(まわりぶたい みぬまたんぼ)






1.案山子の原風景

 空が広い。青々とした水田や植木林の緑がはるかに続く。都市化の波から残された1200ヘクタールの緑地では、春にはチョウやヒバリが舞い、秋には虫の声が響く。運が良ければウサギやイタチに出会うこともできる。浦和、大宮、川口の3市にまたがり、「首都圏の自然環境の聖地」とも呼ばれる大空間。それが見沼田んぼである。



 <山田の中の/一本足のかかし/天気のよいのに/蓑笠着けて>
 年配の人にはなじみ深い尋常小学校唱歌「案山子」に歌われたこの風景は、見沼田んぼがモデルだと言われる。作詞した武笠三は、浦和市宮本の氷川女体神社の神主を古代から明治まで務めた武笠家の出身だ。
 見沼はかつて、その名の通り沼だった。川をはんらんさせたり美女の姿で笛を吹いたりする竜神の伝説が残る神域だった。江戸時代初期に八丁堤という長大な堤でせき止められて下流地域の用水となる溜井となり、1727年に干拓で新田となった。
 田にすむドジョウや貝を求めて鳥が集まり、サギが営巣するようになった。「野田のサギ山」は、サギで真っ白に見えるほどだった。台地側の斜面林にはコナラやクヌギがしげり、代用水では蛍狩りが夏の風物詩になった。武笠三が詞を作ったころは、そんな風景だった。
 川口市の大半を水没させた1958年の狩野川台風では、見沼田んぼがなければ大勢の死者が出たといわれる。約千万トンの洪水をプールのように蓄えたからだ。県は1965年に「見沼三原則」を設け、農地の転用を厳しく制限した。三原則は95年に廃止され、公有地化の推進などを打ち出した新方針ができた。
 しかし・・・



名と裏腹 消えゆく聖地の面影

 雨の中にうっすらと煙がただよっていた。化学臭が鼻を突く。浦和市東部を流れる見沼代用水西縁のほとりで、積み上げられたごみがくすぶっていた。野焼きだ。建築廃材やタイルも散乱している。近くに住む主婦(52)は「ダイオキシンが心配だし煙でのどが痛む。自然にあこがれて越してきたのに」と嘆く。
 戦後、「田んぼ」という名称と裏腹に減反などで水田は減り続けて、一割を切った。えさの減少や農薬の影響などで姿を消した動植物も多い。92年の県生態系保護協会の調査では、繁殖記録のある45種の鳥類のうち、サシバなど10種が姿を消した。野焼きやごみの不法投棄も環境悪化に追い打ちをかけている。



 7月31日、氷川女体神社で江戸時代から続く「名越しの祓え」が行われた。神職や氏子が自らのけがれを紙の人形に移し、境内わきを流れる見沼代用水に流していく。ひらひらと橋から舞い落ちた人形の近くに空き缶が浮かんでいた。「私らが子供のころは、見渡す限りの田んぼで、用水や芝川でよく泳いだもんです。昔の面影は消えてしまいました」。氏子総代の都築一郎さん(71)は、さみしそうにつぶやいた。
 神聖な沼は、巨大な水田になり、いま新たな岐路にさしかかっている。武笠三が生きていれば、どんな思いで見つめているだろうか。

【見沼三原則】
 1965年に県の審議会で決められた見沼田んぼの農地転用方針。治水機能を守るため開発を規制している。内容は、
1.八丁堤以北、県道浦和岩槻線と締切以南は原則として緑地を維持
2.同線以北は適正な計画に限り開発を認める
3.芝川改修計画に支障がある場合は農地転用を認めない
 その後、農家から転用を求める声が強まり、県と3市、自然保護団体、地権者の代表による協議会が設けられ、95年に「治水機能を保持しつつ、農地、公園、緑地等として土地利用を図る」とする基本方針を決定。公有化のための基金も予算化され、三原則は廃止された。

(「回り舞台 見沼田んぼ」は古沢 範英が担当します)

朝日新聞埼玉版(1998年(平成10年)8月3日 月曜日)から転載

 




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