建礼門院右京大夫 けんれいもんいんのうきょうのだいぶ 生没年未詳

生年は仁平二年(1152)、久寿二年(1155)など諸説ある。
宮内少輔従五位上世尊寺流藤原伊行(これゆき)の娘。母は大神基政(おおみわのもとまさ)の娘、夕霧。父は三蹟の一人行成の六代孫で、自身も書家であった。母は筝の名手であったという(「中院右大臣家夕霧」の名で新勅撰集に歌を採られている)。兄弟に伊経・行家・尊円ほかがいる(尊卑分脈)。尊円は新勅撰集に歌を載せる歌人でもあるが、『勅撰作者部類』によれば藤原俊成の子であり、母夕霧の前夫が俊成であったと見る説もある。
承安二年(1172)、高倉天皇の中宮となった平徳子(清盛の娘。のちの建礼門院)に出仕する。やがて平資盛(重盛の子)と恋仲になり、藤原隆信とも関係をもった。この間、多くの平家の公達と親交し、小侍従藤原隆房ら歌人との交流もあった。
治承二年(1178)以前に宮仕えを退く。資盛は寿永二年(1183)七月、平家一門と共に都落ちするが、その直前に逢う機会があり、永の別れを告げられた。翌年、手紙を交わしたのを最後の交渉として、資盛は元暦二年(1185)三月、壇ノ浦に入水して果てた。都で恋人の死を聞いた後、大原寂光院に建礼門院を訪ね、その後比叡坂本を旅し、資盛の追善供養に努めた。
建久年間の後半(1190-99)頃、後鳥羽天皇の宮廷に再出仕する。建仁三年(1203)、藤原俊成の九十賀では、後鳥羽院からの贈物の法衣の袈裟に、宮内卿の歌を刺繍するなどした。その後、七条院(後鳥羽天皇の生母藤原殖子)にも仕えたようで、定家の日記『明月記』建永元年(1206)七月十二日条に「七条院右京大夫」の名が見える。
貞永元年(1232)頃、新勅撰集撰歌の資料として、藤原定家より家集を求められ、これに応じて提出したのが『建礼門院右京大夫集』であった(最終的な成立は、さらに後年のことである)。長文の詞書をもち、家集というよりは女流日記文学の系譜につらなる作品として評価が高い。なお新勅撰集には二首が採られたのみであったが、鎌倉時代後期の玉葉集には十首が撰入されている。
歌壇的な活動は多くはなく、承安五年(1175)頃の「高松宮歌合」「稲荷社歌合」、安元二年(1176)以前の「内大臣重盛菊合」などに出詠したことが窺われる程度である。また、仁安元年(1166)の「中宮亮重家家歌合」に五首の歌を残す「右京大夫」と同一人とする見方もあるが、確かでない。
新勅撰和歌集初出。源氏物語の続編として書かれた物語『山路の露』の作者と見る説もある。

以下には『建礼門院右京大夫集』より二十三首を採った。歌の順列は、同書に従った。詞書は前後を省略している場合がある。本文は主に小学館新編日本古典文学全集47所収の「建礼門院右京大夫集」(校注:久保田淳)に拠った。訳注などは、武蔵野書院刊『評註 建礼門院右京大夫集全釈』(本位田重美著)も参考にした。

思ひのほかに物思はしきこと添ひて、さまざま思ひ乱れし頃、里にて、遥かに西の方をながめやる、梢は、夕日の色沈みて、あはれなるに、またかき暗ししぐるるを見るにも

夕日うつる梢の色のしぐるるに心もやがてかきくらすかな(家集61)

【通釈】[詞書] 予期せず悩ましいことが加わって、色々と思い乱れていた頃、実家で、はるかに西の方を眺めやりながら物思いに耽っていると、梢は夕日の色の中に没して、あわれ深い風情であったが、そこへまた俄かに空を暗くして時雨が降るのを見るにつけても。
[歌] 夕日に映えていっそう美しかった梢の紅葉の色は、空が時雨れるとともに一転暗くなって、見ている私の心もそのままふさぎ込んでゆく。そして涙にかきくれるのだ。

