小野篁 おののたかむら 延暦二十一〜仁寿二(802〜852)

参議岑守の長子。弘仁初年、陸奥守となった父と共に任国に下る。のち帰京したが、弓馬を好み学業に励まず、これを聞いた嵯峨天皇が好学の父と比較して嘆いたため、篁は恥じて以後学問に精進したという。弘仁十三年(822)、二十一歳の時文章生の試験に及第し、その後東宮学士などを経て、承和元年(834)正月、三十三歳で遣唐副使に任命される。この時従五位下弾正少弼兼美作介。翌承和二年に出帆したが、難破して渡唐に失敗し、同三年にも出航して果たさず。同五年、三度目の航海に際し、大使藤原常嗣の遣唐使船が損傷したため篁の乗る第二船と交換されることとなり、これに抗議して、病身などを理由に進発を拒絶した。しかも大宰府で嵯峨上皇を諷する詩を作ったため、上皇の怒りに触れて官位を奪われ、隠岐に流された。二年後、その文才を惜しまれて帰京を許され、諸官を経て、承和十四年、参議に就任。仁寿二年(852)、従三位に至ったが、同年十二月二十二日、薨去。五十一歳。京都市北区紫野西御所田町に墓所がある。
六歌仙時代の直前に位置する重要な歌人。古今集の六首を始め、勅撰入集は計十二首。異母妹との交渉を中心とした歌物語風の『篁物語』(『小野篁集』とも)があるが、後人の創作である(作者・成立時期未詳)。漢詩文にすぐれ、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』などに作を残す。『野相公集』五巻があり、鎌倉時代まで伝存したというが、その後散佚した。勅撰和歌集入集は古今集の六首、新古今集の二首、続古今集の二首、玉葉集の二首、新千載集の一首、計十二首。
参考:小野篁遺跡(流謫地跡)と現地付近の写真(隠岐郡海士町豊田)

梅の花に雪のふれるをよめる

花の色は雪にまじりて見えずとも香をだににほへ人の知るべく(古今335)

【通釈】白梅よ、花の色は雪にまざって見えないとしても、せめて香だけでも匂わせよ、人がそれと気づけるように。

【補記】梅の花に雪が降り積もっているのを詠んだという歌。白梅と雪のまぎらわしさは万葉集にも既に見える趣向(参考歌)。

【他出】新撰和歌、奥義抄

【参考歌】大伴旅人「万葉集」巻八
我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも
  遍昭「古今集」
花の色はかすみにこめて見せずとも香をだにぬすめ春の山風

【主な派生歌】
夏衣春におくれて咲く花の香をだににほへおなじ形見に(藤原家隆[新拾遺])

忍びてかたらひける女の、親聞きていさめ侍りければ

数ならばかからましやは世の中にいと悲しきはしづの苧環(をだまき)(新古1425)

【通釈】[詞書]或る女とひそかに情を通じたが、その親が聞きつけて逢うことを禁じたので。
[歌]人並の身分であったなら、こんなことになっただろうか。世の中でこれ以上なく悲しいのは、わが身のいやしさだ。

【語釈】◇数ならば 物の数に入る身分ならば。◇しづの苧環 倭文(しづ)織にする麻糸を巻きつけたもの。「しづ」に賎(身分のいやしいこと)を掛ける。◇いと悲しきは このうえなく悲しいものは。「いと」は糸と掛詞になり、「苧環」の縁語になる。

【補記】出典は『篁物語』。おそらく篁本人の作ではあるまい。

【他出】篁物語、定家十体(面白様)、時代不同歌合、色葉和難集、別本和漢兼作集、歌林良材

【主な派生歌】
くり返しくやしきものは君にしも思ひよりけむしづの苧環(源師光[千載])
くりかへし思ふ心はありながらかひなき物はしづのをだ巻(大江匡房[玉葉])

妹のをかしきを見て書きつけて侍りける

中にゆく吉野の川はあせななむ妹背(いもせ)の山を越えてみるべく(玉葉1277)

