(まわりぶたい みぬまたんぼ)






4.「さぎ山」盛衰

 浦和市東部にある「さぎ山記念公園」。一帯はかつて、サギの繁殖地として国の特別天然記念物に指定されていた。最盛期に巣の数6千、約3万羽いたサギが消えて四半世紀になる。



 「木にサギがとまるとモクレンの花のようだった。夕立が来て青黒いシイの木で羽ばたく姿のきれいなことといったら・・・」
 サギが最後に営巣した林がある萩原家の静江さん(87)は、絵の中から抜け出したような姿を今でも覚えている。
 家の中にいても鳴き声で会話が聞き取れない。屋敷内を歩く時はフンを避けるため傘をさした。フンは地下にしみこむ。井戸水は臭くて、わかさないと飲めなかった。
 そんな苦労も今は懐かしい。この夏、白い鳥が一羽飛んでいるのを見つけた。飛び方ですぐサギだとわかった。「また巣をかけてくれれば」。しかし、何度か旋回して飛び去った。



 サギの繁殖は、見沼田んぼの誕生と深いかかわりを持つ。営巣が始まったのは、見沼干拓直後の江戸時代中期。魚やカエルなどが生息する水田は格好のえさ場だった。一帯が紀州藩の鷹場として、厳しい規制が敷かれたことも大きかった。鳥を捕まえてはいけない。追い払ってもいけない。イヌを飼っては駄目、かかしを立てるのにも許可が必要だった。
 鷹場制度が江戸末期に廃止されても人々はサギ山を守り続けた。1938年(昭和十三年)には、サギとサギ山が天然記念物(後に特別天然記念物)に指定された。

エサ場の水田減り、農薬直撃

 ところが60年代半ばからサギが突然減り始めた。65年に3140あった巣の数は70年に394に激減する。
 「主な原因は減反でエサをとる水田が減ったことと、農薬の影響でしょう」。県生態系保護協会研究部長の須永伊知郎さんは指摘する。解剖されたサギの死体からは肝臓で16.9ppmという、健康体の10倍近い高濃度の水銀が検出されたという。
 DDTに代表される塩素系、水銀系などの毒性の強い農薬は戦後、急速に普及した。70年前後に相次いで使用が禁止されたが、サギのえさとなる水生生物に大きな影響を及ぼした。害虫や病害の駆除、安全衛生をうたい文句に国策として広がった農薬は、250年繁殖し続けた野田山のサギを瞬く間に消し去った。72年、サギは一羽も営巣しなくなった。見沼田んぼが生んだサギ山は、その変ぼうとともに姿を消した。



 「お前がサギを追い出したって、よく言われるんですよ」。サギが消える前年に静江さんの息子の哲さんと結婚した知美さん(50)は、そういって笑う。
 昨年4月から、かつてサギが営巣した林の中で体験農園を始めた。約100人の親子が県内各地から通う。子どもたちは土の香りにすぐ夢中になる。普段は食べない野菜でも、有機無農薬栽培で自分が育てたものなら喜んでかぶりつく。
 知美さんは、訪れる子どもに必ずサギ山の歴史を話す。「一度壊れた自然は二度と戻らない。その象徴がサギ山です。サギ山を守ってきた家の者として、250年の歴史がなぜ閉じたのかを語り継ぎたい」

【鷹(たか)狩りと野田山のサギ】
 飼いならしたタカを放って野鳥を捕る鷹狩りは古代からあり、八代将軍徳川吉宗によって制度化された。鷹狩りは武芸の鍛練や民情視察を兼ねていた。大名が鷹狩りをする場所を鷹場と呼び、管理するため「鳥見」という役人が置かれた。野鳥は手厚く保護され、禁を破ろうとする者は鳥見が厳しく取り締まった。
 チュウダイサギ、チュウサギなど5種類のサギが春から秋にかけて生息した野田山は、紀州藩の鷹場内にあった。「紀伊殿御囲鷺(きいどのおかこいさぎ)」という名で保護された。

朝日新聞埼玉版(1998年(平成10年)8月31日 月曜日)から転載

 




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