大江匡房 おおえのまさふさ 長久二〜天永二(1041-1111) 号:江師(ごうのそち)

匡衡赤染衛門の曾孫。大学頭従四位上成衡の子。母は宮内大輔橘孝親女。
神童の誉れ高く、天喜四年(1056)、十六歳で文章得業生に補せられる。治暦三年(1067)、東宮学士として尊仁親王(即位して後三条天皇)に仕えたのを始め、貞仁親王(白河)善仁親王(堀河)と三代にわたり東宮学士を勤めた。左大弁・式部大輔などを経て、寛治八年(1094)六月、権中納言に至り、同年十一月、従二位に進む。永長二年(1097)、大宰権帥を兼任し、翌年筑紫に下向。康和四年(1102)、正二位に至る。長治三年(1106)、権中納言を辞し、大宰権帥に再任されたが、病を理由に赴任しなかった。天永二年(1111)七月、大蔵卿に任ぜられ、同年十一月五日、薨じた。
平安時代有数の碩学で、その学才は時に菅原道真と比較された。稀有な博識と文才は、『江家次第』『狐媚記』『遊女記』『傀儡子記』『洛陽田楽記』『本朝神仙伝』『続本朝往生伝』など多数の著作を生み出した。談話を録した『江談抄』も残る。漢詩にもすぐれ、『本朝無題詩』などに作を収める。
歌人としては承暦二年(1078)の内裏歌合、嘉保元年(1094)の高陽院殿七番歌合などに参加し、自邸でも歌合を主催した。『堀河百首』に題を献じて作者に加わる。また万葉集の訓点研究にも功績を残した。後拾遺集初出。詞花集では好忠・和泉式部に次ぎ第三位の入集数。勅撰入集百二十。家集『江帥集』がある。

  12首  1首  4首  2首  3首 離別 2首 哀傷 3首  3首 計30首

堀河院御時、百首歌奉り侍りけるに、春立つ心をよめる

氷ゐし志賀の唐崎(からさき)うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く(詞花1)

【通釈】凍りついていた志賀の唐崎の汀(みぎわ)はすっかり氷がとけて、さざ波を寄せる春風が吹いている。

【語釈】◇堀川院御時、百首の歌… 康和年間(1099〜1104)成立の堀河御時百首和歌(太郎百首)。◇志賀の唐崎 滋賀県大津市唐崎。琵琶湖の西岸。

【他出】堀河百首、匡房集、袋草紙、古来風躰抄、和漢兼作集、歌枕名寄

堀川院御時、百首の歌奉りけるとき、残雪をよめる

道絶ゆといとひしものを山里に消ゆるは惜しきこぞの雪かな(千載4)

【通釈】冬の間は道が途絶えて煩わしく思っていたのに、こうして山里にも春がおとずれてみると、消えてしまうのが惜しくなる、去年の雪であるよ。

【他出】堀河百首、匡房集、後葉集、古来風躰抄、題林愚抄

【主な派生歌】
道絶ゆる山のかけはし雪消えて春の来るにも跡は見えけり(藤原定家)

堀川院の御時、百首の歌のうち、霞の歌とてよめる

わぎも子が袖ふる山も春きてぞ霞の衣たちわたりける(千載9)

【通釈】「妻が袖をふる山」という布留(ふる)の山も、春になって、白い衣を纏うように霞が立ちこめたなあ。

【語釈】◇袖ふる山 「ふる」は地名をかけた掛詞。布留山は今の天理市布留あたりの山。石上神宮がある。「袖ふる」は「霞の衣」のイメージと響き合う。

【補記】袖・ふる・はる(春・張る)・きて(来て・着て)・衣・たち(立ち・裁ち)、と縁語を連ねている。

【本歌】「万葉集」巻11-2415
をとめらを袖振る山の瑞垣の久しき時ゆ思ひけり我は

堀川院御時、百首の歌奉りけるとき、梅の花の歌とてよめる

にほひもて()かばぞ()かむ梅の花それとも見えぬ春の夜の月(千載20)

【通釈】どの辺に咲いているか、匂いでもって区別しようと思えば出来るだろう。春夜の朧月の下、それと見わけがつかない梅の花だけれど。

【本歌】山部赤人「万葉集」・よみ人しらず「後撰集」
我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば
  凡河内躬恒「古今集」
心あてに折らばや折らん初霜のおきまどはせる白菊の花

百首歌の中に、柳を

さほ姫のうちたれ髪の玉柳ただ春風のけづるなりけり(玉葉92)

