(まわりぶたい みぬまたんぼ)






2.伊奈氏の関東流

 1629年(寛永六年)、関東郡代の伊奈忠治は、現在の浦和市と川口市の境界付近に八丁(約870メートル)に渡る堤防を築いて芝川をせき止め、溜井を造った。沼をダム化して、下流地域の用水としたのである。



 関東学院大学教授(河川工学)の宮村忠さんが現在は県道になっているこの堤に初めて立ったのは、学生の時だった。伊奈氏の土木技術の高さに驚いたことをよく覚えている。
 溜井は水を吸う洪積台地に築かれており、下流に安定したわき水をもたらす。開拓された川口以南の地域は低地と台地が交じっており、水田も畑作もできる。作物は舟運で消費地の江戸に送ることができる。堤の造成はたやすいが、効果は計り知れない。
 「簡単な工事で大きな効果を上げるのが理想的な技術なのです。何兆円もかけて東京湾に橋をかけても、必要とする人がいなければ意味はない」



 関東の天領を支配した伊奈氏は、忠治の代から現在の川口市赤山に本拠を構え、関東全域の開発を手掛けた。自然堤防や溜井を活用する技法は、後に「関東流」(備前流)と呼ばれるようになった。
 最大の業績は、大水のたびに乱流する利根川と荒川を、三代六十年の大工事で現在の位置に安定させたことだった。はんらん地帯だった広大な土地が開拓可能になった。1598年(慶長三年)に約六十六万石だった武蔵国の総石高は、百年ほどたった元禄年間には約百十六万石に増えた。
 民衆の信頼も厚く、ききんや一揆の収拾にも駆り出された。その力は中央官僚の反発も生み、1792年(寛政四年)、お家騒動を理由に取りつぶされた。備前掘などの地名を各地に残すばかりとなった。



治水に自然の力利用

 関東流の極意は、自然に逆らわないことだと言われる。低い自然堤防を活用し、洪水の際は乗り越えさせて遊水池に導き、本流の水量を減らす。遊水池や溜井が激流を和らげる。
 一方、土地利用が高度化した近代の治水は、人工の連続堤防を高く構えて水を河道に押し込めようとする。この方法では洪水は一気に下流に集中し、堤防が切れて大災害になる危険もはらむ。
 1975年前後に大河川の堤防決壊が続いた教訓から、国は「総合治水対策」として遊水池確保などの方針を提唱した。洪水が堤防を越えるケースを前提とした水防対策も打ち出した。
 こうした動きを、川口市で伊奈氏の業績を再評価する運動をしている「関東郡代伊奈サミットの会」代表の平田修一さんは「伊奈帰り」と呼んでいる。「自然との共生を目指した伊奈氏の技術は、これからきっと見直されます」
 周囲40数キロ、1200ヘクタールの溜井は1727年(享保十二年)に干拓され、見沼田んぼの原型となった。伊奈氏の足跡は、ここにしっかりと残されている。

【伊奈氏と関東郡代】
 出身が信濃国伊奈郡なので伊奈氏を名乗った。徳川家康に仕えた伊奈忠次は代官頭として武蔵国足立郡小室(伊奈町)を本拠に、関東の徳川直轄領の支配に当たった。同郡赤山(川口市)に陣屋を構えた忠次の次男・忠治は関東の代官統括と河川修築などの民政に専管するように命じられ、関東郡代が事実上成立。伊奈氏の世襲となった。
 治水や新田開発のほか、富士山噴火被災地の復旧などに力を尽くした。家臣は400人に及び、大名なみの経済基盤を持った。しかし忠治から10代目にあたる忠尊の代に家臣団の内紛や相続争いなどをとがめられ、忠尊が失脚。関東郡代としての伊奈家は途絶えた。

朝日新聞埼玉版(1998年(平成10年)8月17日 月曜日)から転載

 




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