【語釈】◇しぐるるに 時雨れるにつけ。時雨れる気色を見て、ほどの意。しぐれは涙を暗示する。◇かきくらす 俄にあたり一面を暗くする。

【補記】思いがけぬ恋が始まり、実家に帰って悩んでいた頃に詠んだ歌。この時の恋の相手は資盛と思われる。
玉葉集12-1660に入集。詞書は「思ふこと侍りける比、梢は夕日の色しづみてあはれなるに、またかきくらししぐるるを見侍りて」。

掛け離れいくは、あながちにつらき限りにしもあらねど、なかなか目に近きは、またくやしくも恨めしくも、さまざま思ふこと多くて、年も返りて、いつしか春のけしきもうらやましう、鶯のおとづるるにも(二首)

物思へば心の春もしらぬ身に何うぐひすの告げに来つらむ(家集67)

【通釈】[詞書] あの人が離れてゆくのは、必ずしも辛いばかりではないが、なまじっか近くで見たりするのは、また悔やまれたり恨めしく思えたり、いろいろ悩むことが多くて、そうこうするうち年も改まり、いつしか春の気配がするのも、幸せそうな人たちが羨ましく、鶯がやって来て鳴くのを聞くにつけても。
[歌] あれこれ思い悩んでいるので、心の中は春の訪れも関係ない。そんな私のところへ、鶯は何を告げにやって来たというのかしら。

【語釈】◇心の春もしらぬ 現実には春になっても、心の中に訪れる春については関知しない。春に「晴る」を響かせ、「心が晴れることのない」意を掛ける。◇何うぐひすの… 鶯は春の訪れを告げる鳥とされた。

【補記】恋人(資盛)と宮中で接する機会が多く、「悔しくも恨めしくも」思われて悩んでいた頃の作。
玉葉集14-1842に入集。詞書は「思ふこと侍りける比、鶯のなくをききて」。

 

とにかくに心をさらず思ふこともさてもと思へばさらにこそ思へ(家集68)

【通釈】あれこれと心を離れず思い悩むことがあって――それも、もうどうでもいいと思うようにするのだけれど、そう思えば思ったで、また余計そのことを思ってしまうのだ。

【語釈】◇さてもと思へば そのままでいいと思うと。悩みを解決しようとせず、そのままやり過ごしてしまおうと考えると。

内の御方の女房、宮の御方の女房、車あまたにて、近習の上達部(かんだちめ)殿上人(てんじやうびと)具して、花見あはれしに、悩むことありて交じらざりしを、花の枝に、紅の薄様(うすやう)に書きて、小侍従とぞ

さそはれぬ心の程はつらけれどひとり見るべき花の色かは(家集70)

【通釈】[詞書] 帝方の女房と、中宮方の女房とが、牛車たくさんで、側近の公卿・殿上人を連れて、一緒に花見をされた時、私は病気で参加しなかったところへ、桜の花の枝に、紅の薄手の鳥の子紙に書いた歌を付けて、贈ってくれた。歌の主は小侍従ということ。
[歌] 誘いに乗ってくれないあなたの心持ちはにくらしいけれど、私たちだけで見て過ごせるような花の美しさではありません。だからお見せしたくて、お届けしたのですよ。

風の気ありしによりてなれば、返しに、かく聞こえし

風をいとふ花のあたりはいかがとてよそながらこそ思ひやりつれ(家集71)

【通釈】[詞書] 風邪気味のせいで参加しなかったので、お返事にこう申し上げた。
[歌] 風をいやがる花ですから、風邪ひきの私が近寄るのはどうかしらと思いまして、遠くから花の美しさを想いやっていたのです。

【補記】小侍従の贈歌と共に風雅集の春の部(2-218,219)に入集。小侍従の歌の詞書は「高倉院御時、内裏より女房あまたいざなひて、上達部、殿上人花見侍りけるに、右京大夫、折ふし風の気ありとて、ともなひ侍らざりければ、花の枝につけてつかはしける」。

里なりし女房の、藤壺の御前の紅葉ゆかしきよし申したりしを、散り過ぎにしかば、結びたる紅葉をつかはす枝に書き付く

吹く風も枝にのどけき御代なれば散らぬもみぢの色をこそ見れ(家集112)