【通釈】佐保姫の長い垂れ髪のような柳は、ただ春風が櫛でとくばかりで、こんなに美しく打ちなびいているのだ。

【語釈】◇さほ姫 平城京の東側に位置した佐保山の女神。大和の西境にあたる龍田山の龍田姫が秋の女神とされたのに対し、佐保姫は春を司る女神とされた。◇うちたれ髪 結い上げず、垂らしたままの髪。◇玉柳 美しい柳。「玉」は美称。◇けづる 梳(くしけず)る。櫛を入れて髪筋をととのえる。

【参考歌】凡河内躬恒「拾遺集」
郭公をちかへりなけうなゐ子がうちたれ髪のさみだれの空

堀川院の御時、百首の歌奉りけるとき、春雨の心をよめる

よもの山に木の芽はる雨ふりぬればかぞいろはとや花のたのまむ(千載31)

【通釈】四方の山に春雨が降り、木の芽をふくらませるので、花は春雨を父母と頼りにするのだろうか。

【語釈】◇木の芽はる雨 「はる」は、(芽が)張る・春(雨)の掛詞。◇かぞいろは 父母、両親。日本書紀などに見える語。

【本歌】紀貫之「古今集」
霞たちこのめも春の雪ふれば花なき里も花ぞちりける

【主な派生歌】
霞しく木の芽春雨ふるごとに花の袂はほころびにけり(顕季[新勅撰])
霞たちこのめ春雨きのふまでふる野の若菜今朝は摘みてん(藤原定家[新後撰])
野も山もおなし緑に染てけり霞よりふるこのめ春雨(藤原良経[続千載])
霞たち木のめ春雨ふる里の吉野の花も今や咲らん(後鳥羽院[続後撰])

京極前太政大臣の家に歌合し侍りけるによめる

白雲と見ゆるにしるしみよしのの吉野の山の花ざかりかも(詞花22)

【通釈】山に白雲がかかっているように見えるのではっきり分かる。吉野の山の花盛りなのだ。

【語釈】◇京極前太政大臣 藤原師実。◇みよしのの吉野 地名を重ねて言う。吉野を詠む場合の慣用的な言い方。

【補記】寛治八年(1094)八月十九日、前関白藤原師実が自邸高陽院で催した晴儀歌合「高陽院七番歌合」出詠歌、二番右持。源経信の判詞は「めづらしげなけれど、別の難もなければ」と素っ気ないが、後世の評価は高く、例えば鴨長明の『無名抄』では俊恵がこの歌を評して曰く「是こそはよき哥の本とは覚え侍れ。させる秀句もなく、飾れる詞もなけれど、姿うるはしく清げにいひ下して、たけ高くとほしろきなり」。

【本歌】よみ人しらず「後撰集」
みよしのの吉野の山の桜花しら雲とのみ見えまがひつつ
【参考歌】よみ人しらず「古今集」
春霞たてるやいづこみよしのの吉野の山に雪はふりつつ

【他出】高陽院七番歌合、江師集、和歌童蒙抄、後葉集、袋草紙、無名抄、定家八代抄、瑩玉集、八代集秀逸、八雲御抄

遥見山花といへる事をよめる

初瀬山雲ゐに花のさきぬれば天の川波たつかとぞみる(金葉51)

【通釈】遥かに眺めれば初瀬山は雲の上に桜の花が咲いたので、天の川に波が白く立っているのかと思うよ。

【語釈】◇はつせ山 奈良県桜井市初瀬山。長谷寺がある。

故郷花といふことを

桜さく奈良の都を見わたせばいづくもおなじ八重の白雲(玉葉186)

【通釈】桜の咲いた奈良の旧都を見渡すと、どこもかしこも同じだ。白雲、白雲。幾重もの白雲。

【本歌】良暹「後拾遺集」
さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくもおなじ秋の夕暮

内のおほいまうちぎみの家にて、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥かに山桜を望むといふ心をよめる

高砂のをのへの桜さきにけり外山の霞たたずもあらなん(後拾遺120)

【通釈】遥かに山並を眺めやれば、高い峰の上の方に、桜が咲いているなあ。こっち側の里近い山に、霞が立たないでほしいよ。

【語釈】◇内のおほいまうちぎみ 内大臣藤原師通(1062-1099)。◇高砂(たかさご) 播磨国の歌枕(今の兵庫県高砂市)ともいい、地名でなく単に高い山をさす語ともいうが、ここでは「高砂の」で「尾上」にかかる枕詞か。「高砂の」を枕詞として用いた例歌として安東次男『百首通見』は「山守はいはばいはなむ高砂のをのへの桜折りてかざさん」(後撰集、素性)を挙げ、この歌の詞書が「花山にて、道俗、さけたうべけるをりに」であることを指摘している。◇外山(とやま) 深山(みやま)の反意語。山地の外側をなし、平地と接している山々。

