源師光 みなもとのもろみつ 生没年未詳 法号:生蓮

村上源氏。大納言師頼の子。母は藤原能実女。泰光・具親宮内卿の父。
左大臣頼長の猶子となるが、官途に恵まれず、正五位下右京権大夫にとどまった。歌も不遇を嘆くものが多い。晩年出家し、生蓮と称した。
清輔らの六条藤家、俊恵法師らの歌林苑歌人と親しくした。自邸でもたびたび歌会を催している。正治二年(1200)、「後鳥羽院初度百首(正治初度百首)」に詠進。建仁三年(1203)、『千五百番歌合』の判者を務める。家集『師光集』がある。私撰集『花月集』を撰したというが、散佚。千載集初出。勅撰入集二十七首。『歌仙落書』歌仙。『新時代不同歌合』歌仙。

  3首  3首  2首  2首 計10首

春二十首より(二首)

梅が枝を吹きくる風の末なれや物なつかしき春のあけぼの(正治初度百首)

【通釈】梅の咲く枝を吹いて来た風のなれの果てなのだろうか。何となく慕わしい思いがする、春の曙。

【補記】春の明け方、何となく懐かしい気分をもたらす朝風を、梅の花を吹いて来た末なのかと思いやっている。

 

今はわが住み家とすべき吉野山花ゆゑにこそ入りはじめけれ(正治初度百首)

【通釈】今は出家した私の住み家とするはずの吉野山――思えば、最初は花を求めてこの山に入ったのだった。

【補記】吉野山は遁世者の隠棲の地であると共に、花の名所でもある。

花の歌の中に

わび人の宿には植ゑじ桜花ちればなげきの数つもりけり(続後撰121)

【通釈】私みたいな失意の人間の家には、桜を植えまい。散れば歎きの数が積もるだけだよ。

【語釈】◇なげき 不遇を悲しんで吐く溜息。「き」に木を掛ける。

【他出】歌仙落書、治承三十六人歌合、玄玉集、三百六十首和歌、新時代不同歌合

時雨の歌とてよめる

時雨ゆくをちの外山(とやま)の峰つづきうつりもあへず雲隠るらむ(千載409)

【通釈】峰から峰へとしぐれてゆく、遠くの端山。雨雲が渋滞し、移動しかねて、峰々はすっかり雲隠れてしまうだろう。

【語釈】◇外山 深山(みやま)・奥山の反意語。人里から姿を見ることの出来る山。山地の外側をなす山々。

【補記】『師光集』(新編国歌大観)には「小倉山しぐれてわたる嶺つづきうつりもあへず雲がくるらむ」とある。

正治百首歌に

聞く人もなくて時雨や過ぎぬらむ刈田の庵に雲ぞかかれる(新続古今1765)

【通釈】音を聞く人もいないまま、時雨は過ぎていってしまったらしい。誰もいない刈田の見張り小屋の上空に、雲がかかっている。

【語釈】◇刈田(かりた)の庵(いほ) 収穫期の田を見張るための小屋。

冬二十首より

いつしかも冬のけしきになりにけり朝ふむ庭の音のさやけき(正治初度百首)

【通釈】いつのまにか冬のけはいが感じられるようになった。朝、庭に出ると、土を踏む音の冴え冴えとしていることよ。

【語釈】◇けしき 景色でなく気色。自然界のほのかな動き、様子。

題しらず

恋しさを憂き身なりとてつつみしはいつまでありし心なるらむ(千載681)

【通釈】自分はこんな恵まれない境遇だからと、あの人への恋しさをずっと抑えていたっけ。いつまで堪え得た心だったのだろう。今はもう、とても堪えきれない。

【語釈】◇憂き身 辛いことの多い身の上。

題しらず

恋しとも又つらしとも思ひやる心いづれか先にたつらむ(千載735)

【通釈】あの人のことが恋しいと思いやる心もあり、またつれないと恨む心もある。二つの心が私の中で競い合っているのだが、どちらの心が勝って、先行するだろうか。

【補記】永万二年(一一六六)、「中宮亮重家朝臣家歌合」に「恋」題で詠んだ歌。恋しさと恨めしさとが競走するかのように言いなした面白さ。

こもりゐて侍りける頃、後徳大寺左大臣、白河の花見にさそひ侍りければ、まかりてよみ侍りける

いさやまた月日の行くも知らぬ身は花の春とも今日こそは見れ(新古1458)

【通釈】はてさて、籠居して歳月の移り行きも知りませぬ我が身は、花盛りの春であると今日初めて気づきました。

【補記】籠居していた頃、後徳大寺左大臣(実定)に白河(今の京都市左京区岡崎あたり)の花見に誘われ、参向して詠んだという歌。実定の家集『林下集』によれば、「しづみぬる水屑なれどもは花盛りうきいづる今日にたぐへとぞ思ふ」への返歌。

【他出】今撰集、歌仙落書、林下集、師光集、玄玉集

摂政、右大臣の時、家の歌合に述懐の歌とてよめる

今はただ生けらぬものに身をなして生まれぬのちの世にも()るかな(千載1088)

【通釈】今はただ、自分を生きていないものと見なして、まだ生まれていない後世に生きているようなつもりで人生を送っているよ。

【語釈】◇生まれぬのちの世 「のちの世」とは「生まれ変わってのちの世」ということであるが、生まれ変わらないうちから、既に今生を生きることをやめて、後世に生きているような思いでいる、というのである。

【補記】詞書の「摂政、右大臣の時」とは、摂政九条兼実が右大臣だった時ということで、「家の歌合」とは治承三年(1179)十月十八日の兼実家歌合(右大臣兼実歌合)を指す。掲出歌は二十九番左勝。俊成の判詞は「心ふかく、姿をかしく、いとよろしくこそ侍れ」。

【他出】月詣集、師光集、定家八代抄


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年11月22日