【通釈】[詞書] 里に下っていた女房が、藤壺の御前の紅葉を見たい旨申していたが、散ってしまったので、もみじの葉を付けた枝を贈った。それに歌を書き付けた。
[歌] 吹く風も枝を揺らさないほど穏やかな御代なので、いつまでも散らない、美しい紅葉の色を見ることができるのです。

【補記】新勅撰集16-098に入集。詞書は「高倉院御時、藤つぼの紅葉ゆかしき由申しける人に、むすびたる紅葉をつかはしける」。

雪の深く積もりたりし朝(あした)、里にて、荒れたる庭を見出(みい)だして、「今日来ん人を」とながめつつ、薄柳の衣(きぬ)、紅梅の薄衣(うすぎぬ)など着てゐたりしに、枯野の織物の狩衣、蘇芳(すはう)の衣、紫の織物の指貫(さしぬき)着て、ただひきあけて入(い)り来りし人の面影、わが有様には似ず、いとなまめかしく見えしなど、常は忘れがたく覚えて、年月(としつき)多く積もりぬれど、心には近きも、かへすがへすむつかし。

年月の積もりはててもその折の雪のあしたはなほぞ恋しき(家集115)

【通釈】[詞書] 雪が深く積もった朝、実家にいて、家の中から荒れた庭を見て、「(山里は雪ふりつみて道もなし)けふこむ人を(あはれとは見む)」と兼盛の歌を口ずさんだりして物思いに耽っていた。その時の私は、薄柳の衣に、紅梅の薄い上衣を重ねて(季節外れな衣裳を)着ていたが、あの人は枯野の織物の狩衣に、蘇芳の衣、紫の指貫という姿で、いきなり引き戸を開けて入ってきた。その時の面影は、私の有り様とは比べようもなく、大変しっとりと美しく見えた。そんなことなどが、いつも忘れがたく記憶に残って、多くの年月が経ったのに、心にはつい昨日のように近く思われるのも、ほんとうに困ったことだ。
[歌] すっかり歳月が積み重なったのに、あの時の雪の朝のことは、今もなお恋しく思い出されるのだ。

【語釈】◇つもり 雪の縁語。

【補記】里に下っていた時のある朝、資盛が訪問した。その時の回想。

人の心の思ふやうにもなかりしかば、「すべて、知られず知らぬ昔になしはててあらむ」など思ひしころ (二首)

常よりも面影に立つ夕べかな今や限りと思ひなるにも(家集120)

【通釈】[詞書] 恋人の心が私の思うようでなかったので、「一切、お互い知り合わなかった昔のことにしてしまおう」などと思っていた頃。
[歌] いつもより、あの人が面影に浮かんできてならない夕べだ。もう二人の仲はおしまいにしようという気持になるにつけても。

よしさらばさてやまばやと思ふより心弱さのまたまさるかな(家集121)

【通釈】もういい、このままこの恋は終わってしまえと、そう思うそばから、心弱さがまた増さってきて、決心は揺らいでしまうのねえ。

同じことをとかく思ひて、月のあかき夜、端つ方にながめゐたるに、むら雲晴るるにやと見ゆるにも

みるままに雲ははれゆく月かげも心にかかる人ゆゑになほ(家集122)

【通釈】[詞書] 同じこと(資盛との恋)をあれこれ思い悩んで、月の明るい晩、縁先でじっと夜空を眺めていると、叢雲が晴れるのかしらと見えるのにつけて。
[歌] 見ているうちに雲は晴れてゆき、明るさを増してゆく月の光も、心にかかっている人のために、私の目にはなお涙で雲ってみえるのだ

車おこせつつ、人のもとへ行きなどせしに、「主つよく定まるべし」など聞きしころ、なれぬる枕に、硯の見えしを引き寄せて、書きつくる

(たれ)が香に思ひ移ると忘るなよ夜な夜ななれし枕ばかりは(家集147)

【通釈】[詞書] 向うから何度も車を寄越して、その人の所へ泊りに行ったりもしていたのだが、「奥さんがちゃんと決まるだろう」などと聞いた頃、寝なれた枕に、硯がそばにあったのを引き寄せて、歌を書き付けた。
[歌] たとえあの人が誰かの香に思いを移しても、おまえは忘れないで。毎晩寝なれた枕よ、おまえだけは。