【補記】外山に比べ、深山の桜は咲くのが遅い。外山の桜が散ってしまった後、その後方の奥山の頂近くに桜が咲いたのを発見したのである。その眺めを愛惜するあまり、外山に霞の立つことを憂慮している心である。「『高砂の尾上』と『外山』とを対照させ、壮大で広がりのある景を構成しており、『たけ高い』詠風の歌」との評価もあるが(有吉保『百人一首全訳注』)、遠景から前景に引き戻し、外山の霞に注文をつけたこの歌から、「壮大」な感じも「たけ高い」感じも私は受けない。主知的な趣向と抒情が無理なく結びつき、「詞づかひさはやかに」(応永抄)歌われているところが美点であろう。

【他出】江帥集、古来風躰抄、定家八代抄、時代不同歌合、百人一首

【主な派生歌】
たかさごのをのへの桜たづぬれば都の錦いくへ霞みぬ(式子内親王[新勅撰])
高砂の松と都にことづてよ尾上の桜いまさかりなり(藤原定家)
ほのぼのと花はと山にあらはれて雲にかすみのあけはなれゆく(藤原良経)
たちかへりと山ぞかすむたかさごの尾上のさくら雲もまがはず(藤原雅経[続拾遺])
またれつる尾上の桜色見えて霞のまよりにほふ白雲(藤原隆博[新後撰])
高砂の尾上のはなの雲井には外山の霞およぶものかは(後柏原院)
山鳥のをのへの桜咲きにけり長き日さらず雲のかかれる(小沢蘆庵)

堀川院の御時、百首の歌奉りける時、桜をよめる

山桜ちぢに心のくだくるは散る花ごとにそふにやあるらむ(千載84)

【通釈】山桜を思って、心は千々に砕けてしまった。花びらの一枚一枚に、私の心のカケラが連れ添って散ってゆくとでもいうのか。

堀川院の御時、百首の歌奉りける時、春の暮をよめる

つねよりもけふの暮るるを惜しむかな今いくたびの春と知らねば(千載134)

【通釈】三月晦日、いつにもまして今日の暮れるのが惜しまれるよ。このあと何度めぐり逢えるかわからない春だから。

卯花連垣といへる事をよめる

いづれをかわきてとはまし山里の垣根つづきにさける卯の花(金葉99)

【通釈】どこがその家と区別して訪ねよう。山里の家々は、見わたす限り卯の花が垣根につらなって咲いている。

【参考歌】紀友則「古今集」
雪ふれば木ごとに花ぞ咲きにけるいづれを梅と分きて折らまし
  凡河内躬恒「躬恒集」
いづれをかわきて折らまし梅の花枝もたわわにふれる白雪

題しらず

たとふべきかたこそなけれわぎも子が寝くたれ髪の朝顔の花(新千載371)

【通釈】何に喩えても言い表しようがない。寝乱れた髪をした妻の「朝顔」ではないが、朝顔の花は。

【語釈】「わぎも子が寝くたれ髪の」は「朝顔」を導く序。

題しらず

妻恋ふる鹿のたちどを尋ぬればさ山がすそに秋風ぞふく(新古441)

【通釈】妻を恋しがって鹿が鳴く。その声をたよりに、鹿のいる場所を求めて野を行くと、狭山の山裾には秋風が吹いていた。

【語釈】◇たちど 立ち所。立っている場所。◇さ山 武蔵国の狭山(いまの埼玉県の狭山丘陵)か。狩猟地であったらしい。例「五月闇さ山の峰にともす火は雲の絶え間の星かとぞ見る」(顕季[千載])。「さ」は接頭語で普通名詞とみる説もある。

【他出】江帥集、和漢兼作集、定家十体(麗様)、桐火桶

題しらず

秋来れば朝けの風の手をさむみ山田の引板(ひた)をまかせてぞ聞く(新古455)

【通釈】もう秋になったので、夜明けの風は手に寒く、引板を鳴らすのも辛い。風の吹くのに任せ、板が音を立てるのを聞くばかりだ。

【語釈】◇引板 吊るした板を引いて鳴らす、鳥獣よけの仕掛け。

【補記】明け方、山裾の田を見回りに行った人の立場で、初秋早朝の田園の風情を詠む。『匡房集』の詞書は「鳥羽殿にて、山家秋の心を」。藤原清輔撰『和歌一字抄』には題「田家秋興」として載せる。