【通釈】中を流れる吉野の川は涸れてしまってほしい。両岸の兄山と妹山を隔てなく見たいので。

【語釈】 ◇妹 女のきょうだい。年齢の上下に関係なく、兄弟から見て姉妹を言う。◇をかしき 心を惹かれるさま。◇中にゆく 妹山・背山の間を流れてゆく。◇あせななむ 水が涸れてしまってほしい。◇妹背の山 吉野川(紀伊国に入ると紀ノ川)を挟んで聳える妹山と背山。「妹背の山を越え」とは、近親相姦の禁忌を踏み越え、姉妹との恋を遂げることを言う。

【補記】『篁物語』に見える歌。これも篁本人の歌とは思えない。

いもうとの身まかりにける時よみける

泣く涙雨とふらなむ渡り川水まさりなばかへりくるがに(古今829)

【通釈】私の泣いて流す涙が雨のように降ったらよい。あの世へと渡る川の水が増さって、妹が引き返してくるように。

【語釈】◇渡り川 この世とあの世の境界を流れる川。

【補記】古今集巻十六哀傷歌の巻頭。妹(女のきょうだい。古くは年上にも言う)が亡くなった時に詠んだという歌。『篁物語』の近親相姦物語の淵源となったのはこの歌であろう。『古今和歌六帖』には作者不明記で載る。

【他出】新撰和歌、古今和歌六帖、奥義抄、袖中抄、六百番陳状、和歌色葉、定家八代抄、色葉和難集、別本和漢兼作集

【主な派生歌】
渡らなむ水増りなば飛鳥川あすは淵瀬になりもこそすれ([狭衣物語])

諒闇(らうあん)の年、池のほとりの花を見てよめる

水のおもにしづく花の色さやかにも君がみかげの思ほゆるかな(古今845)

【通釈】水面に映っている花の色のように、冴え冴えと主君の御面影が偲ばれることよ。

【補記】「諒闇の年」は先帝の喪に服する年。いつを指すとも分からない。嵯峨上皇崩御は承和九年(842)、仁明天皇崩御は嘉承三年(850)である。池の水面に映った花を見て、そのように「さやか」に御面影が偲ばれる、と亡き天皇への思慕を詠んだ。「水のおもに」なら「うつる」「うかぶ」などと言うのが普通のところ、「しづく」(「しづくとは、水にあらはるれども、水にいりはてず」僻案抄)という語を用いて感情に厚みが出、得も言われぬ趣が出た。初二句字余りもしみじみと余韻を引く。

【他出】定家八代抄、歌林良材

【参考歌】作者未詳「万葉集」巻七
水底にしづく白玉たがゆゑに心つくして我が思はなくに

隠岐の国に流されける時に、舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける

わたの原八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟(古今407)

【通釈】大海原を、数知れぬ島々の方へ向けて、遥か隠岐の島まで漕ぎ出して行ったと、都の人には告げてくれ、海人の釣舟よ。

【語釈】◇わたの原 「わた」は海の古称。◇八十島かけて 「八十」は数が多いことのたとえ。「かけて」は目標に加える意。島々をいくつも辿って遥かな目的地へ向かうことを言っている。◇海人(あま)の釣舟 漁師の釣舟。「心なき釣舟に人にはつげよといへる心、尤感ふかし」(幽斎抄)。「はかなき釣舟にいへるぞ、かへりて歌の心なりける」(香川景樹)。

【補記】承和五年(838)、遣唐副使であった篁は大使藤原常嗣と対立し、病と称して進発しなかった上、遣唐使をめぐって嵯峨上皇を諷刺したため、罪を得て隠岐遠流に処された。舟に乗って流刑地へ発つに際し、京にある人(家族であろう)のもとに贈ったという歌。出航地は不詳であるが、難波と考えるのが普通。出雲の千酌(ちくみ)駅での作とする説もある。

【他出】新撰和歌、新撰髄脳、金玉集、深窓秘抄、和漢朗詠集、和歌体十種(余情体)、今昔物語、和歌童蒙抄、袖中抄、水鏡、宝物集、和歌色葉、古来風躰抄、定家十体(濃様)、定家八代抄、時代不同歌合、別本八代集秀逸(家隆・定家撰)、百人一首、色葉和難集、別本和漢兼作集、撰集抄、世継物語、井蛙抄

