)

朝日新聞埼玉版(1998年(平成10年)9月7日 月曜日)から転載

 




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