【他出】匡房集、和歌一字抄、定家十体(事可然様)、三五記、桐火桶

承暦二年内裏歌合に、紅葉をよめる

龍田山ちるもみぢ葉を来て見れば秋は麓にかへるなりけり(千載385)

【通釈】龍田山に来て、紅葉した葉の散るのを見てわかった。秋が帰ってゆく先は、山の麓だったのだ。

【語釈】◇龍田山 奈良県生駒郡三郷町の龍田神社背後の山。

【補記】去り行く季節はどこへ帰るのか。その行く先をいぶかる趣向は古今集以来少なくない。この歌では、麓へ向かって散ってゆく紅葉によって、秋の去り行く場所を知った、とする。

【主な派生歌】
もみぢ葉の深山にふかく散りしくは秋のかへりし道にやあるらん(*後二条院[風雅])

堀川院の御時、百首の歌奉りける時よめる

高砂のをのへの鐘の音すなり暁かけて霜やおくらむ(千載398)

【通釈】高砂の峰の上から鐘の音が聞えてくる。暁にかけて霜が降りたのだろう。

【語釈】◇高砂のをのへ 前出。ここでは播磨国の歌枕と考えてよいだろう。高砂には弘仁六年(816)弘法大師創建と伝わる十輪寺がある。◇霜や置くらむ 唐の豊山の鐘が霜に和して鳴るという故事に拠る。「豊嶺に九鐘有り、秋霜降れば則ち鐘鳴る」(山海経)。

【主な派生歌】
高砂や秋もいまはの鐘の音ををのへの雲につつみてぞゆく(*中院通秀)

深山の(あられ)をよめる

はし鷹の白ふに色やまがふらんとがへる山に霰ふるらし(金葉276)

【通釈】はし鷹の毛の白い斑点に色を見間違えるだろうか。鳥屋(とや)に籠っている山に、霰が降っているようだ。

【語釈】◇はし鷹 箸鷹。狩猟につかう小型の鷹。◇とがへる山 羽の抜け替わる時期、鷹は小屋にこもる。その小屋のある山。

承暦二年内裏歌合に、祝の心をよみ侍りける

君が代は久しかるべしわたらひや五十鈴の川の流れ絶えせで(新古730)

【通釈】陛下の御代は、末永く続くに違いありません。度会(わたらい)の五十鈴川の流れは絶えることなく――。

【語釈】◇承暦二年 西暦1078年。白河天皇の御代。◇わたらひ 伊勢国度会郡。伊勢神宮の鎮座地。「わたらひや」で神宮を暗示している。◇五十鈴の川 伊勢神宮内を流れる川。歌枕紀行伊勢国参照。◇流れ絶えせで 皇統の連綿と続くことを含意する。

寛治二年、大嘗会屏風に、鷹の尾山をよめる

とやかへる鷹の尾山の玉つばき霜をばふとも色はかはらじ(新古750)

【通釈】鷹の尾山の美しい椿は、いくたび霜に逢っても、色は変わることがないでしょう。

【語釈】◇寛治二年 西暦1088年。堀河天皇の御代。◇とやかへる 鳥屋帰る。前出の「とがへる」に同じ。ここでは「鷹の尾山」の枕詞として用いる。◇鷹の尾山 近江国。

天仁元年大嘗会悠紀方、近江国石根山

石根(いはね)山やま(あゐ)にすれる小忌(をみ)(ごろも)袂ゆたかに立つぞうれしき(新千載2363)

【通釈】石根山に生える山藍で摺った小忌衣が袂を広々と裁っているように、豊かな御代にあって皇位にお立ちになることを嬉しく存じます。

【語釈】◇天仁元年大嘗会 西暦1108年、鳥羽天皇の大嘗会。◇石根山 滋賀県甲賀郡甲西町の岩根山。◇やま藍 藍色の染料につかわれた草。◇小忌衣 白麻の地に青摺で模様をつけた斎衣。赤紐を肩から掛ける。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
うれしきをなににつつまむ唐衣たもとゆたかにたてといはましを

離別

堀川院の御時、百首の歌奉りける時、別れの心をよみ侍りける

行末を待つべき身こそ老いにけれ別れは道の遠きのみかは(千載480)

【通釈】あなたといつか再びお逢いできるとしても、その将来を待つべき自分の身は年老いてしまった。別れは道が遠いだけではない。恐らく生と死を隔てることになるのだ。

思ふ人のあづまへまかりけるを、逢坂の関まで送るとて

かぎりあれば八重の山路をへだつとも心は空にかよふとをしれ(玉葉1119)