【主な派生歌】
漕ぎ出でぬと人につぐべきたよりだに八十島遠き海人の釣舟(藤原家隆)
月かげに虫明の瀬戸を漕ぎ出づれば八十島かけておくる鹿の音(後鳥羽院)
わたの原をちの霞の春の色に八十島かけてかへる雁がね(後鳥羽院)
わたつ海の浪の花をば染めかねて八十島とほく雲ぞ時雨るる(*後鳥羽院)
和田の原八十島かけてしるべせよ遥かにかよふ沖の釣舟(*藤原秀能[新拾遺])
わたの原吹くればさゆる汐風に八十島かけて千鳥なく也(源通方[続古今])
わたの原八十島かけてすむ月にあくがれ出づる秋の舟人(藤原行房[続後拾遺])
天の原八十島かけて照る月のみちたる汐に夜舟こぐなり(洞院公泰[風雅])
むかへ舟八十瀬をかけてこぎ出でぬと妻にはつげよ天の河風(下河辺長流)

隠岐の国に流されて侍りける時によめる

思ひきや(ひな)のわかれにおとろへて海人のなはたきいさりせむとは(古今961)

【通釈】思っただろうか。田舎の地に遠く隔てられ、落ちぶれて、海人の縄を手繰って漁をしようとは。

【語釈】◇思ひきや 「や」は反語的な疑問。思っただろうか、いや思いもしなかった。◇おとろへて 悄気て。意気阻喪して。「落ちぶれて」の意にもなる。◇海人のなはたき 海人が漁をする時に縄(網縄・釣縄など)を手繰ること。

【補記】隠岐に流されていた時に詠んだという歌。すなわち承和五年(838)から承和七年(840)の間の作である。

【他出】新撰和歌、古今和歌六帖、俊頼髄脳、奥義抄、袖中抄、和歌色葉、古来風躰抄、定家八代抄、時代不同歌合、色葉和難集、別本和漢兼作集

【主な派生歌】
思ひきやあひみぬ事をいつよりと数ふばかりになさむ物とは(*源信明[後撰])
思ひきや君が衣をぬぎかへて濃き紫の色を着むとは(藤原師輔[後撰])
春の夜の夢の中にも思ひきや君なき宿を行きてみむとは(*藤原忠平[後撰])
かけてだにわが身のうへと思ひきや来む年春の花を見じとは(伊勢[後撰])
思ひきや別れし秋にめぐりあひて又もこの世の月を見んとは(*藤原俊成[新古今])

題しらず

しかりとて背かれなくに事しあればまづ嘆かれぬあな()世の中(古今936)

【通釈】だからと言ってこの世に背を向けることもできないのに。なにか事が起こると、まずはともあれ歎いてしまうことだ、ああ辛い世の中よ。

【語釈】◇しかりとて 第四句の「まづ歎かれぬ」を承ける。歎いたところで。◇背かれなくに (現世に対して)背を向けられないのに。「そむく」は、知らぬふりをする、捨てる、出家するなどの意。◇事しあれば 平生とは異なる事件があった時となれば。いざとなると。◇まづ歎かれぬ まっさきに、つい歎いてしまう。現実的な対処をする前に、心が参ってしまう、ということ。なおこの句、元永本・清輔本では「まづなげかるる」。

【他出】秋萩集、新撰和歌、古今和歌六帖、古来風躰抄、定家八代抄、別本和漢兼作集、井蛙抄

【主な派生歌】
春の花さきては散りぬ秋の月みちてはかけぬあな憂世の中(殷富門院大輔[玉葉])
しかりとて今日やは名のる時鳥まづ春暮れて恨めしの世や(藤原定家)
老となるつらさは知りぬしかりとて背かれなくに月を見るかな(藤原信実[続後撰])
虎とのみ用ゐられしは昔にて今はねずみのあな憂世の中(*宗尊親王)
ちらす風あだなる桜かたがたにうらみもはてずあな憂世の中(木下長嘯子)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年11月05日