【語釈】◇人のもとへ この「人」が指す相手については藤原隆信・平資盛両説がある。詳しくは平資盛の頁を参照。◇主(ぬし) 嫡妻。正妻。

【補記】資盛の返しは、「心にも袖にもとまる移り香を枕にのみや契りおくべき」。

月の夜、例の思ひ出でずもなくて

面影を心にこめてながむれば忍びがたくもすめる月かな(家集171)

【通釈】[詞書] 月のきれいな晩、いつものように、あの人のことを思い出さないこともなくて。
[歌] あの人の面影を心に秘めて、思い出すまいと努めながら夜空を眺めると、やはり堪えきれなくなってしまう。あまり美しく澄んでいる月に。

【参考歌】源俊頼「散木奇歌集」
いにしへの面影をさへさしそへて忍びがたくもすめる月かな

宮にさぶらひし雅頼(まさより)の中納言の女(むすめ)、輔殿(すけどの)といひしが、物言ひをかしく憎からぬさまにて、何事も申し交はしなどせしが、秋ごろ山里にて、湯浴むるとて、久しく籠りゐられたりしに、事のついでに申しつかはす (二首)

栗も笑みをかしかるらむと思ふにもいでやゆかしや秋の山里(家集180)

【通釈】[詞書] 中宮にお仕えしていた、雅頼中納言のむすめで輔殿という人が、おしゃべりが面白く、容姿も可愛いので、なんでも話し合ったりする仲だったが、秋頃山里で湯を浴びるというので、長いこと籠っていられた。そこへ、ある機会があって言い送った。
[歌] 栗も笑ってはじけ、面白いだろうと思うにつけ、さあ、私も行ってみたいものだ、秋の山里に。

【語釈】◇栗も笑み 熟した栗のいがが割れることを言う。

このごろは柑子(かうじ)たちばななりまじり木の葉もみづや秋の山里(家集182)

【通釈】この頃は柑子や橘など木の実がまじってなり、木の葉も紅葉しているかしら、秋の山里では。

【語釈】◇柑子 みかん類。◇もみづや 紅葉しているだろうか。「もみづ」は草木の色が変わる意の動詞。

その春、あさましく恐ろしく聞こえしことどもに、近く見し人々空しくなりたる、数多くて、あらぬ姿にて渡さるる、何かと心憂く言はむかたなく聞こえて、「誰々」など、人の言ひしもためしなくて

あはれされば(これ)はまことか猶もただ夢にやあらむとこそ覚ゆれ(家集212)

【通釈】[詞書] その年(寿永三年)の春、ただもう驚くばかり恐ろしい噂が耳に入ってきたが、親しく顔を合わせていた(平家の)人々で亡くなった人が大勢いて、変わり果てた姿で都大路を引き回されるなどと、何かと辛く言いようもない話が聞えて、「誰それが…」など、人々が噂しあったのも、例のない酷いことに思えて。
[歌] ああ、それなら、これは本当なのか。でもやはり、ただ夢を見ているだけではないのかと思われるのだ。

【補記】寿永三年(1184)一月、源頼朝に平氏追討の宣旨が下され、平家一門は安徳天皇を奉じて福原に至った。翌月、義経らの軍が一谷を攻め、重衡は捉えられ、宗盛は屋島に逃れた。三月には、維盛が熊野沖に入水。重衡は資盛の叔父、維盛は兄にあたり、右京大夫とは戯れの恋のやり取りもした仲であった。

あだならぬ便りにて、確かに伝ふべきことありしかば、「かへすがへす、かくまでも聞こえじと思へど」など言ひて

おなじ世となほ思ふこそかなしけれあるがあるにもあらぬこの世に(家集218)

【通釈】[詞書] いい加減でないつてがあって、確実にその人(資盛)に手紙を送ることのできる機会があったので、「よくよく、こんな程度の便りも差し上げまいと思っていましたが」などと言って。
[歌] あなたと私は、まだ同じ世に生きているのだと、やはり思ってしまうのですが、そう思うこと自体が悲しいのです。生きていても、生きていると言えないようなこの世に…。