【通釈】お供するのも限りがあるので、ここでお別れです。幾重にも重なる山道を隔てても、心は空を往き来してあなたのもとへ通っているのだと知ってください。

【語釈】◇逢坂の関 山城・近江国境にあった関。畿内と東国を隔てる。

哀傷

五月のころほひ、女におくれ侍りける年の冬、雪のふりける日よみ侍りける

わかれにしその五月雨の空よりも雪ふればこそ恋しかりけれ(後拾遺571)

【通釈】あの人と別れた日、雨がしきりに降っていた。涙にかき暮れて眺めたあの梅雨空が切なく思い出される。…あれから時が経ち、冬になって、雪の降る寒空を見上げれば、いっそうあの人のことが恋しいのだ。

【語釈】◇雪ふれば 「ふれば」に「経れば(時が経てば)」を掛けているか。

【補記】五月頃、親しかった女に先立たれた。その年の冬、雪の降った日に詠んだ歌。

【参考歌】時望朝臣妻「後撰集」
別れにし程をはてとも思ほえず恋しきことの限りなければ
  伊勢大輔「後拾遺集」
別れにしその日ばかりはめぐりきて生きもかへらぬ人ぞかなしき
  藤原忠家「続古今集」
別れにし昔の春を思ひ出でて弥生の今日の空ぞかなしき

【主な派生歌】
別れにしそのよの空のけしきより憂きは今日まで思ひしりにき(藤原公衡)

右衛門督基忠かくれ侍りてのち、後家につかはしける

花とみし人はほどなく散りにけり我が身も風をまつとしらなん(千載570)

【通釈】盛りの花と思っていた人は、程なく散ってしまいました。私も風を待つばかりの身と知ってください。

【語釈】◇基忠 藤原基忠(1056-1098)。忠家の子。俊忠の兄。◇後家 主人が死んだあとの家。基忠の遺族に歌を贈った、ということ。

顕仲卿、むすめにおくれて嘆き侍りけるころ、程へて問ひにつかはすとてよめる

その夢をとはば嘆きやまさるとておどろかさでも過ぎにけるかな(金葉616)

【通釈】夢のようなその出来事を尋ねたなら、よけい嘆きが増すばかりかと思って、訪問もせずに過ごしてしまいましたよ。

【語釈】◇顕仲卿 源顕仲右大臣顕房の子。◇その夢 顕仲の娘が亡くなったことを夢とぼかして言う。◇おどろかさでも 訪れもしないで。「おどろかす」には目を醒ます意もあり、夢の縁語になる。

頼綱朝臣、津の国の羽束(はつか)といふ所に侍りける時、遣はしける

秋はつるはつかの山のさびしきに有明の月を誰と見るらん(新古1571)

【通釈】秋も終りの九月二十日頃、羽束(はつか)の山はきっと寂しげな様子でしょう。あなたは有明の月を誰と見るのでしょう。

【語釈】◇頼綱朝臣 美濃守源頼国の息子。頼実の弟。後拾遺集以下に歌を載せる歌人。◇はつかの山 兵庫県三田市に同名の山がある。北摂山群のほぼ最西端に位置する。◇有明の月 陰暦二十日以降の月。月の出は遅く、明け方まで空に残る。

【補記】任地での独り寝のさびしさを思いやった歌。

周防内侍尼になりぬと聞きて、いひつかはしける

かりそめのうきよの闇をかき分けてうらやましくもいづる月かな(詞花370)

【通釈】仮初めのものにすぎない現世の闇の中をかき分けて進み、うらやましいことに、その外へと出て行った月なのだあなたは。

【語釈】◇うきよ 憂き世(辛い人生)・浮世(はかない現世)。また「よ」には夜を掛ける。

【本歌】在原業平「後撰集」
いとどしくすぎ行きがたの恋しきにうらやましくもかへる浪かな

【主な派生歌】
閉ぢはつるみ山の奥の松の戸をうらやましくも出づる月かな(源光行[新勅撰])

堀河院御時、百首歌奉りける中に

(もも)とせは花にやどりて過ぐしてきこの世は(てふ)の夢にぞありける(詞花378)

【通釈】百年もの間、花を住み家に借りて過ごしてしまった。やはりこの世は蝶の見る夢だったのだなあ。

【補記】堀河院百首、題は「夢」。『荘子』のいわゆる「荘周の夢」(→資料編)、および『摩訶止観』の「荘周夢為胡蝶、翔翔百年、悟知非蝶」を踏まえる。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日