(まわりぶたい みぬまたんぼ)






3.代用水の潤い

 見沼田んぼを270年にわたって潤してきた見沼代用水は、今も尽きることなく流れている。浦和市の作家宮田正治さんは、さして必要がないと思えるのにコンクリートで固められた護岸を歩くたびに思う。「工事のための工事ではないか。この用水を造った井沢為永が今の世相を見たら、どう思うだろう」



 徳川吉宗が八代将軍に就任した江戸中期、財政は窮乏を極めていた。新田開発を奨励した吉宗が紀州から呼び寄せたのが、数々の土木事業を成功させた井沢弥惣兵衛為永である。
 開発しやすい土地の多くは、すでに耕地になっていた。時代は新しい土地を生む干拓に移っていく。
 芝川をせきとめて造った見沼溜井では、土砂が埋まって底が浅くなり、下流地域の開発に伴う用水不足も起きていた。為永は溜井の干拓と、用水源を失う下流のために代用水を掘ることにした。
 為永の手法は用排水分離方式と呼ばれる。沼を干拓して田に変え、両端の高台に代用水を引いて田に水を流す。真ん中の低地を流れる芝川に排水を集め、下流の用水とする。大量の水が必要になるため、利根川に水源を求めた。代用水の総延長は90キロに及んだ。
 為永の測量技術は抜群だった。利根川取水口の元圦(行田市)と、芝川と荒川の合流点(川口市)から測量を始め、出合った地点で約6センチしかずれなかったという。



 代用水は途中、元荒川と綾瀬川を越さなければならない。元荒川との交差点では川底をくぐるサイホン式の伏越樋、綾瀬川では川の上を通る掛渡井を設けるなど最新の技術を駆使した。
 1727年(享保十二年)9月に始まった工事は翌年2月に終わった。農閑期の労働力を投入して無駄なく工事をし、約1200町歩(約1200ヘクタール)の新田が生まれた。請け負った17カ村が潤い、年約五千石の年貢を確保した。
 開発のための検分を前に為永は村々に通達を出した。「役人止宿の際は一汁一菜を守る」「取り扱いに不審あれば井沢弥惣兵衛に申し出ること」と過剰接待を禁じ、不安解消に努めた。宮田さんは「私心なく役目を果たし民衆の心をつかんだ。今の行政にないものが読みとれる」と話す。



民衆の知恵生かし開発

 為永が見沼田んぼを築いた最大の功労者であることは間違いない。しかし大宮市に住む建設省建設大学校の建設部長、松浦茂樹さんは「用水開発の背景には地域を知り尽くした農民の知恵があった」と指摘する。
 1701年(元禄十四年)、忍藩の村々の惣代が見沼溜井の干拓と新用水開削を願い出ている。松浦さんはこの文章を見たときの驚きを忘れない。計画の大筋が四半世紀後の代用水開発とほぼ一致していたのだ。
 「為永がこれを下敷きに計画を練ったのは間違いない。民衆の知恵を生かして民衆の望みを実現する。時代は変わっても行政に携わる者が常に目指すべきことです」

【井沢為永】
 1663年(寛文三年)、紀州那賀郡溝口村生まれ(1654年=承応三年という説もある)。紀州藩で土木・治水に手腕を発揮。紀州藩主から将軍になった徳川吉宗が江戸に呼び寄せ、勘定吟味役や美濃郡代を務めた。見沼の開発のほか中川、多摩川の改修など全国の新田開発や河川改修を手がけた。1738年(元文三年)3月に没。功績をたたえる記念碑や祠が各地に残っているほか、屋敷神として祀った家もあった。
 用排水の分離による大規模な人工水路の開発、伏越樋、掛渡井などの新技術を使った河川工法はその後、紀州流といわれた。

朝日新聞埼玉版(1998年(平成10年)8月24日 月曜日)から転載

 




ホームページへ