【語釈】◇あるがあるにもあらぬ 生きている人が、生きているとも言えない。省略した詞書にある資盛の言葉「今は身をかへたると思ふを、誰もさ思ひて、後の世をとへ(今は死んだ身と思っているのですから、誰もそう思って、私の後世を弔ってください)」を踏まえる。西国に落ち延びて「死んだも同然」と言っている資盛、その資盛に生きて二度と逢う機会もないと悲しむ右京大夫。そうしたお互いの心を「あるにもあらぬ」に籠めていると思われる。

【補記】風雅集17-2007に入集。詞書は「おなじころ、右近中将資盛西国に侍りけるに、たよりにつけて申しつかはし侍りける」。

またの年の春ぞ、まことにこの世の外(ほか)に聞きはてにし。そのほどのことは、まして何とかは言はむ。みなかねて思ひしことなれど、ただほれぼれとのみ覚ゆ。あまりに堰きやらぬ涙も、かつは見る人もつつましければ、何とか人も思ふらめど、「心地のわびしき」とて、引き被(かづ)き寝くらしてのみぞ、心のままに泣き過ぐす。「いかで物をも忘れむ」と思へど、あやにくに面影は身に添ひ、言の葉ごとに聞く心地して、身をせめて、悲しきこと言ひ尽くすべき方なし。ただ限りある命にて、はかなくなど聞きしことをだにこそ、悲しきことに言ひ思へ、これは何をか例(ためし)にせむと、かへすがへす覚えて

なべて世のはかなきことをかなしとはかかる夢見ぬ人やいひけむ(家集223)

【通釈】[詞書] 翌年(元暦二年-西暦1185年-)の春、本当にこの世の人でなくなったと、とうとう聞いてしまった。その頃のことは、これ以上なんと言うことができよう。すべて予期していたことであったけれども、ただ呆然とするばかりだった。止めようもなく堰を切って流れる涙も、人目が憚られるので、他人はどうしたのかと思うだろうが「気分が悪いので」と言って、衣(きぬ)を引き被って寝て暮らしてばかりいて、心のままに泣いて過ごした。「何とかして忘れよう」と思うけれど、心に反してあの人の面影はいつも離れず、人の言葉を聞けばあの人の声を聞くような心地がして、我が身を責めさいなむ。そんなふうで、悲しいことといったら言い尽くすすべもない。寿命が尽きて亡くなったと聞いた時だって、世間では悲しいことに言ったり思ったりするものなのに、このような人の死は、何を前例として心を納得させればよいのか。そんなことを繰り返し思って。
[歌] どんな死であろうと、総じて人の死は悲しいだなんて、こんな酷い夢を見たことのない人が言ったのではないか。

【語釈】◇世のはかなきこと 世が無常であること。人が死すべき運命であること。◇かかる夢 資盛の死を指す。

【補記】元暦二年(1185)三月二十四日、資盛は平家一門の人々とともに壇ノ浦に入水した。享年二十五歳。

秋深き山おろし、近き梢に響きあひて、懸樋(かけひ)の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、いづくものことなれど、例(ためし)なき悲しさなり。都ぞ春の錦を裁ち重ねて候(さぶら)ひし人々、六十余人ありしかど、見忘るるさまに衰へはてたる墨染の姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる。その人々にも、「さてもや」とばかりぞ、我も人も言ひ出でたりし、むせぶ涙におぼほれて、すべて言も続けられず

今や夢昔や夢とまよはれていかに思へどうつつとぞなき(家集240)

【通釈】[詞書] 秋も深まった山おろしの吹きすさぶ音が、近くの梢に響き合って、懸樋の水の流れてくる音、鹿の声、虫の音なども混ざり合う。どこにでもあるような山里の風情なのだけれど、今の私には例のない悲しさに感じられる。都では花やかな模様の着物を着重ねてお仕えしていた女房たちが六十人余りもいたけれども、ここ大原の庵には、目にもつかないほど地味な、衰え果てた尼の姿になって、わずかに三、四人がお仕えするばかりである。その人々とも、「それにしてもまあ」とだけ、私も相手も言い出したものの、むせぶ涙に溺れて、最後まで言葉を続けることもできずに。
[歌] 今が夢なのでしょうか、昔が夢なのでしょうか。心は迷われて、どう思っても、現実という気がしません。

【補記】平家滅亡後、以前仕えていた建礼門院徳子(安徳天皇の母)の住む大原寂光院の庵を訪ねた時の作。
風雅集17-1915に入集。詞書は「建礼門院大原におはしましける比まゐりたるに、夢の心ちのみして侍りければ、思ひつづけ侍りける」。第三句は「たどられて」。

十二月一日ごろなりしやらむ、夜に入りて、雨とも雪ともなくうち散りて、村雲騒がしく、ひとへに曇りはてぬものから、むらむら星うち消えしたり。引き被き臥したる衣(きぬ)を、更けぬるほど、丑二つばかりにやと思ふほどに、引き退(の)けて、空を見上げたれば、ことに晴れて、浅葱色なるに、光ことごとしき星の大きなるが、むらもなく出でたる、なのめならずおもしろくて、花の紙に、箔をうち散らしたるによう似たり。今宵初めて見そめたる心地す。先々も星月夜見なれたることなれど、これは折からにや、ことなる心地するにつけても、ただ物のみ覚ゆ

月をこそながめなれしか星の夜の深きあはれを今宵知りぬる(家集252)

【通釈】[詞書] 十二月一日頃だったろうか、夜になって、雨とも雪ともなく、ぱらぱらと落ちて来て、叢雲があわただしく往き来し、すっかり雲に覆われはしないものの、ところどころ星が消えたり光ったりしている。私は衣(きぬ)を引き被って横になっていたが、夜が更けた時分、丑二つ(午前二時半)頃かと思った時、衣をどかして空を見上げると、みごとに晴れて、薄藍色の夜空に、異様なほどの光を放つ大きい星々が、いちめんに現れていた。非常に心惹かれるさまで、縹(はなだ)色の紙に、金などの箔を散らしたのによく似ている。今夜初めて見たような気がする。今までも、星月夜は見慣れてきたけれども、これは折も折とて、格別な気持がするにつけ、ただ物思いに耽るばかりである。
[歌] 月を眺めながら物思いに耽ることは、これまでもし慣れてきたけれど、このような星空の夜の深い情趣は、今夜初めて知った。

【補記】資盛の死の悲しみから心を癒し、同時に亡き恋人を弔おうと、比叡坂本(延暦寺の門前町で、多くの寺院があった)に旅した時。一日(ついたち)であるから、月は見えず、星だけの見える夜であった。参考サイト:建礼門院右京大夫の見た星空

【補記】玉葉集15-2159に入集。詞書は「やみなる夜、星の光ことにあざやかにて、晴れたる空は花の色なるが、こよひ見そめたる心ちしていとおもしろく覚えければ」。

海のおもては、深緑くろぐろと恐ろしげに荒れたるに、ほどなき見わたしの向ひに、うるはしき舟路にて、空はあなたのはたにひとつにて、雲路に漕ぎ消ゆる小舟の、よそめに波風の荒くなつかしからぬけしきにて、木草もなき浜辺に、堪へがたく風は強きに、いかにぞ、波に入りにし人の、かかるわたりにあると、思ひのほかに聞きたらば、いかに住み憂きわたりなりとも、とどまりこそせめなどさへ案ぜられて

恋ひしのぶ人に近江(あふみ)の海ならば荒き波にもたちまじらまし(家集259)

【通釈】[詞書] 湖面は深い緑色が黒ぐろとして、恐ろしげに荒れているが、程近く眺望のひらけた向うには、まっすぐな舟の航跡が見え、空は湖のかなたの端で水面とひとつになっいて、一艘の小舟がまるで雲の中に漕ぎ隠れてゆくかのよう……はた目にも、波風が荒くて馴染めない雰囲気で、木も草もない浜辺に、風は耐え難いほど強く吹き付けるにつけ、どうであろう、波に身を投じたあの人が、こんな荒涼とした辺りに沈んでいると、思いもかけず耳にしたとしたら……。どんなに住みづらい場所でも、きっと私は留まっただろうと、そんなことさえ考えられて。
[歌] 恋い慕う、亡きあの人に逢える近江の海だというのなら、荒い波にも入ってゆくだろうに。

【語釈】◇近江の海 琵琶湖の古い呼び方。「逢ふ」を掛ける。

【補記】玉葉集17-2416に入集。詞書は「前右近中将資盛みまかりてのち、しがの浦を過ぎ侍りけるに、風ふきあれて浪のたつをみるにも、かかるわたりにもあらましかばなどおもひいでられてよみ侍りける」。

弥生の二十日余りのころ、はかなかりし人の、水の泡となりける日なれば、例の心ひとつに、とかく思ひ営むにも、わがなからむのち、誰かこれほども思ひやらむ。かく思ひしこととて、思ひ出づべき人もなきが、堪へがたく悲しくて、しくしくと泣くよりほかのことぞなき。わが身のなくならむことよりも、これが覚ゆるに

いかにせむわが後の世はさてもなほ昔の今日を問ふ人もがな(家集269)

【通釈】[詞書] 三月二十日過ぎの頃、その日は、はかない仲であった人が水の泡と消えた日なので、いつものように、私の心一つで、あれこれと心を配り、法事の支度をした。そうするうちにも、私が死んだ後、誰がこれほどあの人のことを思いやってくれるだろうか。私がこんなに深く思っていたことだからと、あの人の命日を思い出してくれそうな人のいないことが、耐え難いほど悲しくて、しくしくと泣くよりほか仕方ない。自分が死ぬことよりも、そのことが気がかりで。
[歌] どうしよう。私の死んだあとの世は……私がいなくなっても、なおあの人の亡くなった日を、弔ってくれる人があってほしい。

【補記】玉葉集17-2353に入集。詞書は「前右近中将資盛みまかりて後、忌日にしのびて仏事などいとなみても、わがなからむ世にたれかはこれ程もとぶらはむなどかなしくおもひつづけて読み侍りける」。

年々、七夕に歌を詠みて参らせしを、思ひ出づるばかり、少々これも書き付く (二首)

聞かばやなふたつの星の物語たらひの水に映らましかば(家集278)

【通釈】[詞書] 毎年、七夕に歌を詠んで供えていたのを、思い出せるのだけ、これも少し書き付けておく。
[歌] 聞きたいなあ。彦星と織姫の語らいを。ふたつの星の光を盥の水に映す時、二人の語り合う様子まで映ったなら。耳を寄せて、聞けるのにねえ。

【語釈】◇たらひの水 七夕の夜、盥に汲んだ水に二星を映して見るという風習があった。

書きつけばなほもつつまし思ひ嘆く心のうちを星よ知らなむ(家集318)

【通釈】心のうちを書き付けたら、やはり気が引けてしまう。悲しい思いに嘆息する私の心を、星よ知っておくれ。

思ひのほかに、年経てのち、また九重の中(うち)を見し身の契り、かへすがへす定めなく、わが心の中(うち)も、すぞろはし。藤壺の方ざまなど見るにも、昔住みなれしことのみ思ひ出でられて悲しきに、御しつらひも、世のけしきも、変りたることなきに、ただわが心の内ばかり、砕けまさる悲しさ。月の隈なきをながめて覚えぬこともなく、かき暗(くら)さるる

今はただしひて忘るるいにしへを思ひ出でよと澄める月影(家集323)

【通釈】[詞書] 何年か後、思いがけず宮中に再出仕することになった。前世からの宿命は返す返すも計り難く、私の心中も落ち着かない。藤壺のあたりを見るにつけても、昔暮らし慣れた時のことばかり思い出されて悲しいが、殿中の装飾も、あたりの雰囲気も変わりはないのに、私の心の中だけは、ますます千々に砕けて、その悲しさといったら…。曇りなく照る月をじっと眺めては色々と思い出してばかりで、涙に目の前が暗くなる。
[歌] 今はただ、無理に忘れようとしている過去のことを、まざまざと思い出せとでも言うように、冴え冴えと光る月の光よ。

【語釈】◇また九重の中を見し 後鳥羽天皇の内裏に再出仕したことを言う。建久年間の後半(1190-99)頃のことかという。作者は四十代半ばであったろう。◇藤壺 宮中五舎のひとつ、飛香舎。かつて建礼門院徳子が住んでいた。

【参考歌】藤原隆信「隆信集」
もろともにながめし夜はのむつごとを思ひ出でよとすめる月かな


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日